まわりにいるのは、大きな人たちばかり。みんながみんなキレイな服をきてる。それだけでなぜか不安になって、大好きなお父さんのそでにしがみついた。
『どうかしたのか?』
その顔は、どう見ても酔っているのがわかる。
――おさけくさい。
お酒なんてものは、悪い大人が飲むもの。そう思っていたから、お酒のにおいでいっぱいのここからにげたかった。そうして、お外の星でも見ながら、おいしいジュースでも飲みたかった。……けど、わたしにだって『意地』があった。お父さんの『娘』。たとえそれが、たぶんみとめられていないとしても。わたしにはそうしてなのかがわからなかったけれど、『そういうもの』だと思った。そしてやっぱり、こう思った。
――おとなになんてなりたくない。
こんなみせかけだけの、だますような空気がたえられない。みんながみんな同じ顔で、きっとつまらないと思っているのに笑ってる。それがおかしい。
――どうして?
わたしにはわからない。いくら考えても、わからない。
『お前も、川岸コンッエルンの後継者として恥ずかしくないふるまいを身につけなさい』
――お父さんまでそんな事を言うの? お母さんはもういないのに。……お母さんを助けてくれなかったのに? お父さんならきっと、助けられたのに?
――『みえ』と『ていさい』って、そんなに大事なの?
……わたしよりも?
お父さんは、まだ早く歩けないわたしの手を強引に引っ張っていく。なれているとはいえ、かかとの高いくつはこどもにはつらい。それでも早く歩けっていうの? お父さんはわたしのことが大事じゃないの? お父さんは私のことが好きじゃないの?
――答えてよ! お父さん!
「……久しぶりに見たわ」
彼女は地上三十メートルのマンションの一室、自分の部屋で目を覚ました。昔の出来事だと理解はできているが、どうしても納得はできない。なぜあの日、父はあの場に連れて行ったのだろう。連れて行くのならば正式な後継者である義姉だろう。なのに、『なぜ?』。
「……」
あの夢を見た後の一日は、大抵のことが上手くいかない。元から勉強に向いた頭脳の持ち主では全くなく、今の高校にもギリギリで合格したレベルだ。それでも本の内容を理解できるのは、そういう血統だからなのだろうか。部屋の本棚には彼女の年齢には似つかわしくないビジネス関連の書籍がぎっしり詰まっている。『彼』を部屋に呼んだら、きっと驚くことだろう。
『なんでお前みたいなバカにこんな本の内容が理解できるんだよ!?』
そう零すところが容易く想像できる。思わず彼女は笑う、上品に。
「そりゃ、そんな育ち方をしたからよ。決まってるじゃないの」
ベッドサイドのフォトフレームには、つい先日解決したばかりのテーマパークでの殺人事件解決記念の写真が飾ってある。彼は意外とノリノリで、『俺がよりイケメンに見えるように工夫しろよ!』などとほざいていた。そういうところはやはり相変わらずだ。
『探偵』として雇われた彼女と彼――彼女はあくまでも彼のサポート、おまけに過ぎないが――は、二人で組むようになってから三か月が経過していた。出会った正確な日付も覚えているし、自分から時々レストランのフルコースに誘ったりもした。その度に彼に言われるのは、『お前はホントに何者なんだよ?』ということだった。どう見てもただの女子高生である彼女が、三ツ星レストランに男を誘い、しかも全額負担する。そんな真似をする女子高生は、『ただの』とは言わないか。
そこまで考えて、彼女は見つめていたフォトフレームに移るイケメンを見る。何も悩みなどない顔。ただ『普通』に大学生をやっている彼。それが無性に羨ましい。
しかも彼は、現在の所属である゛Q”から上位の者に与えられる称号、゛K”に昇進しないかという話が持ち上がってきていた。そうなれば、たかが『勘』が武器の自分はお払い箱だろう。……しかし、それもちょうどいいかもしれない。こうして二人でバカをやりつつ、一般的な『青春』の日々もいい。彼にはまだ言っていないが、出会って以来の独特のあのナルシストぶりも嫌いではなく、むしろ好ましかった。虚飾の『女らしさ』、異性から『モテる』というプラスの特徴とは真逆の『自棄』。それを持つからこそ、彼女は彼がナルシストでも全然気にしない。そこが逆に好きなのだ。……告白などという真似は、正直に言えば難しいけれども。
そんな事を考えていると、携帯電話のアラームが鳴る。これはこの時間までは余裕を持ってもいいが、これが鳴れば登校の準備をしないとヤバい、という事を告げるモノ。
「ヤッば! 遅刻するじゃない!」
彼女はばたばたと自分の部屋から出た。……そして彼女の勘は大変良く当たる。
「今日はなんか嫌な予感がするわ……」
朝食のサラダとゆで卵、玄米の炊き込みご飯をゆっくりと食べながら、そんな事を呟く。
この時の『嫌な予感』は、放課後になって見事に的中することになる。
安藤智也は今日一日の講義を終え、大きく伸びをした。将来何になりたいか? そんなもの、未だに決まってはいなかった。昔から自分のような者には普通のサラリーマンのような職業は似つかわしくないと思って生きてきた。逆に言えば、それだけ周囲が感心するような『特別な仕事』につくべきだ、と考えているということ。これが意外と曲者で、一口に『特別な仕事』といっても様々だ。しかも智也の通っている大学では望みの分野を金さえあれば好きなだけ取れるというシステムを採用していて、それがまた選択肢の幅を広げるのだ。それゆえに、若い彼は進路に迷っている。資質があり過ぎるのも困りものだ。それは良く最近出会った女子高生に零す言葉で、彼女はそれを『純粋に羨ましい』と言っていた。
「そりゃ、四方学院のバカならそう答えるだろーよ!」
智也は東京の暑さが嫌で、その辺に転がる小石を蹴る。別にこれといって理由もなければ、もちろん悪意もない。それは偶然のことだった。
「……安藤智也ね?」
移動している最中に、どうやら駐車場に迷い込んでいたらしい。黒塗りのベンツが場違いに止まっていた。確かにここは有名大学として有名だが、特に金持ちが好むような校風ではない。
「……さくらといい、美千代さんといい、今度はアンタか? 東京の特産品はストーカーか? イケメン専門の?」
「憎まれ口はお見事ね。これならあの子が惑わされるのも当たり前かも。……あの子は昔から頭の良い男に弱かったから」
「はぁ? ……一体何の話だよ?」
話が全く見えないが、どうやら自分の身の回りの女性関係のことだとは察した。しかし、大学の中でも智也はいかんなく特技の話術で女子大生を誑かすこともしばしばで、報酬はその交際費に主に当てていた。この正体不明の女もその女子大生の関係者かと身構えそうになるが、仮にも女性相手に手荒な真似はしたくない。
「……私の義妹の話をしているのよ。あの子は昔から自分勝手で、男が好きだったからね」
「義妹?」
「自己紹介が遅れて悪かったわね。一般人相手の挨拶はよく解らないのだけれど、そこはご容赦を。私は川岸恵梨香。遺産分与の揉め事を解決してほしいのよ、安藤探偵」
「……ちょっと待て。『川岸』って、まさか」
最近の新聞には毎日のように載っている、巨大複合企業・川岸コンッェルン。しかも彼女は『一般人相手の挨拶は解らない』と言っている。もちろん嘘の可能性もあるが、何かと悪さをする輩もいるかもしれないこの場に惜しげもなくベンツで来る神経、決定的なのがひとつ一つの仕草が洗練されていて、実は田舎出身の智也ではとてもではないが太刀打ちできない。
「そう。私は現・川岸コンッェルン代表取締役。不在の父に代わり、従業員を纏めているのだけれど、どうも上手くいかないの。……そんな時、あなたの噂を耳にした。その手のルートでは有名な『組織』の『探偵』、近日゛K”に昇格予定のあなたの話を、ね?」
「事情は解った。……ちょっと待っててくれるか? 『相棒』に連絡する」
「その必要はないわ。あなたと同時にその『相棒』にも連絡を入れてあるから」
「なぜ、アンタがさくらを知ってる? ……まさか」
運転席に座ったまま、恵梨香と名乗った女は笑う。それは「意外と頭の回転が遅いのね」という挑発の笑みだ。
「そう。三ツ星さくらは私の腹違いの妹。正妻だった私の母とは違う、妾の子よ」
「……さくらが?」
智也は持っていたテキストを芝生に落としてしまった。重量のあるそれらは青く茂る芝生を容赦なく潰してしまった。
恵梨香の運転するベンツの助手席に座ったまま、智也は考える。
――そういえば、バカのクセにマナーは身についてたし、品もあったっけ……。
智也の数々の暴言にも笑って対応していたのも、幼い頃からの苦労でそれが生きるすべだと学んでのことだったのかもしれない。だとしたら、悪いことをしてしまった。自分はどれだけ無神経だったのだろうかと。
「……」
「どうかしたの?」
「なんでもねーよ! つーか、どこ向かってんだよ?」
すると彼女は話題には似つかわしくない、楽しそうな笑みを浮かべた。
「一族御用達の料亭よ。お父様が行方不明……多分死んでいるわ。遺産分与であの子と揉めそうなのよ。だから、あの子のことを宥めて欲しいの。……もちろんお礼は弾むわ。一千万でどうかしら?」
「……」
いつもならばこれだけの桁が出てきたところで飛びついているところだ。しかし、その気になれないのは、たったの三ヶ月の間に『三ツ星さくら』という同い年の女子高生のことを知ってしまったからだった。
彼女がどんな時に笑い、どんな時に愉しみ、どんな時に喜ぶのか……。それらのプラスの感情は知っていても、悲しんでいるところは一度も見たことがなかった。それは自分の前でだけは弱みを見せたくないという、彼女なりの強がりだったのだろうか? ……解らない。交際経験は人並み以上にある智也でも、ここまでの情報は初耳だ。だから、可能なのはあくまでも推測のみ。
「なぜ黙るのかしら? 学生には大金だと思うけれど?」
「……一ついいか?」
「何かしら?」
「アイツが……さくらが俺に近づいた理由を知らないか?」
「さぁ? あの子は昔から同性とは遊びたがらなかったから。単に男が好きだからじゃないの?」
その口調は無関心に加えて明らかに蔑みと揶揄の響きがあった。どんな女だろうが男の甲斐性さえあれば誰でもいい女になれる、という智也の持論とはまるで違う。華やかな世界に生きる人間の方がドロドロしているモノなのかとしか思えなかった。
「……着いたわ。ここに関係者を集めてあるの。あなたにはさくらがどんなに勝手な子なのかを証言してもらいたいの。そのための一千万よ」
そう言って、恵梨香は車の後部座席から川岸コンツェルンのエンブレムが印刷された紙袋を取り、智也に手渡した。黙って受け取った智也だったが、その表情は全く晴れがましいものではない。むしろ不満で一杯だ。
「なぁに? これじゃ足りないっていうの?」
呆れた様に彼女はわざとらしく唇を尖らせる。さくらがやれば純粋に可愛いと思えるのかもしれないが、すでにいい大人がやっても痛々しいだけだ。
「そうじゃねぇよ。……あんたみたいな人種に言っても理解できないだろうがな」
彼が『女』という性別の人間に対してここまで失礼な口を利くのは人生で何度目だろうか? 母親にさえもこんな口調では言わない。その事実を知らない相手は「本当に理解できないわ」と言ってわざとらしくため息をつく。
二人は高級料亭と見えるが瀟洒な建物に入っていく。車に乗り込む前は明るかった七月の空が茜色に染まっている。もうすぐ夕暮れ時だろう。
通されたのはこの料亭で最も広いと仲居が言っていた和室だった。広い、と言っても十畳ほどだ。そこに智也を入れて十人の男女がいた。その中でいつもより遥かに小さく見えるさくらがいかつい男に挟まれて正座していた。来ているものは四方学院のセーラー服。黒い着物を着ている中年以上の男女の中で、制服とカジュアルな私服姿の智也はまだ未成年。……こうして実際にさくらと比べてみると、顔立ちはまるで似ていないが、気品というものは確かに共通していた。そのさくらは、らしくもなく智也の顔を見ても何も言わない。
「さて、今回の遺産分与の件で、探偵さんを雇ったの。高い報酬の代わりに解決率は百パーセントと評判の現役大学生よ!」
恵梨香は智也とさくらの解決した事件のファイルを当人たちを除く七人に回した。彼ら彼女らから感嘆の声が上がる。
「これだけの実績があるのならば、信憑性は十分でしょう」
「そうですわ。恵梨香お嬢様の仰ることに間違いなどございませんもの!」
『お嬢様』という単語が出たのが智也にはおかしくてならない。どう見ても恵梨香は美千代よりも年上に見える。そういう顔立ちに更に濃いメイク。笑いが顔に出たのか、彼女は智也を睨みつける。
注目が智也に集まる中、さくらはこんな時に限って何も言わない。普段ならば「空気読め」と言いたくなるくらいにしゃべり通しなのに。やはり『父親の死』というものはこの多感な年頃の少女には荷が重いらしい。そう察したが、いつもの口癖をさくらは漏らした。
「……あたしの勘だけど、アンタ、あたしが妾の子って聞いて同情したでしょ?」
「悪いか?」
「……悪いわよ、バカ!」
「どうして?」
答えは解っていたが、どうしてもさくらの口から直接聞きたかった。それがたとえ、彼女を更に惨めな気持ちにさせたとしても、そんな感情はさくらの気の強さ、意地があれば乗り越えられると思ったから。……たったの三か月、されど三か月。いつしか互いの気持ちや考え、趣味嗜好などが通じ合っていた。いつも、共に笑っていた。
そんな二人の気持ちなどお構いなしに、恵梨香は遺言状と見える封書を黒い着物姿の中年女性から受け取ったところだ。先ほど彼女を『お嬢様』と呼んだ、多分側近だろう。
「この封書は、お父様が失踪する以前に弁護士と相談のうえで遺したもの。この印がその証です」
確かに封書には『源』という漢字が一文字だけ、独特の書体で押されている。おそらく判子は手製のものだろう。所々にインクの汚れが封書に写っている。
「そして、その封書をただいまより開封いたします。未菜さん、お願い」
「はい、お嬢様」
日焼けした封書はそれだけ長い間、雑に扱われてきたのだろう。川岸コンツェルンといえば、ここ最近は経営が苦しく、株価の値下がりも著しい、かつての一流企業だったはずだ。その理由が代表取締役、つまりは社長の不在によるものだと智也は初めて知った。
封書から出てきたのは一枚の高級紙だった。そこにも『源』の印鑑が押され、筆跡も癖のあるモノだった。智也とさくらは上座の方に座っていたのですぐにそれが解った。
「……ん?」
その筆跡は、確かにどこかで見かけたものだった。具体的にどこで、とは簡単に思い出せない。この三カ月の間は様々な事件と向き合ってばかりで、記憶を整理する時間などなかった。だが、間違いなく記憶が反応した。
「……お父さん」
隣のさくらは辛そうに顔を歪める。今にも泣きだしそうなその表情、弱さは初めて見るもので、智也は困惑するより他になかった。そんな二人には構わずに、恵梨香はその紙に書かれた内容を声に出す。封書はこれまでしっかりと閉じられていたらしく、彼女も中身を読むのは初めてのようだった。
「『私がこれを書いているのは、二人の愛する娘のためだけだ。私は二人が争うのを見たくない。ゆえに財産は私を殺した者を暴いた者にすべて譲る事にする。会社はその者の選ぶ方の娘に任せよう』……」
「……」
誰もがその内容に驚いた。あまりにも簡潔過ぎる文章、会社を任せる人間をそれほど適当に決めていいものかという声があちこちから上がる。しかし智也が最も引っかかったのは『私を殺した者』という一節だった。これではまるで、自分が何者かに殺されることを知っていたようではないか。
「……冗談じゃないわ!」
そんな金切声をあげたのは恵梨香だった。
「私がこれまでどんな思いで川岸コンッェルンをまとめ上げてきたと思っているの? たかがそんな、推理の真似事で……」
彼女のこの言葉で、やっと智也には全てが読めた。
――そうか、それでさくらは俺に近づいてきたわけか。
「『推理の真似事』……『血は争えない』な、恵梨香さん」
「……何? 一体何の話をしているの?」
「……」
さくらは黙ってうつむいたままで、表情が見えない。それも、当然かもしれない。
「俺は川岸コンッェルンの社長の名前も顔も、人柄も知ってる」
「!?」
恵梨香は着替えたばかりの黒の着物に玉露を零した。
「……そして、彼は本当に、もうこの世にはいない事も知っている」
「だから!? なんなのよ!?」
「約四か月前の新聞に小さく載った、『ホームレス殺人事件』を覚えているか?」
これにはさくら以外の全員が素直に首を横に振った。
「そんなローカルニュースなんて覚えているわけがないだろう!」
「そうよ! 私たちはエリートなのよ?」
「そんなどこの馬の骨とも知れない……って、まっ、まさか……」
八人のうちのひとりが、やっとその可能性に辿り着いた様だ。智也はその相手――恵梨香を見つめる。その眼差しはこれまでどんな女性にも見せた事のない冷たい瞳だった。
「『川岸源次郎』……俺が世話になったのは『ホームレスで探偵の真似事が好きな、愛する娘が二人いるゲンさん』だ」
「……そっ、そんなの、どこにでもいるじゃないの!」
「ホームレスってのは、基本的に自分の生活で精いっぱいだ。俺も実際になってみて解ったことだし、何度もおにぎりを恵んでもらいに行った。その度にゲンさんの仲間は笑ってここに住まないかと言ってきた。……そう素直に『善意』を示せる空気を作れるだけの器のあるホームレス、そうやたらにはいないだろう?」
「……」
皆一様に黙り込んだまま、智也の次の言葉を待っている。
「ゲンさんの仲間は今でも居場所は解る。是非確かめてみろよ。あいつらは確かに社会不適合者かもしれないが、悪い奴らではないんだ。少なくともあんたみたいに、人の気持ちに鈍感な人間よりははるかに善人だ!」
智也は恵梨香に指をつきつけた。彼女は悔しそうに唇を噛み、手元の紙に目線を落とす。
「『財産は私を殺した者を暴いた者に譲る。会社はその者が選んだ者に譲る』……まさか!?」
「……たとえ四方学院のバカだろうが、コイツの方がよっぽど社長の器だ。三ツ星さくら、川岸コンッェルンはお前が継げ!」
「なんですってぇぇぇ!?」
四方八方から智也に向けての非難の声が上がるが、それは出身地でよくあることだったので慣れている。やっとさくらは顔を上げて、真っ直ぐに智也を見上げた。その瞳には力強い光が感じられた。
「……お父さんの遺言に従い、あたしは川岸コンッェルンを継ぎます!」
これまで一度も表舞台に立ったことがなかった少女は胸を張り、そう宣言した。当然、周囲からは「無理だ」という声が上がるのだが、智也がそれを制す。
「遺言状は絶対だ! あんただって『俺の言う事は信憑性十分』、そっちのあんただって『お嬢様の仰る事ならば』と納得してただろ? だから、俺の言う事は絶対だ!」
まるで専制君主のような言い分、しかしそれを納得させてしまうのが、今も昔も智也は変わらない。
「せめて恵梨香さんには遺産の半分をくれてやる。それで納得しろ!」
「残りの半分は……?」
恵梨香に『未菜さん』と呼ばれた中年女性が恐る恐ると言った様子で智也に問う。彼は不思議そうに一言。
「俺のもんに決まってんだろ?」
『遠慮』という言葉とも無縁なのも、今も昔も変わらない。
「……ありがとね」
智也は、初めてさくらのマンションを訪ねていた。さくらとしては、これから色っぽい展開になるかと期待していた、内心では。しかし智也は意外と穏やかに言った。
「どういたしまして」
これには当惑するしかない。初対面から親しげな乱暴口調だった彼が、『どういたしまして』? ……これは天変地異の前ぶれか?
「……あたしがアンタに近づいた理由、解る?」
「俺は男だからな。『女の勘』とやらはないし、『解んねぇ』」
それは智也なりの気遣いだったのかもしれないし、本当に解らないのかもしれなかった。だが、これまでどんな時も一度も『解らない』という言葉は智也の口から出なかった。
「あたしは、小さい頃から大人に囲まれて育った。……政財界の大物、一流企業の社長、華やかだったわ。でも、気持ちは一度も見たされなかった。……寂しかったの」
「……」
「お父さんがあたしを愛してた? そんなの、ウソよ! だって、本当に愛してたら、あたしをあんな場所に、汚い大人ばっかりの場所になんか連れて行かない!」
「それは、違うだろ」
やっと智也が口を挟んだ。
「ゲンさんは……お前の親父さんは、お前をただの『妾の子』として終わらせたくなかったんだ、きっと。ずっと日陰の中で生きて、それでお前は満たされるか? 好きだからこそ、傍に置いておきたい。……当然の感情じゃないのか?」
「……」
「恵梨香って奴は本当に日の当たる場所にいたのかもしれない。でも、そのせいで他者の痛みも苦しみも知らない。そう育つだろうと思ったからこそ、お前には思いやりのある奴に育って欲しかったんじゃないのか?」
「……わかんないよ。だって、あたしは……」
「バカだもんな」
さくらが言おうとした言葉とは違った単語が出てきたので、彼女は困惑したのだが、智也にならばバカ呼ばわりも許せる気がする。それはどういう心理なのか、バカである彼女には到底理解できないのだが。
「お金、どうするの?」
「俺のマンションもなんか知らねーけど散らかってきたし、“K”に相応しい物件にでも引っ越す。んで、大学の学費も全部一括で支払うことにする。よし、これで親父にも文句は言わせねーぞ!」
楽しそうな智也を見ているだけで、さくらも勇気づけられる気がする。そして彼女は最後の『依頼』をする。
「……ねぇ」
「なんだよ、改まって」
「キスして。報酬は支払うから」
智也は初めて戸惑った顔を見せたのだが、すぐに呆れた表情を浮かべてさくらの額にデコピンをくらわした。
「いくら積まれてもしてやんねーよ、バーカ!」
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2015年 7月6日 莊野りず
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