安藤智也は連日の忙しさに参っていた。仕事のことはもちろんそうだが、プライベートが大忙しなのだ。二月に入ってから、いや入る前から、彼のスマートフォンは一分に一度、鳴るか鳴らないか。連絡してくる相手は女性ばかり。今月のことをよく知っている知り合いはまったく連絡をしてこない。……ただ一人を除いては。
『智也、いい加減に出なさいよ! あたしだって忙しいんだから! メールもぜんっぜん返さないし! あんたってそんな誠意のない奴だったワケ? あたしは――』
これと同じ内容が、もう何件留守録に入っているのだろうか。ただでさえデートの予定を調整するのに忙しい智也は、いい加減にうんざりしてきた。付き合いはたしかに長いが、それは自分を拘束していい理由にはならない。第一、智也としては遠回しにフッたつもりなのだが、相手はそれに気づいていないか、無視している。たぶん前者だろうと智也は思う。勘は鋭いが、逆に言えばそれだけの女だ。しかし、この東京でこうして高級マンションに棲めるきっかけを作ったのもまた彼女であることは否定できない。それに、自分を好いてくれる女相手に冷たくするのも罪悪感がのしかかってくる、ずしりと。
智也は迷った挙句、数年ぶりに彼女に会うことにした。あの頃は互いに小僧と小娘だったが、今となっては結婚適齢期と言われる年齢だ。結婚するつもりはないが、久しぶりに会って仕事の愚痴を言い合うくらいはいいだろう。向こうも責任とやりがいのある仕事をしているはずだ。いつまでもバカな小娘でいるわけがない。
「もしも――」
「やっと電話してくれたわね!」
一度コールしただけで相手は出た。その上、「もしもし」を言い終える前に智也の言葉を遮った。相手はまるでセールスマンのマシンガントークのごとく喋り始めた。「どれだけ連絡待ってたと思ってるの?」「あたしのこと忘れたわけじゃないわよね?」「いっつも仕事仕事って、絶対嘘でしょ! 他の女のことで頭がいっぱいなんでしょ? いつまで美千代さんの背中を追っかけてる気よ?」……相変わらずだ、本当に変わっていない。
「……せっかくこの俺がバレンタインに予定を開けてやろうと思ったのにな」
「悪かったわ。で、何時にどこで待ち合わせ?」
智也の一言で、相手の声音はあっさり変わった。この調子では、悪い男にもあっさり引っ掛かりそうで心配になる。智也らしからぬ調子を狂わせてくる相手。それは昔からだ。
「具体的なスケジュールはおまえに合わせてやるよ。忙しいんだろ? なんせ社長様だ。株価も上がってるし、おまえって案外優秀だったんだな」
「らしくないじゃん。智也がそんな風にあたしのこと認めてくれるなんて。嫌な気はしないけど、それって死亡フラグみたいよ?」
「俺が褒めてやってるのにその言い草は何だよ……」
智也は思わず脱力した。彼女はいつも智也を脱力させる名人だった。あまりにも頭のレベルが違い過ぎて、逆に感心することもしばしばだった。しかし、女社長に就任してからは社長という肩書の重さと責任感が芽生えたのか、バカっぷりはだいぶましになった。だが、部下がいないプライベートな時間では相変わらずらしい。そのことにどこかほっとした。最近はどうも周囲がキナ臭くてたまらない。こんな時は頭を空にして楽しんだ方が精神衛生上、楽だし安定するものだ。
相手の彼女の名前は三ツ星さくら。智也が大学生の時に、初めて解決した事件の被害者の娘であり、一緒にいくつかの事件を解決した元パートナーだ。
「じゃあ、車も待機させておくわ」
三ツ星さくらは自室のキングサイズのベッドに倒れ込んだ。それまではベッドに腰掛けていたのだが、緊張がほぐれた。昔は、女子高生だった時は、怖いものなしというかガンガン距離を詰めて話したものだったが、今ではだいぶ距離を感じるようになった。それはきっと、智也が気を遣ってくれているのだと思う。義姉との遺産分与で揉めた時は、その場の流れでキスをせがんだが、してくれなかった。たぶんその拒絶も気遣ってのことだろう。智也は俺様のナルシストだが、女性という性別には優しい。イケメンで頭脳明晰、運動神経もいい。モテないはずがなかった。
そんな彼と数年ぶりに会うとなると、自然と気合も入るというものだ。智也が昔から追っている女は、疎遠になったと秘書が調べ上げていた。運転手兼秘書の鳴海は、ここ数年でだいぶ老けた。その原因は上司であるさくらにあるのだが、そんなことなどさくら本人は知らないし、どうでもいい。そうだ、バレンタイン当日は鳴海に運転させよう。大体の事情も知っているのだし。
「そういえば、なんていったっけ……一色若葉の義理の姉の、みや? みやした、だったっけ? あの子はどうしてるんだろう?」
智也と再会したのは、少年のような外見の少女の失踪がきっかけだった。彼女の行方が解らないと、その保護者に泣きつかれた智也がさくらに連絡してきたのだ。思えば、みやしたなんとかさんはキューピットのようだった。たしか、智也と同じ探偵だと聞いていたが、嫌々ながらも読むようになった新聞にも、彼女の名が載ったことはなかった。
「鳴海!」
運転手兼秘書を呼んでも返事がない。当然だ。ここは社長専用のプライベートルーム。いくら側近とはいえ、女社長の優雅なプライベートタイムを邪魔することなど出来ない。
「……ま、いっか。智也に訊けば解るしね。そうだ、お風呂お風呂! 今日は気分がいいからスパにしよう! 前日はどうしようかなあ。美容ドリンクも用意させなきゃ! あぁ、忙しい忙しい!」
さくらはバレンタインのための戦闘準備を始めた。ちなみに、彼女もまだ独身である。言い寄る男は数多くいるものの、さくらの女の勘――観察眼にかかればその目的は容易く見敗れてしまう。結局さくらに言い寄る男たちの目的は、川岸コンッツエルンの社長のイスか、さくらの魅力的な身体か、その両方が目当ての三種類の者しかいない。唯一の例外が安藤智也なのだ。だからなのか、今でも執着してしまう。たとえ智也が未だに長月美千代を追いかけていようとも。理屈ではない、それが恋なのだ。
スパから上がり、ウォークインクローゼットの中から、バレンタインのための勝負服をどれにしようかと迷いながら選ぶ。ここにあるものの半分は赤いものだった。智也の好みのタイプは『赤が似合う大人の女』のため、未だに智也のことを引きずっているさくらとしては赤は絶対に外せない色だ。彼女の眼から見れば、どれも色が違い、どれが一番いいのか迷ってしまう。美千代が普段着ているスーツと同じ色にしようかとも思ったのだが、癪に障る。結局、翌朝スケジュールを伝えに来た鳴海にアドバイスをもらって、やっと決断したのだった。
二月十四日は、どこも混んでいる。さくらは冬だというのに露出度の高い赤のワンピースに薄いストッキングを言う格好だった。一応サングラスをかけている。ピンヒールの音が歩くたびにいいメロディを奏でている。ワンピースのデコルテは丸見えで、胸元も大きく開いている。袖はやっとくっついているオマケのようなものだ。我ながらどんな時に着るんだろうと思いつつ、直感的にこのワンピースを購入していたのだが、智也に似合うと言われたくて買ったのだと今更ながらに思った。
その彼女がいる場所は、川岸コンッツエルン所有の総合娯楽施設だった。室内遊園地に、小さな動物園、水族館にプラネタリウムもある。智也は気まぐれな気分屋だから、退屈しないようにさくらなりに気を遣ったデートスポットだ。……というよりも、ここはいつか智也とデートする時に一番都合がいいようにと、さくらが自分で計画を立てて作り上げた場所だった。収入はそれほど入らなくても他の部門で取り戻せばいいと考えていたのだが、少々高価だが一枚ですべてのスポットに入場可能のフリーパスというものを考えたら、大ヒットし、口コミで大人気のデートスポットへと変わった。フリーパスでの赤字分は、テーマパークのマスコットキャラクターのグッズで補っている。さくらには案外この手の商売の才能があったらしい。そのデートスポットで、念願のデートともなると、さくらも大張り切りだ。一分ごとに時間を確認し、智也はどこかときょろきょろと辺りを見回す。
「……まだなの、智也?」
スマートフォンで連絡を入れようとした時、智也が歩いてくるのが見えた。やっと来たのかと声をかけようとして、さくらは固まった。
「よお。元気そうだな。……つーかいい加減にそんな露出狂みたいなカッコやめろよな。一緒にいる俺が恥ずかしい」
智也はさくらの勝負服を見るなり呆れてそう言ったが、さくらの方はそれどころではなかった。
「……なに、その子?」
「あん?」
智也はたしかに約束通り来てくれた。それはいい、嬉しいことだ。だがしかし、一緒に幼い女の子がいた。あろうことか、智也と仲良さげに手を繋いでいる。少女は楽しそうにきょろきょろと周囲を見回している。
「あぁ、この子は秋帆っていって、俺の――」
「やめて!」
まさか、『あの』智也が子持ちになっていようとは。さくらにはナイスバディだと褒めておきながら、指一本触れなかったくせに、他の女とは簡単にそんなことをしてしまうのか。まさか母親は美千代で、忙しい彼女に代わって、今日は智也がパパとしてイクメンぶりを見せつけようというのか? さくらは大いにパニックになった。
「なんであたしじゃなくて、美千代さんなのよ! あたしの方が歳だって近いし、お金はあるし、赤だって似合うってよく言われるし……」
「はぁ? おまえ何勘違いしてるんだよ。つーか、人の話は最後まで聞け!」
「だって、『俺の』って言ったじゃない! その後に続く言葉って決まってるでしょ!」
周囲の人々は、歩みを止めて、この奇妙な二人組の会話に耳を澄ませている。事情など知らない秋帆は呑気にマスコットキャラクターの着ぐるみから風船をもらっている。
「だから、違うっつーの! 俺のダチの子供だって言いたかったんだ! 小娘――宮下茜って探偵の助手をやってる奴で、バレンタインだってのに仕事の父親の代わりに楽しませてやってくれって頼まれたんだよ、バカだけど美人の人妻に!」
「はぁぁぁぁ!? あんたって、そこまでお人好しだったっけ? それに人妻とか……言い方がオヤジくさい! 今の智也って全然らしくないわよ! 今日はあたし、とっても楽しみにしてたのに!」
「文句なら明に言えよ。そんなに不満なら、俺は帰る」
「あぁぁぁぁ! 待って待って待って! 解ったわよ、その子も一緒でいいから! 一緒にデートよ!」
ここまで来たら、もうやけっぱちだ。さくらは智也の左腕にしがみつき、秋帆を威嚇する。子供相手に大人げないが、智也を取られるのはごめんだ。幸い、秋帆は智也のことを「おじさん」と呼び、何度もさくらを笑わせてくれた。
――もしも、あたしたちに子供がいたらこんな感じかしら?
そんなことを想像し、急に照れくさくなった。昔は子供がどうこうだなんて考えたこともなかったのに。秋帆におじさん呼ばわりされても怒らない智也を見ていると、新しい一面を発見した気分だ。新しい一面というよりも、ただ単に老けたというか、大人になっただけなのだが。
「どうかしたのか?」
秋帆を肩車しながら、智也は不審そうに訊いてきた。やけに様になっていて、秋帆も楽しそうだ。
「ううん、なんでも。……それにしてもこんなことになるんなら入場制限なんか設けなきゃよかったわ」
デートに使おうと思っていたロマンティックな場所のほとんどは、未就学児お断りなのだ。秋帆はまだ幼稚園児だから、一緒に入場できるのは遊園地に動物園くらいだ。水族館は大丈夫だろうと重役たちは言ったのだが、社長であるさくらが「コンセプトは大人の静かな場所よ」と言ってしまったので、入場はできない。そのことを猛烈に後悔している。
――だって、智也って子供とか嫌いそうだったし。
「おいどうした? さっさと行くぞ。秋帆はどこに行きたい?」
「アキホねぇ、キリンさんが見たい!」
「そーかそーか。じゃあ決まりだな」
――よりにもよって、バレンタインに動物園? せっかくつけてきた香水が台無し……。
さくらが落ち込んでいるのが智也には解ったのか、彼は頭を掻いた。その様は歳を重ねてもイケメンはイケメンだと感じさせるのに十分だった。
「さくら、言っとくがな、俺は仕事のためとかで貴重な今日この日をおまえのために使ってるわけじゃねえからな」
「じゃあなんで秋帆ちゃんを連れてくるのよ……あたしは、あたしはずっと今日を楽しみにしてたんだから!」
突然のさくらの勢いに、智也は若干動揺したものの、長い付き合いなだけに扱いは知っている。
「おまえはあの人の娘だろ? 父親の遺志を継いだんだろ? だったらそう簡単に男に惚れちゃダメだろ?」
それは智也なりの精一杯の優しさだった。探偵は危険が多い仕事だ。いつ自分に危険が迫るかも解らない。だから、世帯など持つべきではないというのが智也の考えなのだ。それは昔から、探偵になった時から決めていた、智也の信条だった。もちろん、女性にいつも騒がれていたいという理由もあるが。
「…………」
さくらは何かを言いたそうだったが、智也が何も言って欲しくなさそうだと察して、ただ用意しておいた『ブレイン』のチョコレートを渡した。『ブレイン』の日本支店の社長とは、だいぶ親しい。腕によりをかけて特製の品を作ってもらったが、今年のバレンタインにはいまいち役不足だった。
「サンキュ」
智也はそう言うと、秋帆を連れて動物園の方へと歩いてゆく。さくらのスマートフォンが鳴り、仕事の急用が入ったと鳴海から連絡が入った。帰るしかなかった。
「……じゃあ、あたし、仕事が入ったから」
車はもうすぐ来るだろう。こんな想いをしたくてバレンタインに会うことにしたわけじゃないのに。そんなさくらの気持ちに気づいたのか、智也は言った。
「じめじめすんな。来年も行き遅れだったら、気が向いたら一緒に遊んでやるよ。……今度は洒落たバーがいいな」
それは今度こそ二人きりで、という智也の甘い誘いだ。さくらは途端に嬉しくなった。
「えぇ、とびきりのところを準備させておくわ!」
今年は上手くいかなかったけれど、来年もある。さくらは鳴海の運転する車の後部座席で、さっそくバーの内装について考えを巡らすのだった。
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2017年 2月14日 莊野りず
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