「フォア・イッシキ!」
『イッシキ』と独特の発音で呼ばれるのには、もう慣れた。ドイツに来て最初は三年間、母親が寂しがったので六年間を日本で過ごし、医師として勤め始めたのが一年前だ。こうして若葉の十年間は充実したものとなった。……この相手に返事をしてしまえば、その充実した日々があっさりと崩れ去るような、そんな気がした。しかし、返事をしないわけにもいかない。相手は仮にも先輩医師である。
「ヤー?」
仕方がなしに相手の方を振り返ると、エアメールが届いていた。若葉はそれをひったくるように受け取ると、まずは宛名を確認した。アルファベットが並び、『Wakaba Isshiki』と記されている。間違いなく、これは自分へのものだ。
そして次に確認したのは、送り人の名だった。そこには、『Akane MiyashitaI』と癖のある字で書いてあった。若葉はすぐにこの手紙を処分してしまいたかったが、そうもいかないことは知っていた。義姉がエアメールを贈ってくること自体が緊急事態だった。
「まったく、わたくしには休む暇もないというのに……」
若葉の天才ぶりは健在で、先日ももう助からないと余命宣告を受けていた患者の命を救ったばかりだった。やはりこの道――医学の道は自分に合っていたのだと確信した。それなのに、あの出来の悪い義姉ときたら、また若葉を振り回すつもりだ。勘弁してもらいたいものだ。
「イッシキ?」
「ナイン」
なんでもないとだけ断りを入れて、休憩室から去る。どうやらこうして平和な日々に浸っているのももう限界らしい。十年前の袂を分かった最愛の父が、再び猛威を振るうかもしれないと手紙には書かれていた。実父である大西隆は、例え実の娘であろうが自分の邪魔をする者には容赦がない。十年前までは彼の庇護下にいたから安心だったが、今は違う。袂を分かつということはそういうことだ。
「……パパ」
インスタントのコーヒーを飲みながら、若葉は呟いた。どうかこれ以上罪を重ねないでほしいという願いを込めて。
更に気になったのは、若葉の親友を名乗る者が教会を訪ねてきたということだった。親友と聞いて思い出せるのは一之瀬小夜子ただひとりだけだった。彼女ももう釈放されている頃だろう。若葉の身体を冷たい汗が伝った。
日本の空港はサービスがいい。そう実感するのは、しばらく海外にいたからだった。掃除からなにから、すべてをスタッフがやってくれる。海外ではこうはいかない。空港に降り立った若葉は、風船を追いかけて走り回る幼い女の子を見た。自分にはあんな時期はなかった。無邪気に無心で遊ぶような環境など、天は若葉には与えてはくれなかった。その代わりに与えられたのは、明晰な頭脳。彼女の近くで危ないとでも言いたげにうろついているのは母親だろうか。それにしては共通点は見られない。
そんな観察をしていると、少女は若葉の元へ寄ってきた。風船が観葉植物に引っかかったらしい。若葉は彼女に風船を取ってやった。
「はい。もうこんな真似はするんじゃなくてよ?」
「うん、ありがとう、おねえちゃん!」
少女は若葉から風船を受け取ると、身軽に身体をひるがえした。右側にだけ結ってある三つ編みが揺れた。母親と思しき女性が慌てて傍に寄ってくる。少女は「ママ」と無邪気に笑う。
「すみませんでした。もう、この子ったら!」
「いえ、大したことは――」
その時、若葉は見た。ライターを持った黒いフードを被った男が風船に火を着けようとしているのを。
「危ないッ!」
若葉は少女がきつく握ったひもを無理に離させた。空に舞い上がってゆく風船を見た男は、舌打ちをして去って行った。少女の顔が歪む。
「ふうせん……」
「危なかった」
風船が空気中で浮くためには、ヘリウムガスが必要だ。あの男は風船に火を着けて爆発を狙ったのだろう。わざわざフードを被っていたのは、身元を特定させないための小細工に違いない。そして若葉にはこんなことをしてくる知り合いなどひとりしか思い当りがなかった。
「……まさか、パパが?」
あの男を敵に回すということはこういうことだ。それを若葉は身をもって思い知らされたのだった。
「顔色が悪いようですが……?」
女性が尋ねてきた。事情を知らない彼女まで巻き込むわけにはいかない。若葉は少女に「ごめんなさいね」と詫びた後、タクシーを拾った。行き先は義姉のところだった。どういう事情で自分を読んだのかも知りたかったし、シェーンとも会いたかった。
「…………」
乗り込むなり黙り込んだ美貌の女性を、タクシーの運転手は見惚れそうになりながらも慎重に運転した。やがて目的地である教会についた時、見覚えのある影が若葉を待っていた。
「……小夜子」
「……会いたかったわ」
それはかつての『親友』との、懐かしい再会だった。
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2017年 月日 莊野りず
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