「あきらぁー! いつまで寝てんのよ!? さっさと起きなさいよ!」
妻の声に、僕は我に返る。恥ずかしながら、元旦その日に寝坊ししてしまった、らしい。妻は素早く僕の寝室のカーテンを開ける。その隙間から入ってくる陽光の眩しいこと。そんなことなど彼女にはどうでもいいらしい。カーテンを纏めながら、彼女は言う。
「今日も仕事なんでしょ? 元旦からなんて働く奴の気が知れないわ。しかも社長はアイツだし!」
そんなことをグチグチこぼしながらも、僕の最愛の妻、山瀬秋奈はカラーリングが雑な金髪のまま、僕の傍にいる。
着替えて身支度を整えてから一階に降りると、そこには娘の秋帆と一緒になって、年賀状に一喜一憂している妻の姿があった。ふたりのところには大量の年賀状が届いたらしいが、僕の分などせいぜい片手で収まる量に違いない。あまり人付き合いは上手くないから、昔から。
「智也さんと和也さんから、げっ、こっちはアイツからじゃん!」
秋奈は元ヤンキーの少女だった。そんな彼女と僕が出会ったのはもしかしたら、神のお導き、のような気がする。結局僕と秋奈の恋愛を一番応援してくれた人、僕らのキューピットである神父さんはもうこの世にはいない。宿敵との戦いの時、『自分の娘』を庇ったからだと彼に救われた本人が言っていた。
その時の僕は自分の妹が殺された事件のことで頭がいっぱいでそれどころではなく。決着がついた後の東京へ帰った時には、先に着いていた智也も驚く結果に終わっていた。
あれだけ誰にでも優しかった神父さんは宿敵である犯罪者・大西隆に殺され、しかも彼らの棲みかである教会からは炎が上がり、ほぼ全焼だった。その時の『彼女』の表情は不気味なほど晴れやかだったと智也が言うから、自分の耳を疑った。
けれど茜さんは智也の言う通り晴れやかで、なにか始めようと夢中になっていた。そして実際に彼女は『やってのけた』のだ。
彼女が諦めてきた様々なことを。
そしてそれは、現在の仕事にも生かされている。
「……明、食べるか考えごとするかハッキリしな!」
「あ、うん、ごめん。秋帆もちゃんと食べようね?」
「うん、パパとアキホのおようふくはママのえらんだおそろいなの!」
「そうか、それは良かったね」
秋奈が娘を抱きしめる。なんだか僕も過保護だという自覚はあるけれど、秋奈はそれ以上だ。
「明、秋帆にはあのニートのことはあまり話さないでよ。駄目ニートが移る」
「いや、仮にも僕の上司に対してそこまでは……」
「そこよ! それが気に入らないの! なんであんなニートばっかり辛い目に遭わなきゃいけないの!?」
こういうところは凄く解りやすい。
秋奈は、彼女――茜さんを嫌ってはいないのだ。だけどこれまでの生き方を否定されるようで好きになれないだけ。……相変わらずの不器用。だけど僕はそんな秋奈を愛している。
「ご馳走さま。やっぱり秋奈って僕が思っていた以上に女の子らしいね。いつも料理が美味しいし」
「うん、アキホもそうおもうの!ママのごはんはせかいいち!」
「……アキホ!」
そうして秋奈は娘に抱き付く力をこめる。「痛いよママ」の一言で我に帰った。
秋奈とは僕が会社勤めに慣れた頃に、ほぼ第三者の無理矢理攻撃による婚約により、智也たちが結婚式をプレゼントしてくれた。その席がふたつ空いていたのは、神父さんの分と学校に通い始めたという茜さんの分だ。空席でも、僕にとっては何物にも代えがたい想いが込められていて、素直に感動してしまった。
その電撃結婚から五年後に秋帆が生まれ、僕たち家族は三人で平和に仲良く暮らしている。……ただし、弊害として一つの問題があった。
神父さんを亡くしてからの茜さんは並大抵ではない努力をして三年かけて大検を取った。そこから普通の人物ならば心が折れるところでも彼女は耐えて大学に入学した。不幸中の幸いというべきか、神父さんの死亡保険でそれをまかない、しばらくの間は事件を受け持たなかった。
やっと大学を卒業した時には茜さんは既に三十路になっていた。
そんな茜さんに探偵の助手をやらないかと誘われ、元旦であろうともこうして呼び出しを受けている。並の年下ではできない芸当だ。
「……それで、明は何時ごろの帰りになるの?」
「それは仕事にもよるから……」
「ホンットーにアイツは何なのよ! 明を好きにしていいのはあたしだけなんだからね!」
妬かれてる、っていうのかな? こういうこともこれまでにない感覚だから不思議な感覚だ。
「僕が愛してるのは君だけだよ秋奈。帰ったら二人目のことも考える?」
秋帆に聞こえないようにそう耳元で囁くと、彼女はおたまで僕の頭を叩く。
「バカ言ってないで、さっさと稼いできてよね! 大黒柱さん!」
――本当に、僕は幸せだ。
愛する妻、可愛い娘、厳しい仕事先だけど気が知れている仲間たち。
――僕も案外、幸運の星の元に生まれたんじゃないのかな?
しかし僕は、この日の全くの想定外の出来事に驚くことになる。
明が仕事場である教会に着く頃には、既に先客がいた。ドイツと日本の交換留学で来日中のシェーン・クリストダムだ。
「あっ、アキラオソイヨ! アカネはもう準備万端なのに」
「相変わらずに日本語が上手いですね、シェーンさんは」
彼女は極度のアニオタで、しかも汚部屋住人だった。明が初めて彼女の部屋に通されてドキドキしたのもつかの間、部屋中に敷き詰められたゴミ袋の山には眩暈を覚えた。しかもアニメのフィギュアまで飾ってあるカオス。ドイツ人が勤勉だという話が信じられない一例だ。
その時には彼女本人の口から聞いたのだ。『二ホンほどアニオタにとって過ごしやすいトコロはない』と。それは変なウサギ柄のTシャツから解る。そのシャツには『Strange』と自己紹介まで入っている。ちなみに茜は彼女に関しては一切口出ししない。身内が世話になった義理があるからだ。
「遅いよ明!元旦だからってぼやぼやしてらんないの! 商売敵がここ最近で増えてるんだから」
「……え? そんなこと聴いていませんけど?」
「シェーンの伝達ミスか。ならしょうがない。シェーンは可愛いから」
茜の美人・美少女好きは多少はなりを潜めたものの健在だった。そして今、茜自身もまた美人と言われるくくりに入る。メイクで長いつけ睫を手にし、髪は十年間ずっと大切に伸ばしてきた。遅咲きの花、それが現在の茜だった。
今の茜のトレードマークはYシャツに赤いネクタイと巻きスカートだ。元々童顔だったためか、今もなお若いというより幼く見える。おかげで依頼主から舐められることもある。
シェーンは留学生だが、日本は物価が高いと嘆き、お情けでここのバイトに雇われている。今でも『組織』は存在するが、茜は既に十年前に外された者、捨てられた者だ。だから最初から当てにはしていない。だから、明の給料はだいぶ薄い封筒入りだ。それでもここで働いているのは、秋奈との出会いは茜の影響が大きいから、恩義を感じているから。
「さて、じゃあ今日の業務は年賀状配りね。ハイこれ明の分」
「なんで僕はお二人の三倍はあるんですか?」
「レディファーストダヨ、アキラ!」
「シェーンの言う通り!」
「そんなぁ……茜さん」
そんな折だった。何かの爆発音を聞いたのは。
爆発音だけではない。教会全体が大きく揺れたのだ。三人の身体も揺れた。
「なに!? まさか地震?」
「こっちからです! 地震じゃないですよ、たぶん!」
「ドシタノ?」
慌ててアキラが指差す方向に走ると、そこは教会の玄関先だった。しかもダイナマイトのような爆発物で爆破したような、そんな嫌な音がした。
茜は思わずあの男の事を考えていた。
――大西隆!?
だが予想に反してその爆発の傍にいたのは正十字を身に着けた中年の女だった。濃紺の法衣が、爆風に揺れている。
彼女は実に楽しそうに破壊活動をしている。その恍惚とした表情はぞっとした。でも、ここで逃げたらまたあの時のように、大事な神父を失った時のようになってしまう。
茜は自分だけならばまだいいが、明もシェーンも守らねばならない。ここで逃げたらまた智也に『せっかくの赤が台無しだ』とでも言われる。それは屈辱的だ。
「ちょっとあんた!」
茜が勇気を出して女に声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
白髪は見えていたが、僧衣を着ているため褐色の肌は見えなかった。そんな彼女と眼がかち合う。
「何の用です? 我々は忙しいのです。この穢れた教会を一度地に返すのですから」
「ふざけないで! ここは僕らの土地。あんたたちにいじっていい権限なんてない!」
「わたくしたちが間違っているとでも? ……同じことがこの方を見ても言えますか?」
女から少々離れた場所で避難していたらしい幼い少女が女の法衣の裾から顔を出した。女と同じ褐色の肌に白髪。それは茜がこれまで出会ったことのない感覚だった。ハンマーで頭を殴られるような衝撃が走った。
――そんな……僕はこの子を知っている? いや、でも……。
「…………」
少女は茜に無邪気な笑顔を向ける。情けないことに、ただそれだけで何もできなくなってしまう。
「茜さん?」
遅れてやってきた明が、よろけた茜を抱きとめた。ずっしりとした重みを明が感じた。
「アカネ!? ドウシタノ?」
シェーンも崩れそうな教会から出てきた。元から古くなった部分をだましだまし使ってきた建物だった。神父が存命だった頃に、一度だけ『組織』の手によって直された教会。彼との思い出の場所。
「……あんたたちは、いったい何者?」
法衣を着た女は、その質問を待っていたとばかりに微笑んだ。恍惚とした笑みは、誰かが乗り移っているかのようだ。
「わたくしたちは『教団』の者。今の貴女では情報など手にすることも出来ないでしょうね。今日は収穫もあったことですし、いったん引きましょう。……しかし、わたくしはここを諦めたわけではありません。ゆめゆめ忘れぬよう」
女はかたわらの少女の手を引き、去ってゆく。
茜はなにか大事なことを忘れている気がしたが、それを言い出す勇気が出なかった。何かが崩壊していくような、そんな奇妙な感覚を味わっていた。
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2016年 1月1日 莊野りず
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