探偵は教会に棲む Returns 

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Return32:回想


 その人は、とても恐ろしい人だった。
 いつもピリピリしていたし、自分よりも遥かに非力と見える娘に対して一切の容赦がなかった。
 なにかにつけてはヒステリーを起こし、モノに当たり散らすのは日常茶飯事。それでも自分に敵意というべき感情が向けられないだけまだよかった。ひどいときには殴られたりけられたりは当たり前だったのだから。
『なぜ、あんたが私の娘なの!?』
 それは彼女自身が疑問だった。
 こう問いかけたかった。
『じゃあなぜ、あなたはわたしの母親なの?』
 彼女に『母性』とでも呼ぶべきものを感じたことは、残念ながら一度もなかった。
 たしかに食事は提供してくれる。質素だったが、何も食べられないよりははるかにましだ。世界には食べ物すら満足に得られない国もあるということは知っていたから。
 文句は言えなかった。
 扱いこそ雑だったが、それなりに生きるために必要最低限のものは用意してくれているのだから。
 それでも、それでも欲しかったものを買ってもらった記憶がない。
 その人は大人なのだから、一人でも生きていける。
 だが、少女だった自分には金銭を得るための選択肢などなかった。
 今は亡きあの人が口癖のように言っていたことを思い出す。
『……男の子だったら』
 その言葉は何度、少女だった自分を打ちのめしたことだろうか。
 長かった髪を切ろうとして、馴染みの少年に止められた。男の子の格好さえしていれば癇癪も少しは収まるだろうという期待があったのだ。実際にその人は少女には少女らしい服をワンピースを何年かに一度だけ、買ってくれただけだった。残りの服は、すべて少年のものだった。
 やがてその人は精神を病み、アルコールに耽溺するようにもなった。だが決して呑みすぎるということはなかった。職業病だと彼女が誰かとの電話の際に言っていたことを思い出す。見た目と身体が資本の仕事なのだから、できるだけセーブしなくちゃね。そんなことを言っていた。
 飲んだくれている時点で仕事も何もないだろうが、言っている本人はまだ働く気でいたらしい。職業上の年齢からすれば、だいぶ老けていた。それでも同じ年齢の女性に比べればはるかに美しかったのだが。

 ――父親がいれば違ったのだろうか?

 物心ついてから知ったことだが、大半の父親は娘には甘いものらしい。それならば、父親と呼ぶべき相手さえいれば、少しはこの待遇も違ったものになっていたのだろうか? ……もっと、『幸福』と呼べるものだったのだろうか?
 一般的に子供というものは両親に見守られて育つ者だと知ってからは、ずっと父親の影を探していた、探し求めていた。
 どんな男だったのか。
 なぜ自分たちを捨てたのか。
 そんなに気に食わない妻と娘だったのだろうか。
 どれほど彼女が賢いと言われるタイプだろうが、写真の一枚もないのでは推測の仕様がなかった。だから、ただ想像した。
 街ゆく大人の男を見ては、「こんなパパだったらいいのに」「こんなパパだったら優しそう」……そんな他愛のないことを思った。どうせ実の父親が自分たち母娘のところに戻ってくる可能性はないのだから、想像するくらいは自由だと思った。夢想する権利はあると思った。
 そんな日々が続いたのち、母親が珍しいことに昔のアルバムを見ている現場に出くわした。
 母は、その時もアルコールを摂取していて、意識が危うかった。酩酊状態で身体にいくつもの傷を作った後だった。……しかし、娘としてはそれ自体は痛ましいものかもしれないとは思ったものの、大事なのは結局自分自身だった。そっとアルバムを覗き込んだ。
 そこに母親と一緒に写っている男は、実に美男子だった。
 母よりは年下、若く見えるし、実際に若いのだろう。甘い頬笑みを浮かべて、腹の膨れた母を抱いている。これだけ見れば、生まれてくる赤ん坊の将来には何の陰りもない。美しい両親から生まれ、美貌を受け継ぎ、両親から目いっぱい愛されて育つ――。きっと誰もがそう信じて疑わないだろう。
 
 ――これが、わたしのパパ?

 自分とは似ていないと一番感じたのは、髪の色だった。
 父親は真っ黒な、艶やかな髪をしていた。瞳も黒い。明らかに自分とは似ていない。
 
 ――パパじゃないの?

 少女だった彼女は失望した。こんなにもあっさりと。
 大きすぎた期待は、裏切られた時のショックに耐えられなかった。父と再会できたら、思い切り甘えるつもりでいた。怒らない人だったら、これまで放置してきたことについて文句のひとつ――実際にはひとつでは済まないが――でも言ってやりたかった。
 それなのに、なんと残酷な事実だろう。
 しかしそれならば、なぜこの男は母と一緒に笑顔で写真に収まっているのだろうか?
 似ていない親子もいる、たしかに。だがここまで似ていないとなると別人だと考えるしかない。……ならば、なぜ身重の母と共に写っているのだろう? 母も母で、なぜこれほど嬉しそうに微笑んでいるのか?
 解らない。どう考えても、どんな可能性を考えても、結論が出ない。
 ……それも無理もなかった。
 なぜならば少女はまだ、幼過ぎたのだから。

 その時の写真を偶然見つけた現在の彼女は、再び思考の海に沈むのだった。

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2017年 9月5日 莊野りず


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