忘れモノ探し
〜想い人の章〜
可愛らしい、オレンジの包装紙でラッピングされた正方形の箱を渡された。オレの眼の前にいるサクヤが笑う。髪が黒く、背も低い。……あぁ、これはやっぱりいつもの夢か。外は真っ白な雪景色。津軽は地吹雪が吹く。一旦積もった雪が、やませという津軽地方独特の強風によって上に巻き上がるのだ。だから、視界は真っ白。八乙女宗家の敷地はただでさえ広い津軽の家々の中でも特別だ。地元で代々続く、特殊な能力を受け継ぐ家系だから、政治家などのお偉いさんがその手の役に立つ能力者を訪ねてくることも珍しくはなかった。
サクヤは能力がなかったし、オレもただ霊の声を聞くだけという程度の力しかなかったから、放任されたのだろう。昔から巫女の素質があった姉ちゃんとは大違いだ。でも、その扱いの方が心地よかったし、気楽だった。下手に期待されて、それを裏切ることを子供心に恐れていたのかもしれない。
『ひーちゃん、バレンタインのチョコ。頑張ったんだよ』
バレンタインのチョコで、『頑張った』と言われれば、それはきっと手作りだろう。サクヤは料理が上手かった、昔から。早くに母親を亡くしたから、仕事で忙しい父親に代わって、ずっと母親の、家庭の味を守ってきた。オレは昔からサクヤの作るけに汁が好物だった。津軽の郷土料理であるけに汁は、主に正月に七草粥の代わりとして食べられている。大根や人参、油揚げにシイタケ、それからわらびなどを煮込み、味噌で味付けする。津軽の連中はしょっぱいものが大好きなので、家庭によっては味噌を入れる量がとんでもないことになる。塩分過多、飲酒と喫煙の習慣がある者も多く、青森は短命県ナンバーワンだ。……って、サクヤがこちらを怪訝そうに見ている。
『……どうしたの?』
『いや、なんでもない。サクヤの手作りチョコかぁ。食べちゃうのがもったいないな』
するとサクヤは照れたように笑う。
『そんなこと言わないで食べてね。頑張って、オトナの味に挑戦してみたんだから』
得意げにウィンクしてみせるサクヤ。……あれ? こんなことって本当にあったっけ? サクヤの口ぶりは、思い出の中の彼女よりも大人びているし、オレの方も違和感がある。
『オトナの味って、お酒が入ってるとか?』
『うふふ……』
サクヤが妖しげに笑う。こんな笑い方、したっけ?
「はっ!」
眼が覚めて、最初に感じた異変は、嗅覚だった。なにかとんでもなく焦げ臭いにおいがする。まさか火事か? そんな最悪の予感がして、オレはベッドから起き上がった。そして慌てて階段を下る。そこで眼にしたものといえば――
「おはよう、ひーちゃん!」
「…………」
サクヤが少し照れくさそうに笑っていた。その手元には、たぶん焼き菓子でも作ろうとしたと思しき物体があった。それは真っ黒に焦げて、とてもではないが食べられそうには見えない。母さんが何かサクヤに甘いものでも作ってやろうとして失敗したのだろうか? 母さんは菓子作りが苦手だから。
「サクヤ、それ捨てていいぞ。どうせ食えたもんじゃないだろうし」
そこへすかさず母さんが割って入ってきた。どうやら父さんを起こしに席を外していたらしい。
「何を失礼なことを言っているの? これはサクヤちゃんがあんたのために焼いたクッキーじゃないの!」
「……え?」
この黒こげの物体を、あの料理上手のサクヤが? にわかには信じがたいが、当のサクヤが肯定するように笑う。……まて、展開が急すぎてついていけない。
「ひーちゃんにバレンタインのチョコクッキーを作ろうと思ったんず。だばって……まんずむずかしっきゃ」
言いながら、頭を掻くサクヤは、すっかりドジッ子といったところだ。最近、といっても一ヶ月かそこらだが、サクヤの言動には違和感が多い。昔と違い過ぎる。一番の変化は見た目だが、それは『仕事』のせいだとして。味覚の変化もよくあることだとして。でも性格がここまで変わるというのは本当にあり得るのか? 特技だった料理がここまで下手になることもあるってのか? もしかしたら、オレは自分では起きているつもりでも、本当は眠っているんじゃないだろうか。今、こうやって現実だと思っていることが、本当はすべてニセモノで、オレは事故にでもあって覚めない夢、悪夢でも見ているんじゃないだろうか?
「ひーちゃん?」
「わっ!」
サクヤが心配そうな顔をして、オレの顔を覗き込んできた。別嬪になったとは思うが、幼い頃の面影はたしかにある。たとえ、髪の色も瞳の色も変わっても。雰囲気は『力』を得たから変わったのかもしれないが、この懐かしい感じは本物だ。……朝っぱらから、もう何がなんだか解らない。オレはいったいどうしてしまったんだ?
「……どうでもいいけどねぇ、ひふみ。あんた、学校の準備はできてるの? もう七時半よ?」
「え?」
「サクヤちゃんはとっくに朝ごはんも済ませたし、見ての通り着替えも終わってるし、カバンも持って来てあるけど、あんたはどうなの?」
オレは、朝めしもまだだし、着替えもまだでパジャマ姿のままだし、カバンの中身も整理できてない。つまり、まったく準備が出来ていない。しかも七時半ともなると、遅刻は確実だ。遅刻するとなると、スポコンのノリを押し付けてくる、体育担当教師兼生活指導の黒木先生に校庭を走らされる羽目になる。それだけはごめんだ。
オレは慌てて朝食を牛乳で流し込み、慌ててヘッドホンを装着し、慌てて制服を羽織り、カバンに今日使う分の教科書を押し込んだ。サクヤは待っていてくれているが、オレのせいでサクヤまで一緒に校庭を走らされる羽目になっては大変なので先に行くように言う。
「行ってきます」
玄関を出たところで、やっと制服のジッパーを閉める余裕が出来た。そういえば、もう二月なんだよな、なんて道行く人々――どう見てもカップルを眺めながら思う。どいつもこいつも人の通学路でいちゃついている。一応ここはスクールゾーンで、あんたたちみたいないい歳した大人がベタベタするところじゃないんだが。そう言ってやりたかったが、遅刻寸前なので我慢。オレも周囲を観察するだけの余裕はあるんだと自分で自分を感心する。そういえば、サクヤが焼いてたのって、バレンタインのチョコクッキーだって言ってたっけ。相手は……もしかしなくても、オレ? そう考えると、嬉しくなる。やっぱりオレはサクヤが好きらしい。ガキの頃から変わんない自分が、少し情けないが。
『……いいわよねぇ、そうやって想いを伝えることができて』
突然、頭にダイレクトに『声』が聞こえてきて、オレはその場にしゃがみ込んだ。
「な、なんだ……」
いや、声の正体自体は解っている。これはいつもの霊の声だ。だが、大音量のヘッドホンの音すらかき消す勢いで、低い女の声が聞こえてきた。
『あたしなんか、バレンタイン当日に、ぐすっ……ひっく』
相手の怨念のこもった声と、大音量のジャズが混ざり合って、オレの耳はマヒしそうだ。遅刻している場合ではないということは解っているが、体調がものすごく悪いのだ。うう、苦しい。どれだけ体調の悪い生徒でも、遅刻は遅刻だと言って、黒木先生は校庭を走らせる。体罰ではないかと訴える保護者もいたが、校長が「我が校の教育方針ですから」とか何とか言って、はぐらかした。だからオレの場合も見逃してはもらえないだろう。しかも理由が非科学的だから尚更。
『あんたはいいわね! バレンタインに恋人と過ごせるなんて! あたしなんか、あたしなんか、あたしなんかねぇ!』
「あぁ、言い分は解りましたから、ちょっと声のボリューム低くしてもらえません? 話なら聞きますから」
オレは、今日の登校を諦めた。遅刻すれば走らされるのだから、学校に行かなければ走らなくて済む。ダメ人間の思考だが、この場合は仕方がない。なにせ、頭が痛くて授業どころではないのだから。保健室に行こうにも、またアンズちゃんに嫌な顔をされ、冷たい仕打ちを受けるに決まっている。ならば、サクヤではないが話くらい聞いて、成仏させてやるのも悪くはないんじゃないか。
オレは近所の河原に向かって移動を始めた。歩きながらも会話は続く。
『……あんた、あたしの声が聞こえるの?』
「いや、それを今更言いますか……」
声音は低いままだったが、相手は驚いていた。オレはなんと説明したものか迷ったが、とりあえず必要最低限のことだけを話した。
『――つまりあんたは死者の声を聞くことができる、ってこと?』
「まぁ、一言で言っちゃえばそんな感じですね」
本当に一言だな。まぁオレの能力なんてこの程度のもんだから否定はしない。サクヤのことは話さない方がいいだろうと、直感的に思った。
『あたしね、好きな人がいたの。バスケ部のエースで、凛とした引き締まった表情が魅力的でね、どうやって声をかけたらいいのか解らなかったの』
「センパイか何かだったんですか、お相手は?」
『センパイ、ではなかったわ。同じクラスの同級生。制服もよく似合っていたわ。ファンクラブまであったのよ? そんな相手に、どうやってアプローチしたらいいのかわからないじゃない? 下手にファンクラブの子たちを出し抜こうとすると、後がこわいし』
「それは凄い人だったんでしょうね。ファンクラブとか、フィクションの世界だけのものだと思ってましたよ」
『あの方にレモンのチョコ漬けをお渡ししたかったわ。ライバルが多くて、渡すどころか近づくことも出来なかったんだけれど……』
声は今や優しい印象になっていた。きっとこの人も生前は純粋で、切ない恋をしたのだということが察せた。でもライバルが多くて、一歩が踏み出せなかった。その後悔の念が強く残っているからこそ、こうして今も成仏できないでいるのだろう。
『人を愛する、って難しいし、上手くいかないのよね』
「…………」
愛、か。オレにはまだいまいちピンとこない感覚だ。そもそも、『好き』という気持ちと『愛する』って気持ちって、どう違うんだろう?
『……あんたに話を聞いてもらって、少しだけスッキリしたかも。ありがとね。っていっても、成仏する方法も、あたし解んないのよ。どうすればいいと思う?』
要は、告白して想いを伝えられればいいということか。……そうなると、やはりサクヤに頼むしかないのか? いやいや、サクヤだって、だいぶ力を使って弱っているはずだ。あの白髪がその証拠。あれ以上、サクヤを疲れさせたくない。かといって、オレにはイタコの才能もないし、代案が思い浮かばない。どうすればいいんだ?
「ひーちゃん? そんなとこで何してるんず?」
噂をすれば影。サクヤがこの河原に来ていた。
「なんでおまえがここにいるんだよ? 学校は?」
「ひーちゃんが困ってる気がしたから、保健室に行って、アンズちゃん先生にアリバイ工作を協力してもらったんず」
おいおいおい、それでいいのか保険医。でもまぁ、アンズちゃん先生が女子の味方でよかった。今回ばかりはそう思う。
「それで、また聞こえた?」
「あぁ。バレンタインにチョコを渡せなかったっていう女の霊だ」
それを聞いたサクヤは見えない相手に深く同情したようだった。見ず知らずどころか、見えも知らずの相手のために泣き出した。……なんだ? たかがバレンタインで、どいつもこいつも。
『この子は? まさかあんたの彼女?』
「ちっ、違う! コイツは親戚で、イタコだ。この外見でよければコイツの身体を借りて告白してきたらどうだ?」
「ワアも、バレンタインのために役に立てるんなら頑張るはんで。想いを伝えられずに死ぬなんて、そんなのまいねだっきゃ!」
女の霊にはサクヤの声が届いているらしく、嬉しそうだ。ただし、具体的に何を言っているのか通じているかはあやしいのだが。
『若白髪はマイナスポイントだけど、目鼻立ちはいいわね。それにこの際、贅沢は言わないわ。その子の身体を貸してちょうだい!』
霊は不服そうだったが、それ以外に手がないと知ると覚悟を決めたようだった。サクヤにそれを伝えると、俄然やる気のサクヤは霊を下ろし始めた。
「……これが今のあたし?」
女はサクヤの顔をして、勝気な表情を浮かべた。この手の性格ならば、ファンクラブがあろうとも押していくのではないかと思ったが、人は見かけに寄らないものだ。気が強いようで、実は小心者なのかもしれないし。オレがそんなことを考えていると、サクヤの姿をした霊は猛ダッシュしていた。
「ちょ、待てって! その相手の今の住んでる場所は? 解るんですか?」
オレが慌てて止めようとすると、霊が入ったサクヤは不敵に笑った。
「あたしが一体何年浮遊霊をしていたと思っているの? あの人のことはあたしが誰よりもよく知っているわ!」
それは霊という存在を利用した、ストーカーというヤツではないだろうか? そんなオレの疑問は、更にスピードを上げた霊の入ったサクヤに振り切られた。オレの調子が悪いばかりに、霊の入ったサクヤは、向かった場所しか解らなくなってしまった。いったいどこに向かったのだろうか? ヘッドホンをいったん外して、霊の声に意識を集中する。ワイワイと霊の話声が聞こえてくる。その内容を聞いて驚いた。……なんと霊が向かったのは、オレの家だったからだ。
「ただいま!」
オレは慌てて三和土にスニーカーを脱ぎ捨てると、玄関から二階へ急いだ。サクヤの身体で父さんに告白なんぞしているところを見たくない。母さんの方が我が家では権力を持っているせいか、父さんの存在は忘れがちだが、今日は父さんは休みだ。父さんもサクヤのことは知っているとはいえ、ファンクラブにも入っていなかった、面識のない女子など覚えがないだろう。そうなると態度も冷たくなるわけで。それでショックをあの霊は受けるわけで。そうなると悪霊になってしまう可能性もあるわけで。……最悪だ。
そんなことを考えている時だった。下、つまり一階から母さんの嬉しそうな声が聞こえてきたのは。
「鯵ヶ沢さんでしょ? もちろん覚えているわよ。いつもレモンのはちみつ漬けを用意してくれてたのに、他の子に取られてたわよね?」
「……覚えていて、くれたんですか?」
母さんとサクヤが神妙な顔をしている。いや、神妙な顔をしているのはサクヤだけで、母さんはいたって普通だ。これはいったいどういうことだ? そんなことを思っていると、サクヤ(の身体に入った霊)が振り返った。
「なんだ、あんたって百合さんの息子さんだったのね。だからあたしの声が届いたんだわ。……これって運命だと思いませんか、百合さん!」
「そうかもね。そう、ひふみが鯵ヶ沢さんのことを助けようとしたの。ひふみ、彼女はあたしの女子校時代のクラスメイトよ」
「…………」
たしかに彼女は、相手が男だとは一言も言わなかった。ただ『あの人』と言っただけだった。でもまさか、ファンクラブが出来るほど、母さんはモテたのか? しかも同性に!? あまりにもな事実に驚きを隠せないでいると、彼女、鯵ヶ沢さんは満足した様子でふっと笑う。
「あんたのおかげでバレンタインの想いが叶ったわ、ありがとう。できればキス……したいんだけど、この身体はアンタの彼女なんでしょ? だから、大人しく出ていくわ」
「彼女じゃない」なんて、否定している暇はなかった。鯵ヶ沢さんは最初に訊いた低い声が嘘のように高い、キレイな声で「ありがとう」と言って成仏したようだった。
「……ん?」
「サクヤ! 大丈夫か?」
「あれ? なんでワア、ひーちゃんちにいるんず? あの人の魂は? 成仏できた?」
詳細は語るまい。オレはそう母さんとアイコンタクトした。母さんは思わせぶりに笑ったけれど……まさか、な。
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2017年 2月9日 莊野り
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