探偵は教会に棲む Returns

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Return6:誰も知らないところで


 手術室のランプが消えた。それまでじっと神に祈りを捧げていた患者の家族は、慌てて扉の傍に向かった。容体は最悪だと男性医師に告げられていたが、神の奇跡にすがればどうにかなるかもしれないと、彼らは自分を誤魔化していた。ゆっくりと開く扉の中央から出てきたのは、まだ年若い、白衣を着た女性だった。若すぎる、いや幼な過ぎると言った方が正確な形容なのかもしれない。身長はそれなりにあるものの、顔にはまだあどけなさが残っている。
「手術は――」
 患者の家族は、この次に続く最悪の言葉を想定した。そうすればショックは和らげられる。それがたとえ思い込みだとしても。
 だが、予想に反して聞こえてきたのは、笑顔と共に神の祝福のような言葉だった。
「成功しましたわ」
 マスクを外しながら、女性医師はそう言った。よく通るソプラノの声で、邪魔な髪を纏めている髪留めを外すと、ミルクティー色のウエーブのかかった髪が下りた。
「あぁ、神様!」
 患者の家族は涙ぐみ、それまで難しい手術に耐えていた患者の傍に歩み寄った。担当した彼女は「お大事に」とだけ言って去ってゆく。今の彼女は天才医師として名を馳せているものの、合理主義者が多いこの国では理にかなわないことはあまり信用されない。年配の医者の方が優秀だと思われているのだ。しかも彼女はこの国の人間ではない。遠い国から留学しに来て、もう十年ほどになる。それでも彼女は雑誌の読者モデルをしていた過去を持つほど整った顔立ちとスタイルの持ち主だった。今でもモデル業もしくは女優業にどうだという誘いが祖国からくる。
 彼女の名は一色若葉。宮下茜の義理の妹であり、爆弾魔であり殺人者である大西隆のもう一人の娘である。


 その女性は、ある取引を持ち掛けられていた。彼女には前科があり、まともな職業につくことは難しい。どれほど隠そうが、一度罪を犯した者に世間は冷たい。それが殺人ならば尚更だ。
 彼女と相対するのは、一目見ただけでは年齢不詳な男性だった。髪は白髪もない、見事な黒髪。顔立ちはどこにでもいそうな錯覚を起こさせるが、整っている。しわはない。もしも彼が微笑んだならば、女性という性別であれば大抵の者が魅了されるのではないかと思われた。
「……その条件を飲め、と?」
「不満か?」
 彼女はたじろいだ。相手のことはよく知っている、プロフィールというだけの情報ならば。だが直接対面したのはこれが初めてで、さすがは有名なだけはあると思った。そして、そんなことを考えるだけの余裕を彼が与えてくれるという事実にも驚いていた。もしかしたら自分が『彼女』の特別な相手だったからなのかと、その女性は思った。
「勘違いするな。俺はおまえのような小娘相手だろうが、容赦はしない。ただ退屈だからおまえにも考える時間をやっているだけだ」
 心を読まれたことに、彼女は大きく動揺した。一度は心理学に興味を覚え、図書室にあった関連書籍をすべて読破したが、この男には一切通用しないと思い知る。いやな、冷や汗がつたう。周囲が騒がしくなってきたような気もしてきた。要は、この男と一緒にいることに恐怖を覚えてきた。
「貴方は――」
「俺はな、つまらないこの世の中に刺激を与えているんだ。生物の進化に必要なのは、ちょっとした刺激、身の程知らずの野心、それにどんな生き物にも負けない強さだ。俺たち人間はそれらを持っているからこそ、霊長類の頂点にいる」
 彼は歌でも歌うかのように言ってから、ぬるくなったコーヒーを口元に運んだ。その仕草はとても優雅で、思わず彼女は見惚れてしまった。彼の正体が正体でなければ、すべての女性は彼に自ら従うだろうし、なんでも言うことをきくだろう。そんな不思議な、カリスマ性が彼にはあった。さすがは『彼女』の父親である。
「つまらない話をした。それで、どうだ? 俺の言うことをきく気になったか?」
 それまで俯いていた彼女は、顔を上げた。彼の声が不意に優しく聞こえたからだった。顔を上げて見えた彼の眼は、実際に優しそうだった。
「……はい」
「いい子だ」
 彼は彼女の頭にそっと触れた。その手は氷のように冷たかったのだが、彼女は彼と相対することで頭がいっぱいで、そんなことを確認する余裕などなかった。
 相手が会計を済ませて去った後で、彼女は何者かに取り付かれたかのように呟いた。
「……ミヤシタアカネを殺さなくては……」
 不思議なことに、一度も会ったことのない標的のことは、まるで長年の付き合いのある相手のように鮮明に頭に浮かんだ。写真など一枚も見たことがないのに、相手の顔も認識できる。本当に、不思議なことに。


「ずいぶんとえげつない手を使うのですね」
 その女性は、影からやり取りを見ていた。褐色の肌に白い髪。もっとも、フードを被っているので髪は見えないが。この日本で褐色の肌はともかく、白髪は目立つ。彼女はいつもの法衣ではなく、カジュアルなデザインのフード付きワンピースを着ていた。前髪が極端に短いため、フードからはみ出ていてもどうにか誤魔化せる。
「えげつない? フン、貴様がそれを言うのか? 乳飲み子すら利用するくせに」
「あの子は特別ですからね。……それにしても、相変わらずですね。貴方という人は優しそうな顔をして、この世の誰よりも残酷なんですから」
 彼は出てきたばかりのコーヒーショップに背を向けて歩き出す。その速度は速いが、相手の女性もまた長身なため追いつく。
「何が言いたいんだ?」
「いくら貴方でも女心までは理解できませんか?」
「…………」
 初めて男はどうしようかという表情を見せた。それは娘たちにも一度も見せた事のない顔、妻たちにも見せた事のない顔だった。それだけ今一緒にいる相手が特別なわけだが、それを彼女は知っているのだろうか。
 男は黙って彼女を路地裏に引きずり込んだ。犯罪者に相応しいのは路地裏と相場が決まっている。陽が当たらない、暗い場所。そこはまるで彼がよく捕われる場所に似ている。
 くちびるを合わせようとすると、相手の女性の方からキスしてきた。しばらく絡み合う長身の男女の姿は、暗い場所ゆえに誰にも見えない。吐息が漏れた。
「久しぶりだわ、隆。こうして恋人らしいことをするのは、ね?」
「娘の世話で忙しかったからな。だが、もういいんだ。最終兵器もおまえが手に入れてくれたことだしな。十年前と同じ結果にはならないさ」
 十年前、という単語で、抱き合っていた彼女の動きが固まった。わなわなと震えだす。
「忌々しい小娘たちが貴方に傷を負わせたあのことを言っているの?」
 十年前。上の娘の誕生日にすべてを終わらせるつもりだった。出来損ないの彼女を自分の中から完全に消し去り、この世からも消す。ついでにいちいち敵視してくる邪魔者も、娘を殺すために利用した若い男も、殺す。殺そうとした。そのために何の興味もない娘よりも更に年下の小娘も殺したし、娘の同業者の妹も利用した。それでも、肝心の実の娘のひとりは殺せなかった。逆に彼がピンチになり、下の娘に助けられた。……なんという許しがたい屈辱か。
「……ごめんなさいね? 貴方は怒りを全面に出した方が野性的で素敵なんですもの。煽りたくもなるわ。もっと怒って、残酷なところを見せて。私は貴方のそんなところが大好きなのだから」
 かつての恋人は、ここまで腹立たしい女だっただろうか? そんなことを思いつつ、再びキスをする。今度は自分から。
「黙らないと、おまえも殺す」
 その一言で、相手はにっこりと微笑んだ。そして楽しい遊びを思いついた子供のように耳元で囁く。
「それで、もう一人はどうするの?」
「あれももう用済みかもしれんな」
 それは嘘か、冗談か、それとも本気か。見抜けるのは現在ともにいる彼女のみだった。


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2017年 2月1日 莊野りず


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