忘れモノ探し

〜老人の章〜

 その時の夢は、いつものとは様子が違った。
 背景に見えるのは、茅葺き屋根の古びた民家だ。空を見上げれば、そこには今とは違う、澄んだ青が見える。どうやら今回の夢は、オレの過去とは関係がないらしい。ほっと落ち着く。いつもいつも同じような夢ばかり見ていては、疲れもたまるというものだ。
『必ず、帰ってきてくださいね。……ご武運を』
『あぁ、必ず帰るさ。俺は日頃の行いがいい。神様だって仏さまだって見ていてくださるさ』
 年若い、たぶん夫婦だろう。ふたりとも美人とイケメンだ。そんな男女が深刻な表情でそんな会話をしている。ご武運とはまた、時代がかった言葉だ。……まてよ? まさかこれは誰か、死者の記憶か? だったら、これから先の展開は厄介なことになる。
『本当に、なぜうちに赤紙が――』
『いいんだ。甲種認定だった頃から覚悟はできていた。日本男児たるもの。この程度のことでぐらついたりしてはならん。それは国家への冒涜だ!』
 『赤紙』という言葉でだいたい状況は悟った。これは戦争の時のシュチュエーションの一部だ。赤紙という言葉くらいは、オレだって知っている。死んだばあちゃんが言っていたからだ。うちの家系は貴重な霊力を操る系列だからと、兵役免除だったと得意げに話していたっけ。
 男はオレと同年代に見えた。そうか、もう既に死亡フラグが立っている。『必ず戻る』なんて言葉は、死亡フラグの最たるものだ。きっとこの男は戦争に行って、死んだのだろう。でも、なぜふたり分の記憶がオレの中に入ってくるのだろうか? オレの能力は死者限定、死人の霊限定だというのに。
『……腹の子供のことは頼んだぞ?』
 その一言と共に、男の姿が霞んでいく。もう夢から覚める時間だ。さぁ、目覚めよう。


「ひーちゃん!」
 眼に飛び込んできたのは、心配顔のサクヤだった。もう放課後らしく、窓から見える空はオレンジに染まろうとしている。保健室の掛け時計は、すでに四時を示していた。昼休みの頃には意識はあったから、三時間半ほど眠っていたことになる。我ながら、よく眠れるものだと感心するものの、霊の声を聴いた時には身体も心もひどく消耗していることが多い。だから多くの睡眠を必要とするのだろう。なんて自己分析も出来るほどに、オレは回復した。保健室のベッドに取り付けてある鏡をのぞくと、完全に顔色は元通りになっていた。よし、これでもう大丈夫。
「……ひーちゃん?」
「あぁ、なんでもない。あれ? それはオレのカバンじゃないか。わざわざ持ってきてくれたのか?」
 するとサクヤはカバンに眼をやって頷く。
「んだよ。スイレンちゃんは委員会会議って奴に行くって言うはんで、ワアが預かってきたんず。調子はどだんず? もういい?」
 あまりにもサクヤが心配そうな顔をするので、オレはにっこり笑ってやった。大抵の場合、サクヤはこうすると安心する。昔からそうだ。
「もう平気だよ。心配しなくてももう平気だ。……ただし」
「ただし?」
「夢を見た。今ではもうじーさんばーさんだろうが、若い夫婦の夢だ。男が、夫が戦争に行って、若い妻は残される。そんな夢だった」
 オレはゆっくりとベッドサイドに置いておいたヘッドホンを取って、耳に当てる。今のところ声は聞こえてこないが、いつ騒がしくなるか解らない。サクヤはしばし、難しい顔で考えごとをしているようだ。だが、黙っているのは性に合わないのだろう、すぐにオレの手を掴んだ。そのあまりの力強さに、オレは無理やり起き上がらせされた。
「成仏させてあげよう! この世に未練が残ったまま死ぬなんて、そんなのまいね! 絶対に、まいねはんで! ねっ、ひーちゃん!」
 さすがは八乙女宗家のイタコ様は言うことがご立派だ。オレなんか、そんなややこしそうな事なんかに関わるのはまっぴらごめんだというのに。
「やだよ。オレはこの能力が嫌いなんだよ。オートで霊の声が聞こえるなんて、そんなのは騒音と同じだ。いくらおまえが立派なことを言ったって、おまえだって自分の身を犠牲にしてるんだろ? だから若いのにそんな白髪頭なんだろ? 少しは自分が利用されてるって気づけよ。いくら八乙女本家の娘でも、宗家ならたくさん代わりはいるだろ?」
 八乙女宗家は、三兄弟が継いでおり、サクヤの父親の話は訊かないものの(聞いたら気まずくなりそうで訊くに訊けないだけだが)、外に愛人を囲っているという噂がある。それもひとりふたりの数では済まないそうだ。よくもまぁ、この現在日本でそんな真似が出来るものだと感心するが、それは軽蔑と同義だ。よって、八乙女宗家には何人いるかは知らないが、それなりの跡取りがいても不思議ではない。
 しかし、サクヤはいつの間にか津軽衆らしく、じょっぱりになっていた。
「せばだばまいねだっきゃぴょん!」
 言いながら、サクヤは手足をばたばたさせている。子供かおまえは。眼には涙が浮かんでいる。そんな真似をしても、オレは絶対に動かないぞ。……たぶん。
「なによ? いったい何の騒ぎ? 保健室では静にするものよ」
 カーテンを引きながら、アンズちゃん先生が顔をのぞかせた。そしてこの状況を見て、何か勘違いをしたらしい。
「……保健室をラブホ代わりに使うんじゃない、このマセガキが!」
「違いますって! オレにはそんなつもりはなくて――。っていうか、オレはさっきまで病人だったんですよ? 病人がそんな真似すると思いますか!?」
 あわてて訂正するも、アンズちゃん先生の眼は怖いままだ。女子の間では優しくて信頼できる先生だという評判があるが、男子の間では、ただひたすらに怖いという評判しかない。かくいうオレも、このアンズちゃん先生は教員の中で一番の苦手かもしれない。男に冷たすぎるからだ。いくら見た目が美人でも、怖い女は嫌だ。
「ひーちゃんは、そんなことできる度胸はないはんで、安全パイです」
「あらそうなの? ……なっさけないわねぇ。こんなかわいい子を目の前にしても、襲う度胸もないなんて」
 今度はアンズちゃんがオレを見下げ果てた男を見る眼で見た。……くそう、なぜ今日に限ってこんなことばっかりが起こるんだ? オレが何かしたのか? オレが悪いのか?
 そんなことを考えている間に、アンズちゃん先生は一応病人だったオレの様子を嫌々ながらもチェックしている。そこまで露骨に嫌な顔をしなくてもいいじゃないか。オレは、調子が悪くて保健室に来た。保健室は身体を休め、調子をよくするところ。だから保健医がいる。我ながら見事な三段論法だ。しかし、アンズちゃん先生に正面切って逆らう勇気はオレにはない。後々にベッドを貸してもらえなくなったら困る。だからオレは、大人しくアンズちゃん先生による、嫌々な身体検査を受けたのだった。
「――よし、八木君は完全に良くなってるわ。保健医として保証する。用が済んだんだから、さっさと下校しなさい。……そうそう、八乙女さんはおいていってもかまわないわよ?」
「いや、連れて帰りますよ! なに言ってるんですか!?」
「……ほんの冗談なのに」
 この人が言うと冗談が冗談に聞こえないから怖い。サクヤをここに置いていったら、間違いなく食われる。オレはサクヤを連れて、慌てて保健室を後にした。
「あっ、ひーちゃん待って!」
「だから、学校でオレのことを『ひーちゃん』って呼ぶな!」
 軽い口喧嘩をしながら、オレはサクヤの腕を引っ張って行った。


「あれ? 八木君、調子よくなったの?」
 教室で帰り支度をしていたスイレンがオレたちが戻ってきたのを不思議そうに見た。たしかにサクヤはカバンを持ってきたくれたが、忘れてはならないものがある。今日の宿題のプリント類だ。うちの学校は入学が簡単とはいえ、進学率を上げるために、毎日のようにどの教科でも大量の宿題が出る。しかもそれが難しいのだから、苦労も多い。バイト禁止の理由は学力の低下を防ぐためでもあるらしい。
「あぁ。もう大丈夫。で、今日はどこまで進んだんだ?」
「八木君って真面目なんだけどさぁ、たまに調子悪くなるのが惜しいわよね。あたしなんか健康体だから、保健室なんか誰かの付き添いでしか行かないわよ。アンズちゃん先生と、もっと親しくなりたいのにな」
 アンズちゃん先生への評価は生徒によってわかれるらしい。オレは『怖い』という評価だが、女子生徒の間では友達のようになんでも話せるし、悩み相談もできる、『いい先生』らしい。まぁ女尊男卑主義のあの先生だからこそのそんな評判なんだろう。ちなみにヒトヒトちゃんは表面上は同業者として親し気にしているが、実はアンズちゃん先生が苦手ではないかと思っている。アンズちゃん先生の方はヒトヒトちゃんのことはそれほど嫌ってはいないらしいが。
「やめた方がいいぞ。いつか食われてもいいっていうんなら止めないけど」
「なによぉ、それ!」
 スイレンは愉快そうに笑う。スイレンだって、それなりに可愛いという形容詞が似合う女子なのに、どうやら男嫌いの気があるらしい。それを指摘すると本人は否定するが、だいたいの反応で察している。学級委員という肩書のおかげで、それは誤魔化されているわけだが。
「スイレンちゃん、ひーちゃんね、疲れてらんだ。だはんで、早く帰らねばまいねんず」
 サクヤが助け舟を出してくれた。オレは疲れている、その通りだ。寝ている間でも望まない霊能力のせいで、夢の中でもオレは覚醒している。だからオレはいつも眼に見えるものが夢なのか現なのか解らなくなる。ガキの頃はもっとひどかった。それが、最近は少し和らいだ気がする。もしかして、サクヤのおかげだろうか?
「――ひーちゃん?」
「あ? あぁ、そうだ、オレもう疲れちゃってさ。じゃあなスイレン! また明日」
 オレは机の引き出しに突っ込んである各教科のプリントを取り出し、カバンに移すと、サクヤと共に教室を去った。……つもりだった。
「ちょっと八木君、まともに授業を聞いたない
くせに、宿題が解るわけないでしょ? もう、しょうがないんだから。あたしのノート、コピーしといたから、これを持ってきなさいな」
 スイレンらしい気遣いだ。さすがは学級委員、気が利いている。オレはありがたくそのノートのコピーを受け取ると、礼を言って、今度こそ教室から出て行った。


「それで、ひーちゃん。その霊は今どこにいるんず?」
 校門を抜けると、サクヤがそう尋ねてきた。うん、サクヤならそう来ると思ってたよ。おまえは昔からそういう奴だったもんな。困っている奴がいるとほっとけないっていうか、お人好しっていうか、人情に厚いっていうか。そこが人によってはサクヤの魅力なんだろうが、オレからしてみればまったくそうは思えない。自分の身を削ってまで赤の他人に尽くすなんてバカらしい。
「……さぁな。オレだって苦しかったんだぞ? 他人のことに気を取られてるヒマなんかないんだよ。おまえだって八乙女家の者なら解るだろ? 望まない能力を持ったせいで、自殺にまで追い込まれて奴だっているって話じゃないか。冗談じゃない! オレは能力は自由に使いたいし、長生きだってしたい。おまえだってそうじゃないのか? そんなイタコの能力なんか、あってもなくても同じだろ!?」
 サクヤが涙を眼に一杯に溜めてこちらを睨んだ。津軽のじょっぱり気質は、女だろうがすぐに泣くことを許さない。じょっぱりとは、意地っ張り、頑固という意味でもある。『たしか』、程度の記憶だが。
「ひーちゃんが今、そうやって生きていられるのも、その能力があるからなんだよ?」
 突然サクヤがぼそりと言った。いったい何を言っているんだろう? オレは昔からこの能力に悩まされてきた。苦しめられることこそあれど、助けられた記憶なんかない。サクヤの様子がどこかおかしい気がした。まるでいつものサクヤではないような、そんな気がした。
「どうしたんだよ、急に。らしくないぞ?」
「ひーちゃんがワアの何を知ってるらってんず? なんも知らんくせに」
「落ち着けよ」
 こうなるとサクヤは日頃の大人しい(?)態度が嘘のように、興奮しだした。いったい何がサクヤをそこまで駆り立てるのか、理解不能だ。
「ワアはちゃんと落ち着いてらよ!」
「嘘つけよ! ぜんぜん落ち着いてないじゃないか! ……解った、その夢の中のじーさんばーさんさんの霊を助けてやればいいんだな? で? オレは何をすればいいんだ?」
 オレは半ばやけっぱちになって、サクヤに尋ねる。するとサクヤはこれまでの態度が嘘のように、とろけそうな笑顔を浮かべた。
「んだよ、ひーちゃんはそうじゃないと! ヘッドホンを外して、霊がどこにいるのかを探ってくれればいいんず。あとはワアが口寄せして、霊媒する。それで万事オッケーだはんで!」
 そんな簡単な話なのか? 口寄せと霊媒ってどう違うんだと言いかけて、やめた。サクヤの説明はたぶん的を射ないだろう。そういうところが昔からサクヤにはあった。決してバカではないのだが、説明が壊滅的に下手というか、少なくとも霊能力に関しては、サクヤは無知な部類に入る。こんな時に姉ちゃんがいれば助かるのになあ、なんて思う。今の姉ちゃんは泊りがけでの仕事の真っ最中だから、そんなわけにはいかないが。
「……それで、サクヤは満足なんだな?」
「ちゃうよ。ワアが満足なんじゃなくて、霊が満足して成仏するんず。今のままこの世にとどまっていたら、成仏できないで、悪霊になってまる。そんなの可哀想じゃない?」
 そんなもんか。霊という存在もまた厄介なものだ。この世に未練を残して死んだら、成仏も出来ずに悪霊と化す。サクヤはそれを恐れているらしい。言われてみれば、そうなったら困るのはオレも同じだ。オートで悪霊の声が聞こえてくるなんて、考えたくもない。オレはしょうがないので、ヘッドホンを外す。途端に耳に入ってくるのは、霊たちの無数の声、語り掛けてくる声だ。
「ひーちゃん、どう? そのおじいいちゃんかおばあちゃんの声は聞こえる?」
 サクヤが心配顔でオレの方を見る。こちとらほぼ四六時中霊の声を聞いている。聞き間違える、なんてことはない。いったいオレはサクヤにどんな風に思われているのだろう? ただの便利な幼馴染? それとも――。
『この子は、この子だけは殺さないでください! お願いですから!』
「来た! この声は、たぶんばーさんの声だ!」
 サクヤが敏感に反応した。すぐに霊媒に取り掛かれるようにとのことなのか、両手、計十本の指で印を結ぶ。本場のイタコのやり方なのかは解らないが、それがサクヤにとっては一番やりやすい、慣れたやり方らしく、スムーズに霊を取り込む準備が進んだ。やがて、サクヤはぐったりとオレに向かって倒れ込んだ。
「サクヤ? おい、サクヤ? おいってば!」
「…………」
 白目こそ剥いていないものの、今のサクヤは霊を受け入れるために一時的に自分の人格を封印しているようだった。オレがどんなに声をかけても、身体だけになったサクヤは応えない。急に不安になってきたところで、オレの耳に届く霊の声が大きくなった。もう、近くまで来ているのだろう。
『……身体? 身体があるわ! 誰にも渡さない、その身体はわたしが使うわ!』
 先ほどまでの悲劇の霊といったイメージは見事に覆った。今やばーさんの霊は、悪霊そのものだとオレに感じさせていた。こんな霊を身体に入れて本当に大丈夫なのか、サクヤに問いたいところだが、そのサクヤは意識どころか人格すらない、身体という器しかない。ばーさんの霊は、どこか嬉しそうに霊視の能力のないオレでも見えるほど濃くなり、生前の姿で実体化した。ホログラムのように、透けて見える身体には、傷跡があった。手には赤ん坊の亡骸を抱いている。そのばーさんの霊が、ゆっくりと、おそるおそる、サクヤの身体に入ってゆく。『すうっ』っとでもいう効果音が聞こえてきそうな状況だった。
「この身体……ずいぶんと古びてるねぇ。おや、坊や、あんたがわたしを探し当ててくれたのかい?」
 サクヤの身体に入った霊は、口調が急に老けた。霊の時はやけに若々しかったのに、身体を手に入れた途端に急にばーさんくさくなった。いや、実際にばーさんなんだろうけども。
「古びてるって言われても、オレにはなんのことやらさっぱりだ。その身体の持ち主は、恐山で修業したイタコのサクヤだ。少しは感謝したらどうなんだ?」
 するとばーさんは不満げにくちびるを尖らせた。外見がサクヤだから、その仕草は可愛らしく映ったのだが、素直に『かわいい』と認めたくない。ばーさんは白髪が混じったサクヤの髪を弄っている。そして突拍子もなくオレに尋ねた。
「鏡はないのかい?」
「……はぁ?」
「だって、愛しい旦那に会うんだよ? こんなみっともない白髪にみっともない顔立ちだったら、会うに会えないじゃないか」
「…………」
 この身体がサクヤの者でなかったら、このばーさんを殴り飛ばしているところだ。せっかくサクヤの好意で身体を貸してやっているというのに、その言い草は何だ。そう言ってやろうかと思いながら、死者の霊はやろうと思えば色んな超常現象、だいたいは困ったことをする事が出来るのだと姉ちゃんに聞いていたから、ここは逆らわないことにする。それにしても今日はやけに女絡みで嫌な目に遭うな。なにか呪われてるのか?
「あら、なかなかいい感じじゃないの? ……これで髪が黒髪ならねぇ。眼の色もハイから過ぎて気に入らないねぇ」
 オレが渡した鏡を覗き込みながら、ばーさんは好き勝手に言う。……サクヤの好意は完全に無にされたも同然だ。頭に来て、ばーさんに説教をしてやろうとした時だった。よろよろになったじーさんがオレたちの前にある横断歩道を横切ろうとしたのは。
「あなた!」
 サクヤの身体を借りたばーさんが、慌ててそのじーさんを止めた。『あなた』ということは……まさかあのイケメンが、こんなにさえないじーさんになったってことか? とてもではないが信じがたいし、その変化に気づいたばーさんもまたすごい。よくよく見れば、たしかにあのイケメンの面影は残っているが、今やボケが始まった徘徊老人というカテゴリーに属するであろうじーさん相手にサクヤの身体で話しかけるのはなにやらものすごい違和感だ。
 じーさんはばーさん(姿はサクヤのまま)の方を振り返った。そして嫌なニヤニヤ笑いをした。
「おう、若いお嬢さん、わしに何か用かね?」
「わたしが解らないんですか、あなた!?」
 ばーさんはもどかしそうに話しかけるが、相手はまったくばーさんだと気づいた様子がない。じーさんは相変わらずニャニヤとサクヤの方を見ている。その視線は、いやらしいものを見る眼だとオレにははっきり解った。……なんだこのエロジジイ。
「あなたあなたって、君はわしの後妻希望かい? いいともいいとも。ばあさんには先立たれたし、わしも若い女のことにゃんにゃん――」
「あなたの子供を生んだのをお忘れですか!? ノゾムはミルクの配給が少なくて、死んでしまいました。……わたしだって、もう死んだけれど、今こうしてあなたの眼の前にいるではありませんか?」
 『ノゾム』という名前が出てきたところで、やっとじーさんはサクヤの姿をしているものが、ばーさんなのだと悟ったようだった。
「……ひろ子? ひろ子なのか?」
「そうですよ、あなた!」
 感動の再会だとばかりに、人目をはばからず抱き合うじーさんばーさん。……ばーさん、それ、サクヤの身体だってこと忘れんなよ? オレの中でなにか黒いものがふつふつと浮かんできては消えた。まさかオレは嫉妬でもしてるってのか? バカバカしい。
「わしが戦争から帰った時には、おまえはもう――」
「えぇ、えぇ、わたしはもう、この世にはいなかったんです。もう死んでいた。あなたがつけた『望』という名前の子供も、ミルクの配給が少なくて殺されたようなもの。かくいうわたしも、食糧が足りなくて、衰弱して死んだ。……あぁ恨めしい。この時代に生きる若者が恨めしい」
 そんな事情があったのか。オレはそう納得していると、じーさんがものすごい眼でこっちを見た。オレがなんかしたのか?
「ひろ子、わしゃその若い外見だろうが、関係ない。ひろ子はひろ子だ。そんな恨み言など言わないで、わしと一緒に生きようじゃないか」
「そう、わたしたちはずっと一緒にいるの。でもね、やっぱり望を奪ったこの世が、この国が憎いわ」
 サクヤの身体でなんという物騒なことを言うのだろう。このままではサクヤの姿で何か恐ろしいことをしてしまうかもしれない。そうしたら、サクヤは豚箱行きだ。なんとしてでも阻止しなければ。
「……ばーさん、もう満足だろ? じーさんとも再会できたんだからさ。だから、もう成仏しようぜ? な?」
 すると、すごい眼でばーさんは振り返った。オレの方をきつい眼つきで睨みつけている。穏やかな性格のサクヤでも、中に入っている人格によってここまで違うのだと思い知らされた気分だ。ばーさんは言った。
「わたしたちの平穏な生活を返して。わたしたちの子供を返して。わたしたちの思い出を返して。ううん、それだけじゃ足りない。すべてを返せぇ!」
 サクヤの身体に入ったばーさんはものすごい形相でオレを睨んだ。そこにあるのは、哀しみだった。けど、霊の声を聞くことしかできないオレでは、何の役にも立てない。オレはなんて無力なんだ。サクヤの危機にも対処できないなんて。
「じーさん、ばーさんを何とか宥めてくれよ! 夫婦なんだろ?」
「夫婦だからこそ、宥められん。おまえだって、好きな人の一人や二人や三人はいるだろう? それと同じことだ」
「いや、まったく違うと思うんだけど」
 それに、好きな人がそんなにたくさんいてたまるものか。オレは、あの頃のサクヤ一筋だ。たぶん。
「……そんなに現代の若者が憎いのか?」
「そうよ。何の邪魔もないまま、平和を手にするなんて許せない。わたしたちは、子供すら戦争に奪われたのに!」
 オレの脳内に浮かんだのは、本当にシンプルなことだけだった。
「じゃあ、オレを思いっきり殴れよ。それで満足してくれ、頼む」
「え?」
 サクヤの姿をしたばーさんは呆然とした。そして憤懣やるかたないと言った顔で、それでもオレに三発パンチを繰り出してきた。
「あんたみたいな平和ボケしたチャラチャラした奴なんかに、わたしの無念が解ってたまるものか!」
「…………」
 その通りなので、オレはなにも言わず、抵抗もせず、大人しく殴られた。きっとこれが最良の方法だと信じて。
「あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか!」
 傍から見れば、オレとサクヤが痴話げんかしているようにしか見えないだろう。それでいい。続けざまにまた数発くらったところで、じーさんがばーさんを止めに入った。
「……もういいだろう、ひろ子。この子はなにも悪いくないだろう? 祟り神にならないうちに成仏すべきなんじゃ」
 意外にも、じ―さんが止めに入った。オレは既にボロボロだったが、それと反比例するように、じーさんとサクヤの身体に入ったばーさんの表情は、晴れやかだった。
「あなた……。わたしがいなくても生きていけるの? 寂しくないの?」
「おまえの思い出はわしだけのものじゃ。他のもんには絶対に渡さない。……それならいいじゃろ?」
「あなた!」
 じーさんと(サクヤの身体に入った)ばーさんはひしっと抱き合った。これがサクヤの、イタコの仕事かと、オレは少しだけサクヤを見直した。ただ、サクヤの言っていた『好きでイタコになったんじゃない』という言葉だけが、オレの中で渦巻いていた。


「……ん? ひーじゃん、おばあちゃんとおじいちゃんは?」
 サクヤがやっと自分の人格に戻った。オレはあらかじめ買っておいたお茶をサクヤに渡す。ホットだったのに、ずいぶん長い間サクヤが目覚めないから冷めてしまった。
「成仏したみたいだ。オレにももう、ばーさんの声は聞こえない」
「よかった!」
 サクヤは本当にほっとした様子で微笑んだ。そしてオレに向かってしゃあしゃあと言う。
「ねっ、自分の力を生かすって、こんなに素敵なことなんだよ! だから、ひーちゃんも――」
「ごめんだな」
 オレはサクヤの言うことを無視しようとしたが、疲れているであろうサクヤが哀れになって、それだけ言ってやった。
 これがオレとサクヤが解決した、霊の悪霊化を防いだ第一の出来事である。

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2017年 1月23日 莊野りず
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