『チョッコレートはオッカモットぉ!』
つけっぱなしのテレビから、そんなのんきなCMが流れてくる。茜はうっすらと眼を開けると、その画面を見つめた。画面には、『今月はバレンタイン! チョコの準備は是非オカモトで!』と表示されている。『オカモト』とは、茜がかつて憧れていた老舗チョコレートメーカーである。そのオカモト本社からは、毎年この時期になると食べきれないだけのチョコレートが送られてくる。大学を卒業してすぐに起きた事件を茜が見事に解決したので、昔の失態は水に流す事となった。取締役の子供は、今や立派な学生だ。茜はそのオカモトのチョコレートを齧りながらつぶやく。
「……神父にも食べさせてあげたかったなぁ」
口の中に飛び切りの甘さが広がる。子供の頃から貧乏生活だった茜を救ったのは、幼馴染であり、初恋の相手だったと思われる四ノ宮聡が差し入れてくれたチョコレートだったのかもしれない。その聡も、子供だった茜を育ててくれた神父も、もうこの世にはいない。茜の実父の奸計によって殺されたのだ。それも、聡と結婚すると決めていた茜の二十歳の誕生日にだった。茜はちらりとベッドサイドを見る。起き上がって近づいていく。
「…………」
純銀製の指輪とクロスは、手入れさえしていれば輝きは失われない。指輪に嵌められたサファイアと、クロスの中央に嵌ったルビーは、いつも茜を見守ってくれる二人の象徴だ。どんなことがあっても、この二つだけは手元から離してはならない。そう強く思った茜は、それらを手の中で握りしめた。
「アカネぇ、うるさいヨ」
寝ぼけ眼で茜の寝室を覗き込んできたのは、シェーンだった。オンボロで、部屋の数は少ないが、神父の部屋を彼女に貸しているのだ。シェーンは異常なほど綺麗に片付いた部屋を見て怪訝そうな顔をしたものの、すぐに「いい部屋だネ」と言って使い始めた。彼女の明るさは茜にとっては救いだった。たとえ、たったの三日間で綺麗だったその部屋を汚部屋にしようとも。
「ごめんごめん。テレビ消すから――」
「アカネ、悲しいノ?」
今の胸中を言い当てられて、茜はどきりとした。普段は何も考えていないような元気娘なのに、シェーンは妙なところで鋭い。この探偵業でも彼女のそういった点はたまに役に立っている。
「なんでもないよ。いや、ホントにさ」
「ソウ? なにかあったらシェーンに言うといいヨ! シェーンが励ましたゲル!」
眠いだろうに、いい笑顔でそう言ってくれる彼女は、茜にとってはありがたい。神父とはタイプが違うが、どこか彼を思い出させる。今年は久しぶりに墓参りに行こうかと思った。
翌朝早くに明が出勤してきた。探偵の助手という立場の彼は、いつも智也のおさがりの服を着ている。給料さえもっと出せば自分で買うかもしれないのだが、本人が愛妻家であり、若干親バカになってきた彼には智也のおさがりで十分な気がした。おさがりとはいえ、あの智也のものである以上、相当値の張るブランド品なのだろう。雇い主である茜はいつも白のYシャツに赤い巻スカート、赤いネクタイなのに。
「何かありましたか、茜さん?」
「いや? なんにもないよ?」
明のくせに勘が鋭いな、なんて茜が思っていると、シェーンがいらんことを言った。
「茜がね、昨日落ち込んでたから。シェーンが励ましたんだヨ!」
「……へぇ?」
――余計なことを。
仮にも部下の前でそんなことをばらされて嬉しい上司などいないだろう。一気に茜のテンションはがた落ちだ。今日は特に依頼も入っていないことだし、教会の掃除でもして過ごそうか。そんなことを考えていた時、教会の古い扉が開いた。ぎしぎしと音を立てる扉の方を見ると、若い女性が立っていた。年齢は自分に近いのではないかと茜は思う。少なくとも二十代から三十代だ。自分が童顔で、若く見える分、他者の年齢も大体察せる。
「あの……こちらの探偵さんに依頼したいことがありまして」
彼女はゆっくり近づきながらしゃべりだした。黒い髪を腰まで伸ばしている。茜と同じくらいの長さだ。手入れも行き届いていて、艶が美しい。知的な瞳が印象的な美人だった。
「はい、なんでしょう? うちの事務所は大抵のケースに対応しておりますが、どのようなご依頼で?」
茜の一人称が『僕』から『私』に変わるのは、仕事モードに切り替わった証拠だ。明は内心でほっとした。これで給料が入る。シェーンも美しの依頼人をじっと眺めている。
「まずはお座りになられては? 紅茶とコーヒー、どちらがお好みですか?」
「では紅茶で」
依頼人は狭い礼拝堂の椅子に腰かけると、そう答えた。シェーンにまかせるととんでもないことになるので、明が自主的に淹れる。しかし、コーヒー豆はあっても茶葉はない。ティーパックで我慢してもらうのはいつものことだ。
「それで、依頼の内容とは?」
「人を探しているんです。……私の、大事な親友なんです」
「親友……」
その言葉で、茜は先日の少女のことを思い出した。あまりにもロンドンにいた彼女に似すぎた少女のことを。彼女と自分は、果して本当に『親友』と呼べる間柄だったのか? 親友とは、隠し事をしない友達のことをいうのではないか?
「そのご友人のお名前や特徴を伺ってもよろしいですか? あれば写真も欲しいですね」
「十年……にもなりますね。写真なんてあっても役には立たないと思います。彼女は成長期でしたし……」
「でも親友ということは、同じ歳くらいですよね? 貴女が成長期なら相手もそうなのでは?」
そこで依頼人はふっと笑った。どこか小馬鹿にしたように見えたのは、茜の見間違いだろうか? どこか謎めいた雰囲気の依頼人だ。
「彼女は天才でしたし、今も天才なんでしょう。いつも自信満々で、周囲を見下して、いつも自分が、自分だけが正しいみたいな顔をして――」
「それって『親友』ですか?」
あまりにも相手を悪く言う依頼人が不思議だった。彼女はその親友とやらを探して、何がしたいのだろう。
「親友ですよ。彼女は私以外に友達と呼べる相手がいなかった。天才すぎるのも考え物ですよね。本人は『天才は神に愛された者の称号』だとか言っていましたけど。でもそれって、神様以外には愛されていないということじゃないですか?」
「さぁ? 私にはなんとも言えません。……天才、ですか?」
そこまで言ったところで、茜の頭にある人物の得意げな顔が浮かんだ。『天才は神に愛された者の称号』、いかにも『彼女』が言いそうな事ではないか。しかし、と一応は否定してみる。だが、そうしたところで思い浮かぶ可能性は彼女しかいなかった。
「……まさかそのご友人は雑誌の読者モデルとかしてませんでしたか?」
「えぇ、カリスマモデルでした。それがなにか?」
そこで八割確信したが、もしかしたら違うかもしれないと、確認を取る。
「そのご友人のお名前って、『一色若葉』っていいませんか?」
「なぜそれが解ったんですか?」
依頼人は驚いたのち、茜を尊敬の眼差しで見ている。しかし、そんなことなら解って当たり前なのだ。なぜなら――
「一色若葉は私の妹ですから。義理の、ですが」
「えぇー、若葉のお姉さまだったのですか?」
相手はさらに驚いた。つられて茜も驚いた。こんな美人な親友がいるとは。しかも学校でもいつもの我儘な女王様を隠そうともしなかったとは。
「……ワカバってそこまでユウメイだったんだネ」
シェーンが間の抜けた調子で呟いた。明は若葉の名前と顔は智也に見せられた雑誌で知っていたが、実物は見たことがないのでコメントしづらい。
「そんな人と茜さん、姉妹だったんですね……。というか、なぜシェーンが若葉さんのことを知ってるの?」
「あれ? 言ってなかったッケ? ワカバはうちにホームステイしてたんだヨ」
今更な疑問だとばかりに、シェーンはさらりと流した。大事な人を亡くしたとはいえ、用心しているはずの茜が部外者を入れるわけはないが、シェーンとはどんな知り合いなのか具体的には訊いていなかったのだ。まさか義妹のホームステイで世話になった相手だからだったとは。
「それで、今その若葉さんはいったいどこに?」
ついひそひそとシェーンに尋ねる。彼女はまったく表情を変えずに言った。
「ワカバなら、ドイツでお医者さんやってる」
ひそひそ話のつもりが、シェーンの声が大きかったので依頼人にも届いてしまった。
「え? 若葉がドイツに?」
慌てて茜がフォローに入る。
「えぇ。若葉ったら合理主義国家が心地いいと言って、留学したまま帰ってこないんです。私も最後に会ったのは十年くらい前ですから――」
今はどうしているのか。手紙ひとつ寄越さない若葉が、今はとても気になった。
「そうですか……。お姉さまにもそんななら、私には尚更ですよね」
「でも、私と若葉はそれほど仲のいい姉妹というわけでもないですし。その点、貴女は親友ですし――」
「親友、だからなんですか? もしかして探偵さんは親友ならば何でも話すとでも思っていますか?」
その剣幕に驚いた茜は、思わず訊き返していた。
「違うんですか?」
「違いますよ。親友だからこそ言えないこともあります。少なくとも、私たちはそういう『親友』でした」
「…………」
「若葉の連絡先だけでも教えていただけませんか? じゃないと不安なんです」
「解りました。ただ、お名前を伺わないと若葉が嫌がると思うので、一応」
依頼人は席を立ちながら言った。
「一之瀬小夜子です。高校時代の『親友』……」
風が吹き、彼女の長い髪がなびいた。その髪が顔に張り付いたように見えて、茜はなにか不吉な予感がした。まるで彼女が何か不吉なものを運んできたような、そんな予感が。
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2017年 2月3日 莊野りず
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