僕が彼女――聖なる少女と出会ったのは、本当に偶然だったんだ。それにね、出会った時はあんなに小さくなかった。僕よりは年下だけど、ちゃんと大学生だったんだよ。僕の留学先――ロンドンで出会ったんだ。
その頃の僕はといえば、勉強についていくのに精いっぱいだった。だってそうでしょ? 大検に受かったとはいえ、独学のややこしい英語を聞き取るだけでも大変なのに、ノートを取って、レポートを書いて、ってなると、とてもじゃないけど時間が足りない。しかも、君も知っての通り僕は貧乏だから、アルバイトもしたさ。慣れてる探偵の仕事だけどね。
周囲の人々は、ただでさえ珍しい現役合格ではない僕の留学に驚いていた。でもね、彼女だけは違ったんだ。同じクラスになった時から、僕は相も変わらずの人見知りだった。だから、あまり話したこともなかった。向こうも話しかけてはこなかった。……後になってよく考えてみればそれも当然だったんだ。
あれは学食でランチを頼んだある日のことだった。全然、いや、一言も話したことのない彼女が、僕の後ろにいた。最初は誰もいないのかと思ったよ。けど、彼女はちゃんとそこに存在していて、ちゃんと自分の意志を伝えるすべを持っていたんだ。
「Give me fish&chips please!」
僕がフィッシュアンドチップスを注文するとき、あの子が後ろにいた。気配が全然なかったと言ってもいい。そのくらい自然に、彼女は僕の後ろに並んでいた。
「…………」
「Yes!」
僕はその返事を聞いて、すぐに背後を振り返った。身長は、僕よりもやや高いくらい。褐色の肌に白い髪。イギリスのロンドンにはに似合わない外見は今のままだった。彼女は僕と眼が合うと、にっこりと微笑んだ。それはまるで俗人が称する、『天使の笑み』といっても差し支えがないんじゃないかと思えたんだ。実際、彼女は一言も言葉を発せず、ただ微笑んでいた。それだけで学食のおばさんは、すぐに彼女の欲するものを察した。まるでテレパシーでもあるかのように。
その時の出会いがきっかけで、僕と彼女の友人づきあいは始まったんだ。僕が同年代の子とそんな付き合いが出来るようなタイプじゃないことは、君も知ってるでしょ? でも彼女は、そんなことなんかお構いなしに僕に関わってきた。言葉がどうしても必要な時――僕の方から用件や言いたいことを伝えたい時は筆談をした。ずいぶん親しくなったし、向こうも向こうで、僕のことを『親友』、もしくは『相棒』だとみなしていたらしい。東洋人とそんな変わり者のコンビだし、当然浮くと思ったんだけど、向こうのひとは寛大で、鑑賞されることは滅多になかった。教師ですら、彼女のことを特別扱いしているようでしていなかった。言葉で説明しなくとも、彼女は勉強が出来た。
コンビを組んだ僕と彼女は、一緒に事件を解決したことすらあったんだ。一言も言葉はなく……ね。奇妙だと思う? 不思議だと思う? その彼女の幼い頃の姿としか思えないのが、あの子だったんだ。
「……じゃあどうやって、茜さんとコミュニケーションをとったんです? 茜さんって手話とか解ります?」
「いや、解らないよ。でもね、あの子の場合はそんなことぜんぜん関係なかったんだ」
「どういう意味ですか?」
ここで茜は一息つく。まるで一気に老けたようだと彼女は感じた。
「そのままの意味だよ。明、君は超常現象とか、超能力とかって信じる?」
明は茜らしくもない、なにかの冗談かと思った。探偵とは、そんなものとはもっとも遠い存在ではないか。
「いいえ、信じません。僕は非科学的な者は信じないんですよ。……茜さんは違うんですか? 探偵なのに?」
「僕が探偵か否かは関係ないよ。うん、実は信じるんだ。それは彼女と出会ったから。証拠を見せられてしまえば信じるしか道はないでしょ?」
「……まさか」
明はなにかを言おうとして止めた。ここで余計な口を挟んでしまえば、茜は二度と何もしゃべってくれないかもしれない。だが予想に反して、茜は自分の知っていることをしゃべって楽になりたいらしかった。そんな弱気な茜など、神父と聡が死んで以来だ。もっとも、その時に明はその場にはいなかったのだけれど。
「そのまさかさ。彼女――僕と同じ大学に通っていた時は、ローラ・キャンベルって名乗ってた。彼女の声は、脳に直接聞こえてくるんだ。他の生徒とも、そうやってコミュニュケーションを取っていた。間違いなくね」
「そんなバカな! だって、それじゃあ――」
茜は立ち上がって、コーヒーを淹れようとキッチンへと向かう。ここ数年で彼女の淹れるコーヒーは、智也も認めるほどに美味くなっていた。十年の歳月の成長の証拠だ。成長したのはコーヒーを淹れる腕前だけではないのだけれど。
「明、君の言いたいことも解る。『そんなバカなこと、実際にあるわけがない』――でしょ? でもさ、世の中には理詰めで解決できない問題が山ほどあるんだよ。ちょうど君と智也の出身の村で、今でも非科学的な神降ろしとやらが行われているようにね」
「…………」
いつから茜にそんなことまで漏れているのだろうか。まさか盗聴器でも仕込まれていたのか? 明は妹――まみという名の気の強い少女――を十年前に亡くしている。犯人は大西隆その人だ。茜の実父で、もうひとり、彼女の異母妹の父親でもある。その茜の異母妹は、現在ドイツで医者として脳外科手術の方面で活躍しているらしい。第一線で働く彼女はそうとう頼りにされているらしく、帰国する予定も解らないくらいだ。
それはともかく。
「ローラ・キャンベル? でも、あの小さい子はたしか『ホリィ・ロマ』って名前では?」
「そう、そこがおかしいんだよ。明はどう思う? 僕もいろんな可能性を当たってみたけれど、コレだっていうのが思い浮かばないんだよ」
「茜さんでも解らないことが、僕に解るはずがないでしょう? 冗談も休み休み言ってくださいよ」
茜は淹れたてのコーヒーをふたり分持ってきてため息をつく。
「……やっぱり十年経っても明は昭かぁ。まったく、男なうえに役に立たないとか、やってられないね」
「悪かったですね」
明は茜が淹れてくれたコーヒーに口をつける。うん、やはり美味しい。十年以上前、初めてであった頃とは雲泥の差だ。ここまで変わった茜を、天国の神父や聡とやらはどう思っているのだろうか?
明は一月の寒い空の問いかけてみたのだが、当然、返事などなかった。
「…………」
茜は茜で、コーヒーを啜りながら何やら考え込んでいるようだった。
これ以上一緒にいても役に立たない呼ばわりの上に、給料泥棒呼ばわりされてはかなわないので、明は気がかりなまま、教会から自宅へと帰っていった。茜はそれを咎めることなく見送ってくれた。白いYシャツに深紅のネクタイを締めた茜は、もう立派な社会人、いや、探偵だ。帰国する直前まで、ロンドンで事件の調査に追われていたという噂まである。本当に、あの頃の、十年前の茜とは別人になってしまったようで、明としては微妙な気分だ。ただ自分があまりにも頼りない成長を遂げた悔しさなのかも知れないが。
「……アキナとアキホちゃんによろしくね」
茜はそんな明の複雑な気分に気づいていたが、敢えて気づかないふりをしていたらしい。心臓に悪いと思いつつ、明は使っていたマグカップを置き、今度こそあたたかい妻と娘の待つ家路につくのだった。
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2017年 1月17日 莊野りず
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