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● レンアイオムニバスーSideG --- 7、失望させるつもり? ●

 僕が数学の宿題である証明問題を解く。しかし、もう少しで解けるところだったのに邪魔が入った。
「拓也、そこはそうじゃないでしょ? そもそも前提がおかしい!」
 僕は僕なりに頑張っているつもりなのに、そのやる気をガッツリ削られる。彼女は僕が解いていた証明問題に、大きく『×』をつけた。


 うちの親戚縁者は揃いも揃って時代錯誤だ。「血は水より濃い」、という言葉を口を揃えて言う。……つまり何が言いたいかというと、未だに近親婚を至上主義としている。
 流石に法律に触れる兄弟姉妹同士は禁止だが、僕にはほぼ生まれた時からの『婚約者』がいる。これには親戚一同全員が納得したというから、むしろ僕の価値観の方がおかしいのかと時々錯覚する。
 その僕の『婚約者』というのが、二歳上の従姉である児島春。彼女は現在高二で、ぼちぼち大学受験の支度をしているようだが、元々頭がいいため推薦で楽勝だと言って憚らない。学校での生活態度も二重丸の評価だと僕の叔母であり彼女の母親が自慢げに話しているのを聞いたことがある。
 そのため、彼女が成績の悪い僕の家庭教師をする事になるまで時間はかからなかった。


「……ここは二等辺三角形でしょ? だからこの図形と、これが同一である事を証明すればいいの。ね、簡単でしょ?」
「……全然簡単じゃない。もっと解りやすく説明してよ。僕は君みたいに出来のいい脳なんて持ってないんだから!」
 他の問題に取り掛かりながら、説明してもらっても全く頭に入ってこない。春は難問を前にした僕のように首を捻った。
「そんな事言われてもね。これでも十分噛み砕いて説明してるんだけどな~?」
 春は参考書から適当な練習問題を選んでは、ひたすら僕に解かせているが、一向に理解出来る兆しはない。勉強を始めてから既に三時間が経過。それも、僕の苦手な証明問題ばかり。
 僕の集中力はもう限界だ。
「……休憩しようよ。連続で証明ばっかりなんて頭がおかしくなるし!」
「私は、最高で十五時間連続で勉強した事があったけど、全然平気だったよ?」
 「それは君が賢いから集中して出来る事だろ」、と反論したかったが、それを言ってしまってはまた大量の宿題を残して帰るに決まってる。春の残す宿題は学校のモノより遥かに難しい。それもそのはずで、習っていない範囲をごく普通に出題してくるからだ。
「大体ね、私の『婚約者』がこんなおバカさんじゃ困るのよ。もっと頑張ってもらわなきゃ!」
 十分頑張っていても、僕は努力が報われないタイプらしく、八十点以上を取った事は中一の一学期しかない。
「……春、もう十時だよ。そろそろ帰らないと叔母さん心配するよ?」
 僕は机の上のデジタル時計に目をやって、やっと十時だと内心で喜んだ。春の門限は十時までなのだ。もちろん事前にどこに行って何をするのかと理由を明確に説明していれば、叔母さんは怒らないんだけど。
「え? もうそんな時間? ……部活なんかに入るんじゃなかった。時間ばっかり取られて拓也の勉強の手伝いもできやしない……」
 春はそうぼやきながら、学校指定の鞄を手に持つ。
「送ってくよ、駅までだけど」
 僕はずっと同じ姿勢で座っていた椅子から立ち上がると、大きく伸びをする。
「……別にいいのに。それより勉強しなさいよ?」
 少し照れたように、けれど春は大人ぶって言うけど、こういう所は可愛いと思える。年下だろうが、男に送ってもらうのは悪い気はしないらしい。
「この辺は最近痴漢とか変質者が多いんだ。……頼りないだろうけど、いないよりはマシだろ?」
 いつもこの会話になるが、この時ばかりは僕の意見が通る。


 次の日も学校から帰ると既に春が来ていた。
「遅い! ……まさか、この大事な時期に、友達と遊んでたんじゃないでしょうね?」
 真顔で春は僕の顔を睨む。その整っているのに可愛らしい顔立ちで凄まれるのも悪くはない、と思う。
「違うよ、委員会活動。図書委員の最後の仕事の古書整理の日だったんだよ」
 鞄を下ろしながら僕はそう答える。
 委員会は入っても、入らなくてもいいという、自由を謳う中学らしく委員会への参加は自由だった。中学に入学した時から春に「内申に響くかもよ」と言われ、やる気のなかった図書委員になった。しかし、なかなかやりがいもあるし、読みたい本を優先的に予約できる特典も嬉しかった。
「そう、じゃあ仕方ないね。図書委員といえば、私が読んでおきなさい、って言った本は読んだ?」
 同じく中学に入学した時に、春は僕に五枚ほどのB5サイズの紙を渡していた。そこには本のタイトルと作者がずらりと並んでいて、一番上の紙には『中学のうちに読んでおくべき本百選』と書かれていた。……なんでも、多感な時に読んでおいた方がいいと、春自身も読んだ本らしい。
「ああ、面白いのもあったけど、今の僕には難しかった」
 素直に感想を言うと、それでいいのよと春は満足げだ。物心ついたころから春はまるで母親のように僕に接した。それには彼女自身の母親の影響が大きいだろうと思う。
 彼女の母親(僕にとっては叔母)は典型的な教育ママで、昔から春の教育に関しては金を惜しまなかった。塾、英会話教室、ピアノ、バレエ、スイミング、習字、茶道、華道……挙げていけばきりはない。昔から春はそれらを母親の『愛情』だと信じ、それに応えるように習い事をこなした。
 その結果、春は通知表に5がない時はない、超秀才となった。今でも塾や英会話には通っている。その合間を縫って僕の家庭教師をしているのだから、まさに超人としか言いようがない。親戚一同の中でも春は皆の自慢であり、誇りだった。
 その春と将来結婚予定の僕では、比べられて当たり前だ。
 春は予め問題集から几帳面な字で、問題をノートに書き写していた。
「じゃあ始めよっか? ……昨日はいきなり応用にいったのが間違いだったのね。初級編からいきましょう!」
 椅子に腰かける僕の横で、春は真剣な顔で僕の解く過程を観察している。流石初級編なだけあって、僕にも簡単……ではなかった。
「春、僕はこれも解らない。……きっと、僕には勉強よりほかに向いてるモノがあるんだよ」
 何気なく言った言葉だった。希望校は模試ではD判定だったし、この時期から頑張ったところで到底間に合うはずがない。
「……今、なんて言った?」
 春の声が低い。これは怒りを覚えている証拠だ。それでも、僕にだって譲れない、退けない理由だってある。
「だから、僕には勉強は向いてないんだよ! どんなに頑張ったって、春みたいにはなれないんだよ!」
「昔は、『大物になって楽させてあげる』って言ってたくせに、このくらいの事で諦める気? 失望させるつもり?」
 春なりの『愛情』からの『挑発』だという事はすぐに解った。けど、僕だっていつまでも楽しくもない勉強なんかしたくない。
「そんなの無知な子供の戯言だろ? 真に受けるなよ!」
 僕がキレたのは初めてだと思う。春は顔を真っ赤にして、鞄を持った。
「もう知らない!」
 バタンと大きな音を立ててドアを閉めた春は、僕の母さんに軽く挨拶をして我が家を去って行った。


 翌日の学校では、抜き打ちのテストがあった。……案の定、僕は三十点満点中五点。春に最近教わったばかりのところだったのに、結果はこの通りだ。
 隣の席のクラスメイトが、「何点だった?」と僕の答案を横取りした。
「……児島って、あの綺麗なお姉さんが家庭教師についてんだろ? なのにこの結果って……どうよ?」
「……別に。彼女がついていようと僕の頭の悪さは変わらないし」
 溜め息をつく気にもなれない。
「お姉さんは、お前がこんな点数取ってんの知ってるワケ?」
「もう来ないだろうな。……僕が酷い事言っちゃったから」
「はぁ? ……お前は本当に馬鹿だな。あの姉さんがいるからお前はギリギリ赤点で済んでるんだろ?」
 クラスメイトのいかにも残念だというような言葉が癇に障る。僕は黙って下校した。


 学校から帰った僕を待っていたのは両親だった。
「どうしたの? それに、父さん……会社は?」
 すると父さんは眉根を寄せた。
「いいから座りなさい」
 有無を言わせぬ調子だった。嫌な予感がひしひしとする。
「……今日は小テストだったらしいわね、答案を見せなさい」
 母さんはいつもの軽い調子で僕に答案を出すよう促す。彼女だけならまだしも、父さんがいる今は出すしかない。ある意味予想通りだった五点という結果に、父さんはこめかみを震わせた。
「……春ちゃんと喧嘩したらしいな? すぐに仲直りしなさい」
 母さんが伝えたのだろう、僕は軽い苛立ちを覚える。
「だって春は……無茶ばかり言うから」
「お前の頭が悪いのが元凶だ。父さんも母さんも成績は優秀だった。つまりお前の頭の悪さは遺伝ではなく、努力不足だ!」
 あまりにも酷い断定口調に、僕は反論しようとしたが、何も言わずに五点の答案用紙を見ている母さんが恐ろしくて口が開けない。……うちでは、人前やこういう時には父さんが偉そうだが、実権を握っているのは母さんなのだ。
「……本当に、産まなきゃよかった、なんて時々思うのよ? 周りの子が羨ましいわぁ……」
 この僕の事を全否定するような言葉は、当然僕の心をえぐった。
「おい、そこまで言わなくても……」
 最初に叱りの言葉を言った父さんが庇うように言うが、母さんは止まらない。
「だって、こんなに出来の悪い子なんて……いらないわ、正直」
 涙も出なかった。……母さんの言う通りだったから。きっと春もこんな事を思っていたんだろうと、むしろ目が覚めたところだ。
「でも春ちゃんなら、きっと受け入れてくれるんでしょうね」
 母さんは熱いお茶を淹れて、饅頭を片手にテレビに向かった。残された僕と父さんはどうしていいのか解らなかった。


 母さんが最後に言った言葉は僕の胸に刺さった。
 ――『春なら受け入れてくれる』。
 確かに春は、昔から面倒見が非常に良かった。三歳くらいの時には僕に鉛筆の持ち方を教え、彼女の手作りの迷路で一緒に遊んだ。悪い事をした時には『何がどういけないのか』を子供ながら解りやすく教えてくれた。
「そうだ、春のためだ」
 僕は口に出して言う。自分のための勉強はいまいちモチベーションが上がらなかった。それでも誰かのため、春のためならば頑張れそうな気がする。
 僕は春が学業成就の神社から貰ってきてくれた鉢巻きを頭に巻いて、机の前に座った。春が僕のために残してくれた練習問題を、片っ端から解いていく。中一の方程式は今でも解けなかったが、春の問題なら簡単に解けた。解けるのが、今までに感じたことのない快感だった。次から次へと問題を解いているうちに、デジタル時計は三時を指していた。
「……もう、三時?」
 コーヒーもモカも、栄養ドリンクも飲んでいないのに、全く眠気はなかった。むしろ頭が冴えて眠れないくらいだ。そのまま、次に英単語の暗記を少しすると朝食の時間になっていた。
 そうした生活はあっという間に僕の生活習慣になった。夜遅くまでひたすら勉強、眠くなってもベッドには入らない。不思議と風邪はひかなかった。春がくれた鉢巻きの加護かもしれない。
 そしていよいよ試験の日が来て、僕は自分で納得がいく結果だと、自己採点の結果を見て思った。


 合格発表の日は、いくら自己採点の結果が良かったとはいえ、緊張した。合格結果に僕の受験番号が載っていた時は、ホッとすると同時に、納得もした。
 結果発表を最初に知らせたのは両親ではなく、春だった。スマートフォンのメールで、合格したと一言だけ送る。それから家路へとついた。
 そして、家に着き、玄関のドアを開けた瞬間――。
「合格おめでとう!」
 そんな春の声と共に、派手なクラッカーが鳴った。両親と、喧嘩別れしたはずの春が、家で僕を待っていた。
「春……どうして?」
 母さんがウィンクして笑った。
「あの時、私がああ言ったのは、実は春ちゃんの案なのよ」
「え?」
 確かに春は僕と喧嘩して帰った時、母さんに挨拶していた。まさかその時にそんなことを話していたなんて。
「だって、あの時の拓也はどんなに頑張って教えても、やる気出さないんだもん。叔母様にお願したのは正解だったね!」
 悪戯が成功した子供のように、春は舌を出した。
「……と、いうわけだ。私も会社を休んだ甲斐があった」
 女二人に振り回される結果になった父さんも、どこか安心した様子だ。
「みんな揃ってかよ……質悪いなぁ」
 僕が毒づくも、やっぱり春には敵わない。
「私に相応しい男になるために、私のために頑張ってね?」
 そう言って笑う春は、高校生になっても家庭教師という名目で僕の家に来る気が満々だ。またあの地獄のような時間が続くかと思うと……それもいいや。
 僕は春が『婚約者』で良かったと心から思った。
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