忘れモノ探し
〜殺人鬼の章〜
『誤魔化すしかないわね』
視界が真っ赤だ。どうやらオレにこの夢を見せている、もしくは覗かれている張本人は、オレの能力への対抗策として視界をそのまま赤く染めるという強硬手段に出たようだ。そんな真似をしなくとも、こっちだって好きで見ているわけではないのに。声は女のもので、サクヤの声に非常によく似ていた。だが、声に込められた冷たい感情は、サクヤの底抜けに明るいものとは大違いだ。冷たい氷の刃物を思わせるような、鋭くて冷たい声音。気配は今は彼女のものしかなかった。
『どうしてあの場で否定しなかったのか? そうすれば後々楽になるということすら解らないほど馬鹿なのか? ……しっかりして欲しいものだわ。仮にもわたしの半身ともあろうものが』
くちびるに違和感を覚えた。昨日見た夢の中で、思い出したくないが、オレはたしかにこの女にキスされたのだ。その時に口移しで飲まされた植物が、いまさらうごめいている。種らしきものから発芽する気配があって、オレはそれを吐き出そうとするものの、すでにツタは舌に絡みついて叶わない。ツタはそのまま喉の奥へと侵入して、オレの各器官を冒していく。肺や心臓、血管までも、そのツタに絡まれている気がして、オレは苦しくて呻きたかったが、声が出ない。出してはいけない。きっとこの夢の中に姉ちゃんが言ったことの真実があるはずだと直感していたから。
『その気配は、ひーちゃんね? 本当に大きくなって。たくましくなって。どれほどあなたに会いたいか。どれほどあなたの傍にいたいか。あなたには解らないでしょうね。わたしの熱烈な狂愛など。わたしの愛は狂っている。それは素直に認めるわ。でもね、好きだからこそ狂うくらいに愛したくなるの。愛くるしいって言葉だって、分解すれば、『愛』『苦しい』でしょ? それと同じことよ』
真っ赤な視界の向こう側で、女の満足そうな笑い声が聞こえた。狂った愛。そんなものをオレに向けられても困るとしか言いようがない。熱愛でも困るというのに。たしかに女子に興味がないわけではないが、この厄介なオレの能力を知ったら、関わったら、みんなきっとめんどうくさがって去っていくに決まってる。傷つくくらいなら、想いなど伝えない方がましだ。しかし、この女の考えは『嫌われてもいいから想いを伝えたい』らしい。……理解に苦しむ。
『あ、今、理解できないって思ったでしょ? ほんとうにひーちゃんはそういうところがお子様ね、いつまで経っても。まぁそこがいいんだけど。そんなあなたが好きよ? いつまでもそんな純粋なあなたでいてね? わたしとの約束よ』
視界の赤の一部が白に変わり、そこから赤い袖が見えた。袖から覗くその手は死者のように白かった。
『指切りげんまん。裏切ったら針千本飲ます。指切った。……知ってる、ひーちゃん? 指切りってね、昔の遊女が客と約束を交わす時に使われたものなのよ? わたしも肉体が自由にならないという意味では彼女たちと変わらない。だから――』
「一二三、寝てたでしょ?」
「……すんませんでした」
八木家の巫女の間、と言えば聞こえはいいけれど、要は姉ちゃんの部屋。オレはサクヤの霊能力を調べるという姉ちゃんの提案に従って、彼女の部屋にいた。最初こそあの夢の謎が解けるのかと期待したものだが、姉ちゃんの八乙女・八木家最高峰の霊能力をもってしても、サクヤの『正体』といえる本体には辿り着けていない。段々姉ちゃんは苛立ち、大事な巫女の用具(オレは正式名称を知らない)をブンブン乱暴に振り回す始末だ。サクヤはと言えば、居心地が悪そうに正座している。
「やっぱりワア、どこかおかしい?」
「そんなにひどくはないとは思うんだけどね。あたしの経験からくる勘に寄れば。でもねぇ、病院で検査する時にレントゲンを撮ったりするでしょ? そこで臓器の中に怪しい影が映っていたとする。それでいざ手術してみても、中には何も異常も異物もない。……簡単に言えば、サクヤちゃんの状態ってそんな感じなのよ。実態がつかめないの」
「すみません、レントゲンってなんず?」
思わず姉弟揃ってずっこけた。都市部以外の津軽では、病院はない。あってもせいぜい車で何時間かかかったりする。バスではもっとかかるし、運賃もかかる、数千円。サクヤが病院の例えにぴんと来ないのも仕方がない。姉ちゃんは不安そうな顔をするサクヤの顔を撫でると、力強く言い聞かせた。
「いい? サクヤちゃんは何にも心配はいらないからね。頼りないけど一二三もついてるんだから。これでもあたしの弟なんだから頼りになる……んじゃないかしら?」
なぜ最後、疑問形? まぁオレの能力はサクヤの助けにはならないかもしれないけど。それに、もう二度と口寄せはしないとサクヤも約束したんだし。これでトラブルの元は絶ったはずだ。
掛け時計を見上げると、そろそろ朝食の時間だ。姉ちゃんが一刻も早くサクヤの調子を調べたいというから付き合っていたら、予想以上に早起きになってしまった。起きたのが四時で、今は五時半だ。母さんもまだ寝ているだろう。
「緋美湖さんにも、ひーちゃんにもお世話になったし、ワアが朝めし作るはんで!」
「いや、気持ちだけで――」
「あら、サクヤちゃんの朝ごはん? シャレたものが食べたいわ。たまには肉も食べたい」
姉ちゃんが余計なことを言うので、サクヤは俄然張り切ってしまった。余計なことをしやがって。姉ちゃんはサクヤの壊滅的な料理の腕前を知らないから、そんなのんきなことが言えるんだ。オレを横目に、姉ちゃんは術に使った道具をてきぱきと片していく。サクヤがばたばたと派手な音を立てて階段を駆け下りたのを聞き終えたらしく、姉ちゃんはオレに訊いてきた。
「それで? くちびるの違和感はもうないわけ?」
「え? あぁ、もうなんとも。ただ――」
「ただ?」
「夢の中で、いや、女らしき人物が出てくる夢を見るんだけど、その女にキスされて、なにかの植物の種みたいなものを移されたんだ。今はなんともないんだけど、夜に布団に入って夢を見るようになると、必ず喉の奥が苦しくなるっていうか、息苦しいというか……」
「口の中を見せて。奥まで見えるように開いて」
姉ちゃんの顔色が変わった。そんなに重要なものだったのか。オレは黙っていうことをきき、口を大きく開く。姉ちゃんが指でさらに広げた。更に、オレの口の中に指まで突っ込んできた。
「ふぐ、ぐう」
「我慢しなさい。……ないわね、そんな種なんて。ただ、ひどく喉の奥が荒れてるわ。まるで棘のついた何かが撫でたかのように。あんたも仮にも八木の人間なんだから、もっと能力があってもいいようなものなのにね」
最後のは余計なお世話だ。オレは平凡に生きたいだけだ。こんな厄介な能力、欲しいってやつがいたら喜んでゆずってやる。そう息巻こうとした時、サクヤの能天気な声がした。
「ひーちゃん、緋美湖さん、朝めしできたはんで!」
「今行くわ」
姉ちゃんはあっさりオレの口の中から自分の指を抜き取ると、抗菌ティッシュで入念に拭いた。……いくらノロウィルスとかあるからって、そこまでしなくてもいいじゃないか。姉ちゃんは昔からオレに対して風当たりがきつい。なぜなのかなんて考えたこともなかったけれど、よく考えてみれば自分は能力のせいで苦しんでいるのに、のうのうと同年代のサクヤと遊んでいるオレが内心では気に食わなかったのかもしれない。
そして、サクヤの用意した朝食は予想を裏切らなかった。
「ささ、遠慮なくけ!」
彼女が用意したのは、いつも通り、ではない目玉焼きだった。目玉の部分がピンクに固まり、白身の部分は見事に焦げている。姉ちゃんもこれには言葉を失ったらしい。
「う、ふふふふ……あたし、巫女の能力使ったから、あまりお腹が減ってないのよ。一二三、あんたにあげるわ」
「姉ちゃん、いくら不味そうだからってそれはずるい!」
「不味そうって、そんなわけないでしょ! おいしそうなんだけど、どうも調子が悪くて食べられないの! 巫女って辛いわ〜」
オレらのやり取りを見ていたサクヤは、自分の分の目玉焼きを箸で口元に運んだ。その次の瞬間、涙目になった。
「…………」
こんなことがあったものだから、今日は朝食抜きで学校に向かう羽目になったのだった。
いつもと変わり映えのしない授業を受けて、いつも通りの放課後を迎えた。スイレンの事件の傷跡はまだ消えてはいない。彼女の席には仏花が供えられており、毎日誰かが替えているらしかった。さすがは学級委員なだけあり、人望もあった。そんなスイレンに死後とはいえ、告白されたオレの気持ちはと言えば、複雑だった。スイレンにはオレみたいな奴じゃない、もっといい男が選び放題だったし、将来だってもっといろんな道があったはずだ。殺人とは、そんな無数の可能性を摘み取ってしまう忌むべきものだ。
「…………」
「…………」
オレとサクヤは並んで、スイレンの遺影に手を向けた。写真の中の生前のスイレンは、いつもの彼女らしい笑みに溢れていて、魅力的だった。
「……ひーちゃんさ」
「なに?」
「スイレンちゃんのこと、好きだったでしょ?」
急に何を言い出すんだ、こいつは。
「答えて」
サクヤは真剣な表情だった。けど、オレはスイレンのことをどう思っていたかなんて、今更になっても自分でも解らない。スイレンは、たしかに特別だった。けど、それは友達の中では、という意味であって、恋愛対象としてどうこうという意味ではない。答えに窮していると、サクヤはオレの心でも読んだかのように微笑んだ。
「好き、だったんでしょ? たとえ、友達として、恋人未満だったとしても。……じゃあ、ワアは? ワアのことはどう思ってる? 好き? 嫌い?」
「そんなこと急に訊かれても解るかよ。おまえは親戚だ。それ以上でも、それ以下でもない。好きとか嫌いとかの時限じゃないだろ、オレたちの関係ってさ」
「……んだね」
急にしおらしくなったサクヤは、再びスイレンの遺影に手を合わせた。知らなかったこととはいえ、スイレンの葬式くらいには行ってやりたかった。そうすれば、まだこの気持ちに整理がつけられたかもしれないのに。それまで静かだったサクヤは、くるりと振り返ってこっちを見た。
「じゃ、帰るべ」
「そうだな」
ヘッドホンからは相変わらずジャズが流れているが、今は音量を低くしてある。授業中などの静かな時の霊の声ほどうるさいものはないが、放課後となると大分ノイズも和らいでくるのだ。授業をちゃんと聞けないのは辛いところだが、ちゃんと事情を話してある先生ならば、補習をしてくれる、嫌々だが。オレはカバンを持ち上げて、教科書をしまい込む。これで帰り支度は万全だ。
帰り道は今日に限ってやけに静かだった。いつもはうるさいと叫びたくなるくらいの霊の喧騒は、今日に限ってない。しんと静まり返っている。……いやな予感がする。隣のサクヤもそれを悟ったらしく、オレの腕にしがみついた。いつもなら払っているところだが、今日は別だ。オレもどこか全身が総毛立つ、とでもいうような感覚を味わっていたからだ。
「そこ、後ろ!」
サクヤが叫ぶ。オレがそっちを振り返る間もなく、サクヤによってオレの身体は突き飛ばされて、壁に激突した。
「いてててて……サクヤ――」
一言文句を言ってやろうとしたところで、振り返った先の目の前に広がる光景にオレは眼を疑った。オレの眼の前には、肩を斬られて制服から生の肩を露出し、血を流しているサクヤの姿があった。その前方はサクヤが影になって見えないが、斬りつけてきた相手だろう。もしもサクヤが庇ってくれなかったら、あの位置ならオレの心臓に直撃していたところだったのだ。サクヤは慌てて肩を押さえるが、勢いよく流れる血は一向に止まる気配がない。こんな時に限って、オレは動けない。足が本能的にすくむのだ。暴力とは全く無縁の過程で育ったためか、オレは血液や刃傷沙汰が大の苦手だ。
「くっ!」
サクヤは果敢にも犯人と対峙していた。ここは逃げるべきだと叫びたかったが、恐怖で声が出ない。サクヤを凝視することしかできない。彼女の露出した肩に、なにやら文様のようなものが刻まれているのが見えた。それは血の色と同じ赤で描かれていて、まるで呪術にでも使うもののように思えた。その赤い文様が、少しづつ崩れていく。
「ひひひ……ちょうどいい活きのイイ獲物が二匹。やっぱ女の方が殺してて楽しいよなぁ? なぁ、嬢ちゃんはどうやって殺されたい? 簡単に、なんてつまんねえよなぁ? いっそ殺してくれってかわいい女の子に言わせるのが一番の娯楽だぁ! 前に殺したあの子も、イイ声で鳴いたなぁ! 思い出しただけでよだれが出るぜ!」
一歩一歩近づいてくるその影は大柄で、鍛えられた筋肉に反して、歩き方が内股だった。茜色に染まった空に照らされたその姿は……見覚えがあった。
「ヒトヒトちゃん!」
サクヤがオレの代わりに叫んだ。今の彼はサクヤを攻撃した大きな刃物を持っているらしく、いつものカマっぽさはまったくなかった。あるのは、ただのケダモノのオスの姿だった。オレは唖然とするしかなかった。だって、連続殺人犯が出ていると注意したのは、他ならぬヒトヒトちゃんじゃないか。本当に彼が犯人なら、そんなリスクは避けるだろう。
「その名で呼ばれたくないな。学校では恋する乙女、学外ではこの通り、女大好き殺人鬼さ」
「じゃあ……なぜ注意したんず? 心配したんず? なぜ? なぜ!?」
「そっちの方がスリルがあってゾクゾクするじゃないか。さて、この話をした以上、殺すのは女だけじゃない。そっちの男もだ」
ヒトヒトちゃんは、もはやオレの知っているヒトヒトちゃんじゃなかった。同じ身体の別人。そうとしか思えない。すると何がおかしいのか、サクヤも狂ったように笑い出した。肩からの出血はまだ止まっていない。痛みも半端じゃないはずなのに。
急に、サクヤの気配が変わった。
「ふっ、ふふふ……。あんたも『同類』というわけか。この状況ならば、正当防衛は成り立つ。十二分におまえを切り刻める。殺人鬼には、やはり殺人鬼」
「さ、さくや……」
オレはそれしか言えなかった。あまりのもおかしいサクヤの様子に、名を呼ぶことしかできない。そしてサクヤの身体の文様に光が走った。そして、一瞬だけ振り返ったサクヤの顔は、サクヤのものであって、サクヤではなかった。
「Kill you!」
ネイティブのような、滑らかな英語で、サクヤは「キルユー」と叫んだ。彼女は目にもとまらぬ速さでヒトヒトちゃんの手にある大きな刃物――肉切り包丁を奪い取ろうとした。そう簡単にはいかないが、何度か殴られ、蹴られながらも、サクヤはついに凶器を奪い取った。
「なっ、何ィ!?」
サクヤは英語で何かを呟いたが、オレには何を言っているのか聞き取れない。ただし、発音からいってイギリス英語だということだけはなんとなく察した。サクヤは手に下肉切り包丁を振り回し、逆にヒトヒトちゃんを追い詰めていく。その手並は、まるで既に何人か殺した経験のある人物の動きそのものに見えた。映画などであるような、グロテクスな光景が目の前に広がった。サクヤが、ヒトヒトちゃんの首筋を狙う。
「参った! 参ったから!」
だがサクヤは刃物を振り上げたまま、狂気を孕んだ目でヒトヒトちゃんを見下ろしている。ヒトヒトちゃんは地面に座り込んでいる。肩の文様は若干光が弱くなった。
「もういい! もういいんだ、サクヤ! やめてくれ!」
悪夢はこれでたくさんだった。もう殺される奴も殺す奴も、見たくはなかった。サクヤは眼が真っ赤になっていた。透き通るルビーのような赤、状況からいって、どうしても血を連想せずにはいられなかった。
「……ひーちゃんに感謝することね。彼が頼まなかったら、あんたはわたしが殺していたわ。ひーちゃん、霊縛用の縄は?」
「あ、あぁ。ここにある」
姉ちゃんが護身用にと持たせてくれた霊の力が封じ込められた縄を、サクヤに渡す。縄でどう誤診にするのかと訊いたら、「襲われて返り討ちにした時にこれで捕まえれば?」なんて真顔で言われたが、それは姉ちゃんだから可能なことだ。しかし、例外としてサクヤもそんな真似が可能だったとは。
「こいつはここに縛っておいていくわ。……警察に連絡して。それとお姉さんにもね」
サクヤはオレの姉ちゃんを、『お姉さん』とは呼ばない。『緋美湖さん』と呼ぶ。オレはさっきから感じていた強烈な違いを、違和感を、サクヤに直接ぶつけることにした。
「……おまえは、誰だ?」
するとサクヤが、薄く笑った。その笑い方は、オレがこれまで見たことのない、妖しい笑みだった。いや、いつかの夢でこんなサクヤの顔を見たことがあったはずだ。あれはいつだったか。
「わたしはわたし、わたしは『さくや』よ」
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2017年 2月25日 莊野りず
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