●● レンアイオムニバスーSideG --- 5、それ以上は許さない ●●
――身体を重ねてからもう何時間が過ぎたのだろうか。……窓から差し込む朝日が眩しい。鳥のさえずりが美香子の覚醒を促す。
彼女は傍らにある携帯電話を気だるい表情で覗き込む。そこにあったのは母親からのメール。
――今どこにいるの?
美香子は一気に憂鬱な気分になった。
「ん? ……どうかしたのか、美香子?」
雄一が重い瞼を開けながら美香子に声をかけた。行為の後なので二人とも身体にはシーツしか纏っていない。
「やっと起きたの? センセイ?」
美香子は裸のままベッドを出ると、身支度を始めた。……着替えを持ってきていたのは正解だった。しわくちゃの衣服を見れば、勘のいいあの母親の事だ。何があったのかなんてすぐにバレてしまう。下着を身に着けたところで、雄一に抱き締められる。
「……どうしたの? ……今日はやけにがっついてるじゃない」
「女房が離婚してくれないんだ。俺は美香子が一番なのに」
美香子は高校二年生の十七歳。そんな小娘に負けたとあれば、相手――雄一の妻のプライドはズタズタだろう。密かに彼女に同情しながらも、美香子はこの男と離れられない。
> ――最初に誘ったのはどちらだっただろうか。
美香子の胸にあの夏の記憶が蘇る――。
『風岡!』
忘れもしない、それは去年、高校一年の夏の事だった。あの日は、ブラウスがピッタリと肌にくっつくくらい暑かったのを身体が覚えている。
『何ですか?』
美香子は担任であり、生物教師の雄一の事を割と気に入っていた。授業中居眠りしていても怒らないし、滅多な事では感情を表さない、熱血教師とは真逆な、ドライな教師。
美香子自身がそういう性格だったから、最初から相性はよかったのかもしれない。
『このプレパラートを運ぶのを手伝ってくれないか?』
友達のいない美香子を気遣ったつもりなのだろう。一人でも十分に運べそうだが、一気に持って行くには難しい量のプレパラートが教卓の上に置かれていた。
『……先生一人で運べばいいんじゃないですか』
すると雄一は子供のように笑った。
『一人であの生物室に行く気にはなれなくて。ホルマリン漬けとか気持ち悪くないか?』
『生物教師のクセに、そんなのが苦手なんですか?』
嫌味っぽく言ってやると、雄一は苦笑いを浮かべた。断ろうと思っていたが、美香子はこの教師に興味があった。
確か四月の自己紹介の時には既婚で、もうすぐ子供も生まれると結婚指輪を見せながら照れたように、嬉しそうに笑っていた。
美香子の家は母子家庭で、幼い子供の頃から苦労をしてきた。服は親戚の子のお古、主食はもやしの炒め物。まだ三十代なのに、若い頃から仕事を掛け持ちしていた母親は今では疲労と心労から老婆のよう。
美香子自身も、幼い頃は無神経な大人に、特に学校の教師に『可哀想な子』と、腫れ物に触るように扱われた。次第に彼女の心はどこか歪み、歪んでいった。
だから、最初はただ絶望させてやるつもりだった。この能天気な生物教師の家庭を。プレパラートを運び終えた後で、美香子から誘った。
『ねぇセンセイ。……奥さんって美人?』
『何だいきなり? ……う~ん、難しいな。美人というか、可愛い系かな?』
『じゃあ、あたしも結構好みなんじゃない?』
『そうだな、風岡も可愛いもんな』
『じゃあ、あたしも好みのタイプなんだ~。……ねぇ、抱いてみたくない?』
『なっ、何を言うんだ! 自分の歳と立場を考えなさい!』
真っ赤になって拒否する雄一が、美香子の目には可愛らしく映った。美香子は自分から夏服のブラウスのボタンを一つづつ、挑発するように外していった。ごくりと唾を飲む音が聞こえた。
――なんだ、真面目な教師ぶってもやっぱり男は男か。
半裸になった美香子を荒々しく生物室の机に押し付けた雄一は避妊もしないで、ただ貪るように美香子の身体を味わったのだった。
あれから一年。
雄一の妻は流産し、精神を病んで自殺未遂を起こした。今では病院の閉鎖病棟に入院しているらしい。そんな調子では離婚など、とてもではない。
雄一自身もどこか荒んだ。自分の血を継ぐ子供が欲しいと、いつも口にするようになった。……都合のいい事に、彼にはまだ報告していないが、美香子のお腹には子供がいる。先月産婦人科で診てもらったから間違いない。
それを今、報告してみる。
「……離婚してくれないなら、この子も……堕ろしちゃおうかな」
「子供……堕ろす……? ……たっ、頼む! それだけはやめてくれ!」
たった今、話したばかりなのに、雄一は必死になって美香子に懇願する。それを冷やかに見つめながら、再びベッドに腰を下ろす。すると雄一は、美香子の足の指を口に含む。それはいつも彼が哀願する時にする仕草だ。
「だって、別れてくれないんじゃ、ねぇ?」
「何でもする……! だから子供は産んでくれ!」
――子供が欲しい子供が欲しい子供が欲しい……俺の血を引く子供が、欲しい。
そう呟きながら、雄一は必死で指を舐める。舐められていると、こちらも興奮してくる。……しかし、美香子は足で雄一の頭を蹴ると、下着姿のままで挑発的に笑う。
「別れないんなら、それ以上は許さないわ。……さぁ、どうするの?」
頭を蹴られても、雄一は美香子を何か神聖なものを見る目で見ていた。
「……解った、無理にでも離婚する。それで……その子を守れるんだよな?」
それを聞いた美香子は微笑んだ。
「もちろんよ。優しいパパでよかったわね」
少しだけ膨らんだお腹を撫でる美香子。実はお腹の子の父親は別の男かもしれない。
それだけ美香子は飢えていた、愛情に。ニセモノでもいい、その場限りで構わない。ぬくもりが欲しかった、優しさに包まれたかった。
ネットの掲示板に写真付きで書き込んだら、複数の男たちから即座にレスがついた。相手は、いつも素性も顔も、何一つ知らない男。それでも、会う男とは必ずセックスをしていた。
だから、美香子自身もお腹の子の父親は知らない。でもそんな事、些細な問題ではないだろうか。今、美香子も雄一も幸せなのだから。
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