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● レンアイオムニバスーSideG --- 10、ほら私、イイ女でしょ? ●


 彼がスポーツ新聞に載らない日は、ほとんどないと言ってもよかった。それほど日本のサッカー界は彼に注目していた。
 今年、体育大学を卒業したての期待の新人・小林健太。その彼にはスポーツ選手らしく恋人もいた。ただしその恋人は彼のファンの女性たちから大ブーイングされるほど、彼に相応しくない女だった。


「そこ! 早くテーピングしなさいよ! 後遺症でも残ったらどうするの!?」
 もたもたと、慌てて健太にテーピングを施す新入りのスタッフに、彼女は文句をつける。
「アンタそれでもプロなワケ!? もういい、アンタみたいなどんくさいウスノロには任せておけない! あたしがやる」
 このくらいの毒舌は当たり前、監督にも時と場合によっては文句をつける。
「……さつき、それほどの怪我でもないし」
 宥める健太の言葉も届かない、聞こえないふりをしているのかもしれない。
「なに? あたしはアンタの心配をしてるだけよ! ちょっとの怪我で選手生命が絶たれたりしたらどうするの?」
 風当たりが厳しい、毒舌、そしてどう見ても性悪としか思えない。それが健太の恋人っである木崎さつき、年齢二十六歳だった。


 さつきが健太の恋人だと世間に知れ渡ったのは、健太の変装とは言えない変装のせいだった。デビューしたてで実力もあった健太はすぐに有名人となっていた。それなのにパーカーとジーンズまでは普通だが、帽子とサングラスがいかにも変装らしくてすぐにバレてしまった。その時はさつきとのデート中で少しでもおしゃれをしたいと思っての事だったが、ネタに困っていた週刊誌の記者の絶好の獲物となった。
『小林健太はブス専!? しかも相手は腹黒い悪女?』と大きな見出しが週刊誌に踊った。……もちろん大いに悪意のある誇張だし、当然健太は抗議しようとした。しかし当のさつきは冷静で、「ほっとけばいい」としか言わなかった。健太は釈然としなかったが本人の言う事だし……とうやむやにしてしまった。
 それが今の『さつきブーイング』につながり、さつきの姿が映るだけで不快だと言いがかりの手紙まで届くようになった。


 さつきの事はいつも健太を悩ませた。年上だからと健気に振る舞っている彼女を見ていると、どこかやるせなくなる。今日はチームにとって優勝に迎えるかという重要な準決勝の日だった。
 いつもの習慣で、健太は緊張をほぐすために早朝ランニングを行っていた。朝の清涼な空気が肺に溜まるのは、寒い冬の朝独特のものだ。弾む息が白いのもなんとなく嬉しいものだ。
 一定のペースでランニングしていると、健太と同じ目的なのか、中学生くらいの若い少年がマラソンをしていた。健太より後ろから走ってきたが、やがて健太を抜き去って、路地を右に曲がるところだった。
「俺も若い頃はああやって走ってたな」
 なんて呑気な独り言をもらすと、少年の前に大型トラックが飛び出してきたところだった。少年は走るのに夢中でそれに気づいていない。
「危ない!」
 そう叫んだと同時に、健太は自然と少年を庇ってトラックにぶつかっていた。一瞬で全身を巡る激痛に顔をしかめていると、少年は大慌てでスマートフォンで救急車を呼んだ。
「小林選手ですよね!?なんでこんな事を……」
 『こんな事』とは多分少年を庇った事だろう。なんでだろうと考えているうちに健太の意識は飛んだ。


 目を覚ました時には病院にいた。意識が覚醒するとともに、激痛が走る。
「大丈夫じゃないわね。ちょっと待ってて、お医者さん呼んで来るから」
 病室にいたのはさつき一人だった。状況が把握できずにその場で激痛に耐えていると、病室の扉が横にスライドした。
「小林健太さんですね。どうも、担当医の小早川です」
 『小林』の担当医が『小早川』なんて洒落が利いている、等と呑気な事を考えていると、思いもよらない言葉が小早川医師から告げられた。
「こういう事は、はぐらかしても仕方ががないと思うので、結論から言います。貴方はもう二度とサッカーなど出来ません」
「……は?」
 傍らのさつきも同様に言葉を失っている。小早川医師は更に続ける。
「普通は、交通事故では精々骨折程度で済むことが多いんですが、貴方の場合は肺に折れた骨が刺さっている状態なんですよ」
 彼は看護師に指示を出して、レントゲンを挟む台を運ばせた。
「これですね。この白いのが肋骨で、この灰色の臓器が肺です。……ごらんの通り、グサッと刺さってます。今も激痛が凄いでしょう?」
 確かに耐えがたい激痛が胸に走っている。脂汗が止まらない。
「そんな……何とかならないんですか?健太は昔からサッカーが好きで、プロになりたくて、これまでわき目もふらずに一直線に頑張ってきたんです!」
 さつきが激しく食い下がる。いつもの毒舌は流石に医師相手には出ない。
「……助かって、再びサッカーをする事は、可能性がないわけではありません。肺のドナーさえ見つかれば、手術で何とかできます」
「ドナー……」
 健太は呟いた。自分には一生縁がないと思っていた言葉。それがこんな形で目の前に現れるなんて。
「ドナーさえ見つかればいいんですね?」
 さつきは一筋の希望が見えたと喜びを露わにした。しかし小早川医師は首を横に振る。
「けれど検査の結果、小林さんに適合するドナーの数はわずか一千万人に一人。砂漠でコンタクトレンズを探すようなものですよ」
 最初から諦めているとしか思えない発言に、思わず健太は胸倉を掴み上げる。
「何とかしてくれよ!アンタ医者だろ!だったらドナーくらい……」
「やめなさい!」
 さつきが健太を諌める。
「……傷が開くわ。それにお医者さんに罪はないでしょ。悪いのはいくら人助けのためとはいえ、後先考えずに飛び出したアンタ自身なんだから」
 さつきは心底同情する眼差しで健太を見た。その目を見ていると何も言えなくなった。


 翌日になるまで、健太はサッカーの実況中継を一人で眺めていた。面会時間が過ぎたためさつきはもう帰った。チームの仲間がゴールを決める。
「……俺だったらあんなにちんたらしないでさっさと決めるのに」
 動けない自分の身体を呪いながら、その夜は眠れなかった。その翌日、と言ってもずっと起きていた健太には日付が変わった感覚は乏しかったが。
「おめでとうございます。ドナーが見つかりました」
 小早川医師はどこか辛そうに切り出した。その表情に何か嫌な予感がして、健太は思わず訊いていた。
「……ドナーってどこの誰ですか?」
「それは言えません。ただ、貴方の一番のファンだと自分で言っていました。貴方のためなら自分の身など惜しくない、とも」
 ドナーの名前などの身元を明かさないのは当然のことだったし、健太は納得した。
「それで、手術を受けますか? 先方はいつでも良いそうですが」
「出来るなら今すぐにでも! 早く身体を治して、グラウンドに立ちたいんです!」
 健太の熱意には負けたらしい。
「……本当にいいんですね? 後からやらなければよかったとか言わないでくださいね?」
 やけに念を押してくる小早川医師に、健太は後悔しないという事を力強く誓った。


 数日もすると、あの激痛が嘘のように消えた。ドナーには心から感謝しつつ、しばらく動かしていない身体をリハビリルームで動かす。
「自分の身体が自由に動くって素晴らしい事なんだなぁ」
 健太はそう言いながら、ボールを蹴る仕草をする。そこに監督が見舞いに来た。
「おう、元気そうだな。とてもじゃないがあの虫の息の病人だったとは思えない」
 見舞いの花は病室に置いてきたと監督は言った。
「退院はいつなんだ? 身体に異常がなければすぐにでもスタメン復活といきたいんだが……」
「それなら問題ないです。手術も終わったし、傷口の抜糸も済んだし、あとは軽く身体を動かしてるだけなんで」
 健太の健康そのものの顔を見た監督は満足して帰っていった。そこで手術後にさつきの顔を一目も見ていないことに気づく。もしやまだ健太が患わっていて、見舞いを遠慮しているのではないかと思った。
 病室に戻って、退院の支度をしようとベッド脇のチェストから着替えなどの荷物を取り出す。その中に見知らぬ保険会社のメモ用紙が数枚混じっていた。
「……保険会社? 俺はそんなの無縁だけど……」
 よく見ようとメモを見ると、よく知った筆跡があった。
『健太へ さつきより』。
 一番上のメモにはそう書いてあった。胸がザワザワした。
「……まさか、そんなはずは」
 震える手で、メモに目を通していく。そこには驚愕の内容が記されていた。
 ドナーの正体はさつき自身であること、適合したのは実の姉弟だからということ、自分たちは健太が生まれたすぐ後に両親が離婚したから知らなくて当然だということ――。
 そしてメモの最後にはこう記されていた。
 ――ほら、世間がどう言ったって、あたしはイイ女でしょ?
 カッコ笑とついていたが、とてもじゃないが笑えなかった。衝撃が大きすぎて笑うしかない。,br> 「はは、ははは……笑えない。笑えないよ、さつき」
 笑いはいつの間にか涙が混じっていた。その涙は翌日になっても止まってくれなかった。監督が車で迎えに来た時、やっと止まった。
 そして健太は今は亡き恋人兼姉に誓う。
「俺……絶対に世界一の選手になるから。だから天国で見守っていてくれよ」
 健太は思い切ってさつきの遺したメモを破り捨てた。きっと、さつきも自分がこんなところで立ち止まる事など望んでいないだろうから。


三年後、健太は押しも押されぬチームのエースとなっていた。スタジアムには若い女性を始めとする黄色い声。当然、彼は女性にアタックされるのもしばしばだった。でも彼が彼女たちの気持ちを受け入れることはなかった。
 ……今日も空は青い。
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