●● レンアイオムニバスーSideG --- 8、舐めて貰っちゃ困るわ ●●
新宿、歌舞伎町。私の職場はこの歓楽街にある。昼間でも東京の一都市として有名なため、人は多い。けれどそんなのは夜のそれに比べればどうってことはない。
……そう、私はこの街のキャバクラ『フリージア』のNO1キャスト。
いきなりだけどクイズです。千里千里、こう書いて何と読む?
『チサトチサト』?
『センリセンリ』?
……どちらも違う。正解は『チサトセンリ』でした。もちろんこれが私の本名で、源氏名はもちろん別。……元はと言えば、この紛らわしい面倒くさい名前のせいで、私はキャバクラで働くことを決めたのだ。
思えば小学生の頃からだった。担任の教師が、私の名前を『センリセンリさん』と読み間違えたのがきっかけで、私は周囲の子たちにからかわれた。「変な名前」、「名字と名前が同じって変」、「どこかの売れない芸人みたい」、などなど。進級の際に毎回担任が変わるのも勘弁して欲しかった。
私が通っていた小中学校は、田舎の中の田舎、The・田舎で、教員のほとんどを新任教師ばかりが占めていた。一回り程度しか歳が違わないのに、どうやって子供を教育するつもりだったのだろうか。私はいつも校内唯一の五十代の熟練教師に担任になって欲しかったが、その願いは届かず、私は新しいクラスでいつも弄られ対象だった。
私が母親のお腹の中にいる時に、私の父に当たる人と離婚した母は、所謂キラキラネームに憧れていたらしい。今はごく普通に読み方が全く解らない名前も多いけれど、私が小さい頃は名前に『子』をつけるのが一般的だった。昔読んだ本によると、女子の名前に付けられる『子』は『姫』という意味合いがあったそうだ。……だから私は、『和子』でも『康子』でも『直子』でも、『子』がつく名前だったらどんなにいいだろうと、ずっと周りの『子』がつく名前の子を羨ましく思っていた。
高校へと進むと、気の合う友人も僅かながらできた。でも、みんな私の事を『チサト』と呼ぶか『センリ』と呼ぶか迷っていた。私は早く結婚して、せめて名字を変えたかった。もしくは、私を『チサト』とも『センリ』とも呼ばない場所に行きたかった。
今現在務めている店、『フリージア』にスカウトされたのは、オープンキャンパス見学のために、地元から東京に下見に来ていた時だった。
「お姉さん、かなり美人じゃん! ウチで働かない? 時給超イイよ~!」
胡散臭い笑顔を浮かべた若い男が、ポケットティッシュを配っていた。中には小さなチラシが入っていて、そこにはやはり『フリージア』の文字があった。
志望校と一人暮らしようと、既に大家と契約済みの1Kのアパートの、ちょうど間に歌舞伎町はあった。立地条件よし、待遇よし、給料……信じられないくらい理想的。
正直に告白すると、私の偏差値では志望校に合格できるか五分五分だったけれど、私はこの店に惹かれた。チラシに掲載されている写真で見る内装は好みだったし、黒服と呼ばれるサポート役も大量に雇っているらしいし。
「……場所こそ歌舞伎町だけど、実際はそんなに怖いところでもないよ? 何ならタクシー送迎とかもあるし」
彼は、私が田舎出身だと気づいたのだろう。夏場だというのに長袖を着ていたし、何よりお国訛りが酷かった。不安になって、何度も彼に尋ねてみると、大丈夫だと何度も保証してくれた。
なんでも今時はキャスト(昔でいうホステスの事らしい)には個性が求められる時代だから、逆に訛っていた方が人気が出るとも言われた。私は彼にお礼を言って、すぐに面接を受け、簡単にそれをパスした。……こうして私は『フリージア』の新人キャストになった。
最初こそお酒は苦手だったが、慣れというものは怖いもので、今では焼酎のストレートも楽に飲めるようになった。……大学の傍だから、バレないかって? 女は化粧で大きく印象が変わるのものだ。大学では今流行りの女子大生メイク、お店ではつけまをたっぷり盛った華やかなメイク。ボディパウダーを鎖骨の上にポンポンはたけば、それで準備は完了。源氏名『麻子』の完成だ。
最初こそ戸惑ったものだったが、私の場合は訛りと、酔っぱらった時に出る方言のマシンガントークが受けているらしい。癒しや笑いなどの、『プラスの感情』が必要な時、客たちは『フリージア』を訪れる。
私たちキャストはただ笑って甘えて、ただ話を聴いているだけではダメなのだ。自分なりの意見をちゃんと持っている、教養あるキャストだけが、この店ではのし上がれる。その事は、既に引退した先輩に嫌というほど叩き込まれた。
当時は惨めだと感じていた、彼女のヘルプしかさせてもらえなかった時は、私がフォローに回っているのだとばかり思っていた。だが実際はその逆で、彼女は基礎の基礎をよりよく教えるためにわざと厳しくしていたとしか思えない。気がつくと私はNO1になっていたのだから、彼女には感謝してもし足りない。
今日も講義がすべて終わると、駅の改札口で友人たちと別れる。彼女たちはみんな東京に実家があり、一人暮らしの私をしばしば羨ましがる。
「いいところもあるし、悪いところもあるよ」
我ながら無難すぎる事しか言っていない。事実そうだから。一人だと気楽だし、朝帰りでも文句を言う者はいない。けれど、朝のゴミ出し、毎食の準備、掃除・洗濯などの家事を一人でこなさねばならない。その事――仕事の後の事を考えると毎回うんざりする。仕事が楽しい分、尚更。
友人たちと別れ、新宿方面行の電車に乗り込むと、私は新宿に着くまで新聞五種にくまなく目を通す。お店のお客さんのほとんどはサラリーマンで、仕事に行き詰った時に集団で来ては意見を求めることもある。そんな時にも慌てず冷静に意見を述べられないようでは『フリージア』のキャスト失格。
新宿に着くころには、いつもちょうどすべての新聞に目を通し終えたところだった。
「麻子さん、おはようございます」
新宿駅から徒歩十分、歌舞伎町の中に『フリージア』はある。一見さんお断り……という訳ではないけれど、どこか高級クラブのような外装は、新規の客を遠ざけるような気がする。実際に彼らは会社の先輩などに連れてこられて……なんてパターンが一番多い。
「麻子さん、新規のお客様です。お願いします」
担当の黒服に目くばせで了解の合図を送り、私はその新規の客の席に着く。
「こんばんは、はじめまして麻子です。ご指名ありがとうございます」
お客さんの目の前でにっこり笑ってぺこりと頭を下げる。一通りの挨拶の後、彼を見たら、どこかで見たことがあるような気がした。相手も私の顔を穴が空きそうなくらいじっと見つめる。
「……初対面で悪いんだけど、どこかで俺と会ったことない? 俺は橘望ってんだけど」
やけに場違いな、安っぽい派手な服を着たその客は確かに私と同い年くらいに見えた。確かにどこかで会った事があるのかもしれない。
「……人違いでじゃないですか? ほら私ってよくいる顔ですし」
それでも橘と名乗ったこの男は納得しない。ひたすら首を捻っている。しばらく私の顔をじっと見つめていたかと思いきや、彼は全ての謎が解けたとでもいうように、私を指差した。
「あ~解った! ……経済学部のセンリセンリだろ? 有名人だぜ、お前」
あっさり私の正体が見破られてしまった。これまで同じ大学の生徒が来たこともあったけど、上手くあしらって来たのに、なぜこんな成金丸出しのチャラ男に見破られなきゃならないの?
「校則ではこういう店で働くのは処罰対象だよなぁ? ……さて、黙っててほしい?」
ネチネチと嬲るようにその言葉を発する。私が逆らえないことを知っていてわざとそんな事を言うこの男の第一印象は最悪だった。
「まずは金だな。NO1って事はそれなりに儲けてんだろ?」
歪曲表現は使わず、直球で来た。ここまでストレートな要求だといっそ清々しい。
仕事が終わり、帰ろうとタクシーを待っていると、それを知っているのか、裏口で橘が待ち伏せしていた。
「……黒服に言ってのしてもらってもいいのよ?」
私はそう脅すが、現実にはそれは叶わない。この店の黒服は店内で働いている時はとても頼もしいが、一度店の外へ出てしまうとあとは知らん顔。目の前のこの男は全く怯まない。
「金、出せよ。学校にバレてもいいのかよ?」
万札を五枚、お財布から取り出して渡した。橘は素早くそれを奪い取り、乱暴にチノパンのポケットにしまった。
「さっすが~NO1は違うね。女はいいよなぁ、楽に稼げて。じゃあな、また来る」
私からお金を巻き上げると満足げにいやらしく笑って、橘は歌舞伎町のネオン街に消えた。五万円くらいなら三、四日で稼げる。しかしこれはそんな問題ではなく、プライドの問題だった。
この店に勤め始めて私は初めて悔し涙を流しそうになったけど、必死で耐えた。ここで泣いてしまったら、今まで築いてきたものがすべて崩れ去るような、そんな気がして。
「お前さぁ、なんでキャバクラなんかでバイトしてんの?」
もはや私の部屋に当然のように立ち入るようになった橘は、私から万札を数枚受け取った後、そう訊いた。
「……アンタには関係ないでしょ? どうせたかるだけのくせに」
私がそう言ってやるとやれやれとでも言いたいのか、肩をすくめた。
「ただ純粋に気になるんだよ。こんなに綺麗な部屋を保てる健全な精神の持ち主が、なんでまたよりにもよってキャバクラなのかって」
この時ばかりはやけに真面目な顔だった。
「アンタ、何科?」
「心理学科」
ああ、それでかと不思議な納得をする。それと同時にコイツは最低なタカリ男だけど、私の名前の話をしても笑わないんじゃないかという予感がする。
「……違う自分になれる、から」
お客さんの中にも源氏名の由来を訊いてくる男は今まで一人もいなかった。みんなただ自分の話を聴いてもらい、望む答えを言ってほしいだけの連中ばかりだった。
「チサトセンリだっけ? 本名」
橘がそんな事まで知っているのかと軽く驚いたが、同じ大学だ、そのくらいの噂は耳に入るだろう。
「そんなに嫌いなワケ? 自分の名前が」
「大っ嫌いよ!」
「センリ、って広がる草原みたいで、おおらかでいい響きだと思うんだけどな」
どこが!と吐き捨てつつ、橘の分も一緒に水をコップに汲む。
「……俺みたいに男のくせに女みたいな名前よりは、はるかにマシだろ?」
「そういえば私アンタの本名、っていうか下の名前知らないわ」
部屋に上げるだけの中なのに、そんな基本的な事も知らないのがおかしかった。
「ね、なんて名前なの?」
私は仕返しとばかりにしつこく訊いた。
「……望。タチバナノゾミ。響きだけなら女としか思えないだろ? 俺はこの名前がコンプレックスだった。今もそうだ」
へぇ、なんか意外。ただのヒモもどきのタカリ男だとばかり思ってたら、そんな悩みがあったのね。……だからってコイツのタカリ行為を許す気には到底なれないけど。
「今言った事は忘れろよ? 金くれるからその対価として話しただけだ」
一応私に対して恩義は感じているらしい。
「うん、解った。誰にも言わない」
あの名前に対するコンプレックスを聞いた次週からだった。橘が登校していないらしい。お店以外でアイツと会うのはご免だったから、あまり調べたことがなかったけれど、橘は心理学科では割と有名な奴らしい。
貴重な特待生枠で入学した努力の天才、等と呼ばれていて、私は夜とのギャップに驚いた。あのチャラい遊び人が特待生になれるほど勉強していたなんて思いもしなかった。私は講義を聞くだけで精いっぱいなのに。
更に衝撃的な噂も聞いた。何と橘は街の、どう見てもカタギじゃない金融会社――闇金から多額の借金をしているらしいというもの。『フリージア』で遊ぶ金欲しさ?いや、アイツは私から大金を巻き上げている。計百万は渡したはずだ。
それなのに……なんで闇金なんか? 私はなぜか悔しい気持ちでいっぱいだった。
夜の街を息を弾ませて走る。少しでも、一瞬でも立ち止まったら、全てはおしまい、ゲームオーバーだ。裏路地に入って、一息つく。
ちょうど身体が隠れそうな大きさのポリバケツが置いてあったので、場所を少々失敬する。
「……行ったか?」
小声でそう呟くと、背後から野太い声がした。
「残念。ゲームオーバーだ」
「追いかけっこはここまでだ」
顔に切り傷のある男二人組――最近規模が大きくなった新宿を拠点とするヤクザ・任侠一家の下っ端に見つかってしまった。『任侠一家』は名前こそ昔の仁義に熱い組を連想させるが、最近はそうではない。街のあちこちにある闇金『ニコニコ金融』の元締めで、トイチという法外な利子を取る悪徳な業者だった。
背の高いひょろりとした体格の男が橘に迫る。警察もある事はあるが、いつの間にかこの二人にそこから遠くに誘導されていた。迫ってくる背の高い男は拳銃をちらつかせた。
――昔の任侠映画だとドスなのにな。
橘は逃げる途中で転んで切った頭の傷が痛むのを感じながらそんな事を思った。
「覚悟はいいか?」
すぐ傍に寄ってきた長身の男は、橘のこめかみに銃口を当てた。
――ごめんな、兄ちゃんが情けなくて。
遠く後にいて自分の帰りを待っている、まだ幼い弟妹の顔が頭をよぎる。もう駄目かと諦めかけたその時、光の筋が何本も自分と二人組を照らした。
「誰だ?」
長身に比べて手足の短い小さな男が唸るように言った。
「……ソイツはいくら借りたの?」
聞き覚えのある女の声。こんなところだけは見せたくなかった。
「二百万だ。お前のような小娘には到底稼げない額だ。さあ、解ったらとっとと失せな!」
小さな男がせめて声だけでも大きくしようと吠えているように聞こえた。
「何だ、たったの二百万でいいの? だったらとっとと受け取って、そっちこそ失せな! ここは粋な大人の街よ!」
センリは札束を二束、二人組の方に放り投げる。
「……ちゃんと透かしも入ってる。本物だ」
小さな男は眩しいものを見るようにセンリを見た。
彼女は五人の黒服に囲まれ、大輪の花のように堂々としている。ヤクザといえども二対五は避けたいだろう。二人組は逃げるように去って行った。
「俺んちは貧乏なんだ……。俺がガキの頃オヤジが他に女作って出て行って、お袋は働きっぱなしで身体壊して、今じゃ入院中で」
傷自体は大したことないが、万が一化膿したら大変だと、閉店後の『フリージア』でセンリは橘の頭に包帯を巻く。これがなかなか慣れた手つきだ。
だから俺が弟と妹たちの学費とか服とか、一番大事な食費も、稼がなきゃならないかった。俺に一番年が近い弟でもまだ中学生で、新聞配達のバイトくらいしか出来ない」
「……だから、お金が必要だったわけね。そんな事情があるんなら最初から言いなさいよ。そしたら無利子で貸したげたのに」
橘は照れ臭そうにボソッと言った。
「……好きな女に金貸してくれなんてカッコ悪い事言えるかよ」
小さな声だったが、それはセンリの耳にちゃんと届いた。
「……好きな女にタカるのはカッコイイの?」
「今流行りのチョイ悪系なら、女は強引に迫られるのは嫌いじゃないって書いてあったから……」
必死に言い訳する橘は新鮮だ。センリは思わず笑った。
「私は『フリージア』NO1キャストよ?舐めて貰っちゃ困るわ。アンタの弟妹の学費くらいなら援助したげる。その代わり、私と付き合いなさいよ」
その言葉を信じられない事のように橘は絶句した。
「……俺が稼げるようになったら必ず返す。でもなんで俺なんかと?」
「自惚れないでよ? 一度面倒を見たペットはほっとけないでしょ?」
納得のいかない様子の橘と、長い付き合いなだけに彼女の機嫌の良し悪しを知る黒服たちは、NO1キャストの名は伊達じゃないと改めて思うのだった。
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