茜はイライラしていた。
クロコダイル……黒田がほぼ四六時中見張っているせいで、落ち着かない。更に悪いことに、彼もまたあの男の被害者だということだった。あの火傷の跡は、爆弾魔である認めたくない実父のつけたものだろう。あの男はいつものらりくらりと人を傷つける。そのとばっちりでシェーンまで傷つくのは許しがたい。
「……あのさ」
「なんでしょう?」
「僕が気に食わないんならさ、護衛なんかいらないよ。とっととさくらさんの方に戻ったら?」
「そうはいきません。いくら貴女があの男の娘でも、仕事は仕事ですから。プロは妥協しないものです」
このやり取りも何度目だろうか。若葉からの緊急の連絡を無視するほど、茜は無慈悲でもなかったし、だから明を行かせた。シェーンはあれから部屋にこもりきりで出てくる気配は一向にない。なにもかもがここにいないあの男のせいだと思うと腹立たしかった。同時に、自分がとてつもなく無力であると思い知らされた。
「それで、その時、クロコダ……黒田さんには妻や子供はいたの?」
「それは極めてプライベートなことゆえ、お答えできかねます。貴女かてプロの探偵ならば、プライバシーの保護がどれだけ大事なのかは理解しているでしょう? そういうことですよ」
黒田は無表情に言い放った。既にスーツはネクタイまでびしりと締めているが、あのひどいやけどの跡はそうめったやたらに見られるものではない。ただ、茜には引っかかることがあった。
「……こんなことを訊くのはおかしいって思われるだろうけど、一つ訊いていい?」
「なんです?」
「貴方にそのやけどを負わせたのは、本当にあの男なの? 大西隆で間違いないの?」
「……何が言いたいのか察しかねますが?」
「もしかしたら、貴方を襲ったのは大西ではないかもしれない。いや、むしろその可能性の方が高い」
「どういうことでしょう?」
茜は神父と過ごした十数年前のことを思い出した。神父はたしかに言っていた。大西隆は完璧主義者で、生き残りを許さないし、認めない、と。ならば今、茜の眼の前にいるこの屈強な男かて、すでにこの世にいないはずなのだ。いくら体格で大西に勝っていようとも、彼の悪魔的な犯罪に関しての頭脳にかかれば、そんなものは障害にすらならない。むしろ最大限に利用して来るだろう。そのことは茜と、今は亡き神父が一番よく知っていた。
しかし、そんな推理を、例え正論だったとしても、目の前の男にぶつけたところで返ってくるのはきっと怒りだろう。人には理解できても認めたくないことは少なくないということは、この十年の間に茜も学んでいた。伊達に歳を重ねただけではないのだ。それでも大西を仇と思っている限り、茜の周囲の人間関係がギスギスすることはたしかで、どうにかしなければ居心地が悪くてたまらない。なによりも、大事な若葉の親友であるシェーンを傷つけたのは許しがたい。あんな美少女を、いやいや、美少女じゃなくてもだ。
「何か引っかかることでもあるのですか?」
「引っかかることはあるけど、それを言ってもきっと貴方は信じない」
「言うだけならタダではありませんか? ただそれだけで我々の誤解が解けるのならば万々歳ではありませんか。何をそんなに躊躇われるのです? まさか、あの男に他にも子供がいるとでも?」
「いや、僕が知っている限りではあの男の子供は僕と若葉だけだよ。ただし、『あくまで』だけどね。本当のところは大西自身も把握していないんじゃないかな? 若葉の母親なんか、『優秀な子供が欲しかったから』大西と結婚した、らしいからね。……理解に苦しむよ、ホントに」
「そんな女性までいるとは……。それで、貴女の母親はどうして貴女を生んだのですか? どうして大西と結婚したのですか?」
茜は肩をすくめた。
「そんなのは僕の方が知りたいくらいだよ。なぜ京都の芸者をやっていた僕の母が、よりにもよって大西のような男と駆け落ちなんかしたのか。……神父が生きていたらその辺の事情も聞けたかもしれないんだけど。もう、この世にはいないからねぇ。僕の母がなぜ大西なんかに惹かれたのかなんか僕は知らないよ」
「神木修一、ですか。彼は貴方を庇って死んだと聞きました。最期まで憎い仇の娘である貴女を。その心境は私には到底理解できませんね。実の娘の方が何のつながりもない義理の娘よりも大事に決まっている」
黒田は理解しがたいという眼をした。しかし、茜にはなぜ神父があの時に自分を助けようとしたのか、うっすらと理解できるようになっていた。
「……解ってもらおうなんて思ってないよ。それに、解ってもらいたくない。神父の本音は、神父だけのものだから。誰にも冒すことはできないんだから」
神父――神木修一は、最期になにか三文字の言葉を呟いていた。そのくちびるは少なくとも『アカネ』とは言っていなかった。たぶん、見知らぬ彼の妻か娘の名だと思う。死者に嫉妬しても仕方がないが、あの時だけはどうしようもなかった。なぜ長年一緒に過ごした自分の名を呼んではくれないのか。それはずっと彼を『神父』としか呼んでこなかったことの報いだと思ったものだ。
「理解しがたい関係です。貴女と、神木修一。彼は憎い妻子の仇を自分の娘として愛した。それは聖職者であるからなのか、もしくは彼自身がそういう性質を持っていたからなのか。私ならば同じ立場に立ったのならば、仇の娘など利用するだけ利用して捨てますよ」
茜は自虐的に笑う。そう、神父も本当なら――。
「最初はさ、神父だってそのつもりで僕を引き取って育ててたんだよ。けどね、人間の感情ってそんなに簡単、単純じゃないらしくてね。憎いはずの僕が、なぜか愛おしいと思えるようになったそうだよ。……ホントに、お人好しだったなあ神父は」
懐かしくなって、茜は目を細める。くりっとした目元は十年前とほぼ変わりはないものの、若干の年齢が重なっていた。茜だって、いつまでも童顔ではいられない。いつまでも保護者の庇護を必要としてはいられないのと同じように。
「…………」
黒田は何事か考え込んだ様子だったものの、茜があまりにも罪のない表情をしているので一気に毒気が抜けた。親しかった故人を想う時、人は皆こんな表情を浮かべるのかもしれない。彼にも思うところはあった。
気に入らない安藤智也が、当時女子高生だった今の主である三ツ星さくらに川岸コンッツエルンを継げと告げた時、黒田もその場にいた。慣れた場ではあるものの、その場では異分子以外の何物でもなかったさくらには智也しか表立った味方はいなかった。密かに彼女の義姉に反発していた者もいたが、年功序列のあの場では口を挟めない。黒田はその時に川岸源次郎という先代社長の死を知った。ショックだったが、さくらはあらかじめ知っていたらしく、あまり動揺はしていなかった。思えば、すでに安藤探偵との出会いのきっかけがその事件だったそうだ。あの時のさくらはそれまで日向にいたはずなのに、背筋をピンと伸ばし、立派に跡を継いだのだった。
「……黒田さん?」
「あ、あぁ。少々思い出に浸っていました。宮下探偵、私は貴女が神父と呼び慕っていた神木修一とは違います」
「解ってるよ、そのくらい」
「勘違いしないでいただきたい。私は彼と違って、あの男と相対してもそう容易く殺されやしないということです」
「いや、向こうはいつも搦め手で来るんだよ。いくらこっちが用心していても、いくら貴方のように屈強な男が傍にいたとしても――」
「私はプロだと何度も申し上げたはずです。私が忠誠を誓い、障害護っていきたいのはさくら様ただひとり。貴女は正直に申し上げれば憎い仇だ。だが、主がそう望むのならば、部下は従うものです。それが主従関係というもの。だから私は貴女を護る。たとえ憎かろうが、殺してやりたくなる時もあろうが、今は貴女が私の仮の主です」
黒田もさすがは『プロ』を連呼するだけに、意識が高かった。対する茜もこの譲歩された誠意には応えたかったが、生憎とシェーンに対する謝罪がなかったのでついそっぽを向いた。
「……尽くされるってのも重いもんだね。さくらさん、ご愁傷さま」
そう、憎まれ口をたたくのが精いっぱいだった。
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2017年 5月18日 莊野りず
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