忘れモノ探し
〜保健医の章〜
『たすけて……』
幼い少女の声が聞こえた。彼女のその声はか細く、今にも消えてしまいそうだった。それに、その声はオレには聞き覚えがあった。……そのはずなのに、それが誰の声なのかは全く思い出せない。たしかに聞き覚えがあるはずなのに。
『このままじゃ、消えちゃう。わたし……消えちゃうよぉ』
少女――女の子の声は鋭くオレの心をえぐった。彼女は今や泣き出していた。どうにか泣き止まないかと念じてみるが、オレじゃあどうしようもない。女の子はますます勢いよく泣き出した。まるで泣くことですべてのエネルギーを使い果たしてしまおうとしているかのように。
オレに聞こえるのは声だけで、映像はない。だから彼女の外見についてはまったく知らない。
『なんで消えちゃうって思うんだ? どうして君は苦しんでいるんだよ? それが解らないと対処のしようもないんだよ』
オレはできる限り、優しく問いかける。しかし、相手は泣いてばかりだ。もしかしたら、相当幼いのかもしれない。まだ幼稚園児とか、そのくらいの年齢だったら厄介極まりない。オレは年下すぎる女の子は大の苦手なのだ。男の子ならばまだ同性だし、理解できる。が、女の子ではそうはいかない。
『たすけてほしいの。わたし、殺される。失敗したら、きっと殺されちゃうの! 今でも苦しいのに……!』
いったい何のことを言っているのだろうか? 失敗したら殺される? まるでオレたちの家のようじゃないか。八木家も八乙女家も、それぞれの能力の誇りを持ち、信念を持っている。そうでないのはオレくらいのものだ。女の子は呟いた。
『……わたしが失敗したら、サクヤが跡を継いでくれるかな?』
突然にサクヤという名が出て、オレは驚くしかなかった。女の子の声音は、よく聞いてみるとサクヤの母親の声にひどくよく似ていた。
『じゃあ君はもしかして――』
サクヤの、と言いかけたところで、暗闇から出たような感覚がオレに襲い掛かり、夢から覚めた。
「こら、八木ちゃん! 授業中に居眠りはダメよん」
担任兼現国教師のヒトヒトちゃんがオレに向かってチョークを向けているところだった。危ない危ない、あのまま夢の中にいたら、チョークが直撃(駄洒落ではない)していたに違いない。ヒトヒトちゃんは中身は乙女だが身体はれっきとした男なので、その上、昔は陸上部のエースだったという噂もあり、チョークを投げたら百発百中の腕前なのだ。
「すみません。ちょっと調子が悪くて……」
オレはいつも夢を見るが、大抵の夢は幼い頃の夢だから対して害はない。が、今回のように不吉な予感のする夢を見た時は話は別で、一気に貧血気味になる。この現象とオレの霊能力は何か関係があると姉ちゃんは勘ぐっているものの、証拠は何もない。根拠も、同じくだ。今のオレの顔色は真っ青に違いない。
「そうぉ? それじゃスイレンちゃん、八木ちゃんを保健室に連れてったげてちょうだいな。アタシは授業があるからネッ!」
いつも通りのヒトヒトちゃんのノリには安心させられる。これでシリアスな雰囲気にでもなったら、オレはKYもいいところだ。スイレンは立ち上がって、オレの肩を抱いた。
「ちょ、そんなことしなくてもちゃんと歩けるって――」
「病人がナマ言うんじゃないの! あんた、顔色が真っ青なんだし。それにさぁ、どうせあんただってあたしのこと、女扱いしてないくせに」
「……それはそうだけど」
「そこは否定しなさいよ! ホンットに女心のわからない奴ね!」
「どうしろっていうんだよ……」
オレはすっかり貧血のようで、身体が重くてたまらない。スイレンの好意には素直に甘えておこう。サクヤの方をちらりと見ると、オレの顔を凝視していた。その青い眼がうるんでいる。今にも泣きそうなサクヤの顔なんか見ていたくなくて、オレはスイレンを急かした。
「スイレンさん、すんませんが、もうちょい急いでくれませんかね? みんなの視線には耐えられなくて」
「文句を言う元気だけはあるのね。ホント手に負えないわ」
言いながらも、スイレンはどこか楽しそうだ。こうしてオレとスイレンは教室からのろのろと、亀の歩みで保健室へと向かったのだった。
「貧血でしょ? この顔色を見れば一発でわかるわ。どう見ても貧血です。でもね、保健室っていうのは女の子のための場所であって、野郎が来る場所じゃないのよねぇ。部活とか体育で怪我したってんなら解るけども、ただ授業を受けていての貧血でしょ? しかも八木君は体育サボりの常習犯じゃないの。そんな子にかすベッドなんてあると思うの? ベッドに野郎の汗くさい体臭がつくだけでも保健室としては大・迷・惑・な・の・よ! 解ってるの? それに、ちゃんと聞いてるの? ねぇ、ちょっと、八木君?」
保険医の安森先生は一気にそうまくし立てた。
うちの学校の教員は、個性豊かというか、教師としてどうかと思う連中(こういう言い方は大変失礼だが)ばかりがそろっている。なんでも、理事長が個性的な生徒、将来活躍する生徒というのは、個性的な教師の薫陶を受けて育つものだ、なんていう意味不明な理屈というか、考えを持っているために雇われるのは変人教師ばかりなのだ。
その例にもれず、保険医である安森杏子先生、通称『アンズちゃん』先生もまた、究極のというか、極度のというか、過激というか、言葉に迷うが、こういえば一発でわかってもらえると思う。『男嫌いの女好きの究極のフェミニスト(だがビアンではない)』。つまり、女子にはたとえ仮病だろうが優しくて、すぐにベッドを貸してくれる親切な先生だと知られているが、男子にとっては保健室には行きたくないと言われてしまう先生だ。見た目はハリウッド女優並の美人なのに、まったくもって残念だというのが男子の意見であり、オレの意見でもある。
「すみません、先生がアンチ男子ってことは知ってるんですが、どうしてもダメですか? 八木は本当に調子が悪いんです」
「あら、スイレンちゃんがそこまで庇うなんて、まさか……」
「いえ、違います! あたしの好みは、もっと渋いオジサマであって、こんなもやしみたいなちびではありません!」
……なんかスイレンまで勝手なことを言い出したぞ。去り気に失礼だし。まぁ、スイレンも恋する乙女的な面があっても、その対象はハリウッド映画に登場するような渋い二枚目であり、日本人の俳優で言うと藤田まことが一番好みだという。それはもう『オジサマ』通り越して、『オジイサマ』じゃないかとも思うが、今ここ保健室で休めるか否かはスイレンの交渉にかかっている。頑張ってアンズちゃん先生を説得してくれ。
「…………」
とか思っている間に、オレは一気に意識が遠くなるのを感じた。これはまずい、霊の声が強く脳内に響く。オレは慌ててヘッドホンの音量を上げる。ロック歌手が勢いよく「カモォーン!」という叫び声を上げた。
「そういえば、一年三組にはかわいい女の子が転入してきたらしいわね?」
「八乙女サクヤちゃんのことですか? はい、彼女はあたしの隣の席ですよ。かわいいです、ちょっと言葉が変わってますけど」
話題が患者であるオレではなく、サクヤのことに変わった。この保険医はいったい何のためにいるんだ? 保険医としての仕事をしていないのに給料はいいらしいと噂で聞いている。また、どうでもいいことが頭をもたげた。これ以上、頭を使いたくない。さっさとベッドに横になりたい。
「ひーちゃん!」
好みのタイプについて盛り上がっていたスイレンとアンズちゃん先生は、そろって保健室の入り口の方を振り向いた。そこにはサクヤが息を切らせて立っていた。
「あら……なかなか好みよ、この子。どこのクラス? 名前は? 恋人はいるの?」
アンズちゃん先生はサクヤを一目見るなりそう問いただした。ほんのり顔が赤いけど、本当にノンケなんですよね? 急に心配になってきた。というか、なぜサクヤがここにいる? 今は授業中だろうに。
「ひーちゃんはヘッドホンしてらから聞こえなかったんだと思うけんど、もう休み時間になったんず。ワア、ひーちゃんが心配で、心配でたまらなかったはんで、こうして保健室に来てみたんず」
サクヤはにっこり笑った。そしてオレの頬に触れてきた。
「……学校では『ひーちゃん』って呼ぶなって言ったろ? それに、こんなことまですんなよ……」
オレは冷たいサクヤの手が気持ち良かったが、照れくさくてそう言ってしまった。照れくさいだけじゃない、オレのことを『ひーちゃん』と呼んででいいのはサクヤだけであって、クラスメイトにも先生にも知られたくなかった。それが呼ぶなと言った理由なのだ。なのにサクヤときたら、そんなオレの気持ちも考えずに……まったくもう。
「ワアが悪かったよ。それは認めるはんで、そばにいていい? ちゃんと弁当箱も持ってきたはんでさ」
スイレンとアンズちゃんはサクヤの持っている二つの弁当箱を見ている。ひとつはオレので、青い弁当箱。もうひとつはサクヤ用に買ったもので、薄いピンクのキャラクターものだった。昔からサクヤはそのキャラが好きで、そのキャラのグッズが出るや否や、買いに走っていたものだった。そのキャラの名前を、オレは知らないが。
「サクヤちゃん、それって入手困難な『ラッキーウサギ』じゃない? どこで買ったの?」
話題が急に変わるのも女子の特徴なのだと、オレは知っている。姉ちゃんが友達を連れて家に帰ると、たいがいはそうだからだ。スイレンだけではなく、アンズちゃん先生まで話に食いついた。
「それって持ってると幸運になれるってキャラでしょ? なんでも風水を存分に取り入れたキャラクターだとか?」
「そうですよ。ラッキーウサギって風水好きだけじゃなくて、可愛いもの好きにも大ウケの、大ヒットキャラなんです。だから滅多にグッズが手に入らなくて……ねぇ八乙女ちゃん、これどこで買ったの?」
「これはね――」
せっかくサクヤが来てくれたというのに、サクヤは女子との会話に夢中になっている。サクヤ、おまえはいったい何のためにここにいるんだ? オレにベッドを提供してもらうためじゃないのか? そうでないのなら、スイレンを連れて帰ってくれ、邪魔だから。
そんなオレの念が通じたのか、サクヤは一通りラッキーウサギとやらの売り場の話を終えると、アンズちゃん先生に向き直った。
「ひーちゃんにベッドを貸してやってくれません? ひーちゃん、虚弱体質だし、霊能力のせいで苦しんでるはんで、ちゃんと休ませてあげたいんず」
「いいわよ。八木君、野郎用ベッドがたった今空いたから、そこ使いなさい。ああ、匂いが気になるなら、はい、消毒用アルコール」
アンズちゃん先生は、消毒用アルコールを業務用の瓶のままオレに渡してきた。
「……すいませんが、アトマイザーとかないんですか?」
「あるわけないでしょ? 野郎に親切にする義理はないの。アルコールが準備してあるだけましだと思いなさい」
とんでもない女尊男卑主義者だ。前の学校はいったいどのくらい勤めていられたのだろう。そんな素朴な疑問が浮かんだが、オレの精神はもう限界で、成長期独特の男の体臭がぷんぷんするベッドに、オレは文字通り倒れ込んだ。その頃には、授業中に見た夢のことなどすっかり忘れていた。いや、考える気力がなくなったといっていい。
「あっ、ひーちゃん!?」
「八木君?」
オレの方を振り向くサクヤとスイレンは、同時に声を上げたが、アンズちゃん先生はただ保健室の使用記録にオレの名前を書いているだけで、肝心の患者であるオレの方は一度も不利からなかった。女尊男卑もここまでくると清々しいと、遠ざかる意識の中で思った。
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2017年 1月20日 莊野りず
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