その夜は合コンの帰りだった。……好きで行ったわけではない。ただの人数合わせには自分のような平凡以下、並に届くかどうかくらいの顔が一番都合がいいらしい。しかもこれと言った取り柄もなく、成績も可もなく不可もなく、空気が読める。
そんな、所詮「引き立て役」の自分がこんな事に巻き込まれるとは思いもしなかった。まさかこんな厄介な拾いものをする羽目になるなんて、数時間前までは予想もできなかった。
十二月になって、街はクリスマスムード一色。赤と緑の配色はどこか楽しい気持ちにさせてくれる。だが、明たち学生には焦りを感じさせる季節でもある。
「あー今年も彼女なしかよ! 何で俺の良さをわっかんないかな〜世の女どもは!」
「全くだ。お前に彼女がいないのは理解できるが、この俺に彼女がいないとかありえねぇ!」
同い年で、選択している講義が被っている二人の友人、幸次と祐樹はイルミネーションの真ん中を歩きながらぼやいた。明は別に興味を惹かれる話題でもないので黙っている。
この二人は智也ほどではないが、顔が整っているし、頭もそこそこいい。それに引き換え明は、顔も頭脳もこの二人には遠く及ばない。自分では努力はしているつもりなのに、思うような結果が出せない。
それは昔からの事で、東京に上京してくる前は周囲に智也と散々比べられ、心ない事も散々言われた。女子にも露骨に智也との違いを実感させられ、自己嫌悪に陥ったことも一度や二度ではない。
これが自分の人生の限界だ。どんなに頑張っても報われないのなら、それは無駄でしかない。そう思ううちに、いつしか明は頑張る事を拒否するようになった。
クリスマスには嫌な思い出しかないなぁ、なんて事を考えていると、目的地に着いたらしい。
「ここだ」
幸次が店の看板を指差す。いつもの合コンには比較的安価な大衆向けの居酒屋を使うくせに、今度こそはと思ったらしい。雑誌にも載っている有名な一つ星レストランだ。
「……二人とも、金は?」
明が恐る恐る訊くと、祐樹が胸を張って答えた。
「……明よ、俺らは本気なのだよ。このまま彼女なしのクリスマスなんて嫌だろう? 大学生活最後のクリスマスだぞ?」
要は『恋人を作るためなら金欠すら厭わない』という事だろう。金に余裕のある奴は羨ましいと思いながらも、友人二人に引きずられるように店内に入った。
「おっそーい!」
六人掛けのテーブルに着いた女子の一人が声を張り上げる。一目見た印象では化粧が濃く、我儘そうに見える。約束の時間にはまだ五分ある。
「まあまあ、あたしたちが早く来すぎちゃったんじゃない?」
ファーのついた淡いピンク色のワンピースを着た女子が宥めにかかる。 声の調子から、温和そうに思える。
「……」
何も言わない三人目は明と同じく人数合わせなのだろう。メニューをガン見して、食事の事で頭が一杯に見える。少なくとも、恋人が欲しい風には全く見えない。
「いやーゴメンゴメン! 早く来るつもりだったんだけど、コイツがモタモタしてっからさ!」
「そうそう。悪意があって遅れたわけじゃないんだよ?」
幸次と祐樹はあっさりと遅れた原因を明に押し付けた。若干腹は立ったが、これでこの二人に彼女が出来て、こうして来たくもない合コンに誘われなくなるのなら安いものだ。
「え〜その冴えない奴のせい? ありえないんだけど〜!」
「でも結構好みだよ。こういう冴えない人。ホラ、能ある鷹は爪を隠す? みたいな?」
女子たちも言いたい放題だ。遅れて来た男三人がとりあえずビールを注文したところで、幸次と祐樹が調子よく自己紹介をする。女子たちも楽しそうだ。
明はただぼんやりとビールが届くのを待っていた。特別好きなわけではないが、こういう場ではビールを頼むのが『空気を読む』という事なのだろう。
――早く終わればいいのに。
そう思っていても、もちろん口には出さない。数少ない明の長所は協調性くらいだ。その自覚があるから迂闊な事は言えないし、言わない。
「それでは、独り者みんなで、今日は盛り上がりましょう!」
祐樹が乾杯の音頭をとったところで、グラスがぶつかり合う音が響いた。
――思えばあの日は全てが上手くいかなかったんです。朝のニュースの最後にやってる星座占いでも、やぎ座は最下位だったし。だから、あの時、『彼女』に言われた時、はっとしたんです。……でもだからって、『あんな事』になるとは普通は思わないでしょう?
結論から言えば、その日の合コンは携帯電話のメールアドレスを交換しただけで終わった。明は始終盛り上げ役に徹した。場が静かになれば話題を振り、二人の友人のエピソードを語り、時にはピエロを演じた。
参加した女子は可愛らしい子ばかりだったが、明の好みのタイプではなかった。そもそも明は積極的すぎる女子は苦手なのだ。
「……じゃあ、名残惜しいけどこの辺でお開きにするか」
幸次が高そうな腕時計に目をやりながら全員に告げた。思わず明も皮のバンド部分がボロボロになった腕時計に視線を移す。時刻は十二時十分前だった。
確かに自分たち男はともかく、若い女性がこんな時間に外を歩くのは危険だ。
「そうね。美味しかったわ、ご馳走様」
「え?」
「気前がいいんだね。また誘って。わたし、今度はイタリアンがいいな!」
「えぇ?」
次々と席を立つ女子二人は予想だにしなかった言葉を口にして去っていく。その速さは瞬時には追いつけない。
「わり〜な明、奢るって条件でオーケー貰ったんだった。でも今俺、金ないのよ」
「黙っててゴメンなー。でも明なら笑って許してくれるよな?」
友人二人も勝手な事を言って、脱兎のごとく去ってゆく。その場に残されたのは始終一言も喋らなかった女子と、豪華な料理の代金が書かれた伝票のみ。
明は呆然とするしかなかった。
「……ごめんなさい。私もお金はこれだけしかないの」
心底申し訳なさそうに、取り残された彼女は千円札を二枚だけ出した。明の財布の中身はそれ以下で、千五百円しかない。
「……どうしよう」
二人の所持金を合わせても、三千五百円。これではどう見ても伝票にずらりと並んだ料理と酒の金額には足りそうもない。……結局、二人は学生証を見せて身分を証明し、後ほど払いに来ることを約束せざるを得なかった。
そんな事があったため、明と彼女が帰路に着くころには一時を過ぎていた。
「送ろうか? 女の子一人じゃ危ないし。……いや、下心とかそういうのは一切ないから!」
最後の方は必死になってしまった。これでは逆効果だと明が思った時には、彼女は怖い顔で明を見つめていた。
「私は大丈夫。……むしろ気をつけるべきなのはあなたの方よ?」
彼女の髪が風で揺れた。
「それってどういう意味?」
明が思わず尋ねると、彼女はじっと明の目を見た。
「私には霊感があってね……。あなたにはもやが見える」
「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしたくなった。でも、せっかく心配してくれているのに、それは失礼だ。
「そう。じゃあ気をつけるよ。気をつけて、お休みなさい」
そう明が言うと、彼女は反対方向へと歩いて行った。
空から美少女が降ってくる。それはアニメの中だけの話だ。『現実』の世の中はファンタジーではない。でもそれに近い……かは解らないが、似たような事が起きることもあるのではないか。そんな事を今更になって思う。
織江と名乗った彼女と別れた明は、ほろ酔い気分で歩道橋を渡っていた。少し飲みすぎたのかもしれない。その酔いを醒ますには冬の寒さはちょうどいい。
意識の混濁はないが、身体が火照っている。若干おぼつかない足取りで歩道橋を渡り終えると、借りているボロアパートの最寄り駅を目指して歩く。その通り道の、高架下の辺りが騒がしい事に気づく。
「なんだろう?」
都内にしては田舎なので、大したことは起こらないだろう、と軽い気持ちで覗き込んでみる。そこでは、若い男女が数名でセーラー服の少女を取り囲んでいる最中だった。
「……え?」
思わず声が出る。しかし幸いにも彼らに聞こえた様子はない。少女の腕はプラプラと揺れている。更に顔には数か所に切り傷が見える。
――これってリンチってヤツ?
暴力沙汰には全く縁のない明にも、はっきり解った。少女は殺気立った目を周囲に向け、弱みを見せまいと必死だ。誰かを、警察を呼ぶべきだ。
心がそう叫んでいるが、巻き込まれるかもしれないという恐怖で、携帯電話を持つ手が震える。
「アンタだろ? ウチらスネーカーに片っ端からケンカ売ってんのは!」
「舐めんなよ、たかが女子高生が!」
女たちが剃刀を片手に少女に迫る。彼女は囲まれていて逃げ場がない。
「ハッ! 群れることしか出来ない連中にアタシが負けるわけないじゃん! バーカ!」
少女が虚勢を張っているのは事情を知らない明にも解る。
――これは不良の喧嘩だ。僕には関係ない!
そう思っていても、少女のどこか自虐的な表情に惹かれていた。
「おまわりさーん!」
気づくと、明はそう叫んでいた。
「チッ! 誰だよ、サツなんて呼んだ奴は!」
「ヤバいんじゃね?」
「命拾いしたな!」
不良たちはあっという間に散り散りになって去っていく。そして最後に一人残ったのは、ボロボロのセーラー服の少女だけだった。
「そこにいるのは誰?」
緊張が解けたのか、頬の切り傷を右手で拭いながら、少女は明の隠れている場所を的確に見つけ、声をかけてきた。観念した明は素直に彼女の前に姿を現す。
「……君、凄いね。僕のいる場所が解るなんて」
明がおずおずと顔を出すと、彼女は皮肉気に笑った。
「そりゃあ、こんだけ喧嘩してりゃ気配くらい読めるつーの!」
……少しだけ雰囲気が柔らかくなったように見える。よく見れば彼女の着ているセーラー服は、都内でも有数の不良が多いという噂の四方学園の制服だ。明自身は差別意識は持っていないつもりだが、どうしても少女を『不良』という色眼鏡で見てしまう。
「怪我は大丈夫? 辛そうだけど」
「あー、こんくらい毎度の事だから。こんくらいでダウンしてたら舐められるし。舐められたらアタシのアイデン崩壊だから」
「あいでん? ……アイディンティティの事?」
「ああ、多分それ。意味は知らないけど」
「……なんだよ、それ」
そう返した時には二人とも吹き出していた。明の酔いは完全に醒めていたし、少女の必死の虚勢も解けていた。
「あんた結構面白いね。結果的に……っていうの、この場合? 助けられたんだよね、多分」
「僕は助けたつもりはないよ。運が良かっただけ。でもなんであんなに大勢に一人で……」
すると少女は悪戯っぽく笑った。
「それについて話してほしいんなら、条件があるんだな〜これが!」
「条件?」
明が不審げに訊き返すと、彼女は上目遣いで明を見た。
「アタシを拾ってほしいんだ」
「……と、いう訳なんです。助けてください、茜さん!」
茜は明の必死な顔と、その隣で無表情で紅茶を飲んでいる少女の顔を眺めた。
「ふーん」
なぜ明が見知らぬ少女のために必死になるのか、その理由が理解できない。それに、万年貧乏の明の依頼では大した報酬も期待できない。
『できない』ばかりで、茜のやる気は全くでない。
「この紅茶、不味いね。インスタントでももっとマシだよ?」
少女はあのまま明と別れなかった。何を訊いても「でも拾ってくれるんでしょ?」の一点張りで、強引に明のアパートに転がり込んできた。女性にはあまり興味はないと言っても一応は明だって年頃の男だ。一緒に寝ようと執拗に誘う少女に仕方がなく自分のベッドを譲り、明はこの寒さの中、床で寝た。
友人と言っても幸次や祐樹は泊まりに来るような仲ではないし、智也は『ボロアパート』というだけで宿泊を拒否する。なので、予備の布団など明の部屋にはない。
「……じゃあ飲まなきゃいいじゃん。言っとくけど、僕はタダで依頼を受けるほど甘くはないんだよ?」
少女をこの教会に連れてきた瞬間の茜は嬉しそうだった。美少女や美人に弱い茜ならば、シビアな智也とは違って、少女に対して親切にしてくれると思っていた。
しかし、この少女は茜の好みではないらしい。
「アンタって姑みたいだね。息子の彼女が気に入らなかったら、思いっきりいびりそう。こっわ!」
「……さっきから黙って聞いてるけどさ、僕は君より年上なんだよ? 敬意が足りないって思わないワケ?」
「ヒッキーのニートにケーイなんていらないでしょ。ね、明もそう思うでしょ? ねっ!」
「ニートじゃなくて、探偵の仕事が忙しいから勉強なんてしてる暇ないんですぅ!」
……どうやらこの二人はとてつもなく相性が悪いらしい。必要最低限の装備で犯人を撃退する茜と、喧嘩で舐められない事を最優先に考える不良では、それも仕方がないのかもしれない。
今更ながらこの場所に連れてきたことを後悔した。明が頭を抱えている間にも、この二人の言い争いは激化する。
「そもそも明さぁ、なんで身元も知らない不審者を泊めちゃうの? 君ってそこまで考えなしだったっけ?」
「不審者じゃないし、ガッコ通ってるし、バイトもちゃんとしてるし、アンタよりはまともだし。……第一、『探偵』なんてうさんくさ!」
明を遠巻きに見ている神父も、茜を宥めることを諦めている。普段ならちゃんと仲裁してくれるのに。明は諦めの境地で少女の顔を覗き込む。
「でも『探偵』に用があったんだよね? 人探し? 事件? なんでも依頼して大丈夫だよ。こう見えて茜さんは優秀な探偵なんだから」
明の言葉に、少女は思案顔になり、ついには相談することを決めたようだった。
「……明がそこまで言うなら」
少女は二枚の写真をテーブルに並べた。映っているのは若い少女が中年の男と親しそうにベタベタしている所だ。
「……援助交際?」
明はつい言ってしまった。少女が明を睨む。
「……今時珍しいね。この建物はホテルかな?」
茜はあくまでも冷静だ。
「……この子、アタシのダチでエリナってんだ。本名は知らないけど、本人がそう言ってた」
「ごめん、ちょっと意味わかんない」
明が言葉足らずな少女の言葉に突っ込む。
「本名は別にあるけど、エリナって呼んでって周りに言ってたって事でしょ」
「ああ、うん。そう言いたかった」
「……これだからヤンキーは」
茜の補足で納得していると、新たな火種が生まれそうで怖い。
「で、そのエリナが売春してて、友達としては助けたいって事?」
写真に視線を落とした茜がそう尋ねると、少女は驚いている。
「なんでアタシの言いたいことが解ったの? アンタってエスパー?」
「……女だてらに腕の骨折ってまで、多数から恨みを買ってたりするくらい喧嘩するなんて余程の事だよ? 賭博関係にでも手を出して、上手い事稼いでカンパでもしようと思ってんでしょ?」
「……う」
「バッカだなぁ。ああいう連中はどこまでも追ってくるよ。エリナって子には迷惑以外の何物でもないね」
茜はわざとらしくため息をつく。
「でっ、でもアタシたちはお互いにたった一人のダチなんだ! きっと、きっと喜んでくれる!」
「じゃあ好きにすれば? 僕は知らないよ」
茜の、どこまでも突き放した言い方に、少女は急に席を立った。
「……あんたってホントに探偵? 助けてくれると思ってたアタシがバカだったよ!」
そして少女は足早にその場から去ろうとする。
「ちょ、待って!」
明が追いかけようとすると、茜が明のシャツの袖を引っ張った。
「あんなのに関わり合ってもいい事なんて一つもないよ?」
あまりにも冷めた目で茜は言う。
「……それでも、僕はあの子を拾っちゃったんです! 最後まで見届ける義務があります!」
明は強く腕を引っ張って、茜の手を強制的に振り払うと、少女の後を追った。
――エリナ!
少女はたった一人の、大切なひとの事を思っていた。昔から病弱で、自分がいないと何も出来なかった、内気な少女。エリナは、エリナだけは自分が守ると決めていた。
高校に入学して、すぐに不良チームに入った。……楽しかった。エリナだってその思いは変わらなかったはずだ。
「……どうして、あんな事」
少女はエリナの事を思う。その度に涙が止まらない。
『……あたし、愚連隊に入ろうと思うの』
ある日、学校の屋上で、エリナが言った。
『愚連隊? ……ああ、あの雑魚ばっかの』
そのチームなら半年ほど前に自分たちのチーム『ヒガンバナ』が潰した。入学当初とはうって変わって、エリナの身体は少しづつだが、健康になりつつある。
その事は親友として非常に喜ばしい。
『雑魚とか言わないで!』
『え? ……どうしたんだよ? エリナがそんな大声出すなんてさ』
最初に言い出した「愚連隊に入りたい」という言葉は冗談だとばかり思っていた。自分とエリナの所属するチーム『ヒガンバナ』はレディース最強との呼び声も高い。それなのに、なぜ自分たちが潰した弱小チームなどに入りたいなどと言うのだろうか。……解らない。
『とにかく、もうあたしのことはほっといて!』
――それから三日後、『ヒガンバナ』の間でエリナが売春しているという噂が流れ始めた。
エリナは学校にも来なくなった。
――もしかして、原因はアタシ?
エリナには彼女以外の気を許せるような相手はいない。身体は病弱ではなくなったが、長年の質はそう簡単には変わらない。
『ねぇ、何でもいいからエリナの事知らない?』
必死だった、自分なりに一生懸命だった。
『ああ、頭の禿げたオッサンとホテルに入っていくとこは見たよ。確か、『キャッスル・ローゼン』とか看板に書いてあった』
『ありがとう!』
エリナ以外に素直に礼など述べるのは数年ぶりの事だ。夜を持って、『キャッスル・ローゼン』前で張り込みをしていたら、果してエリナが来た。禿げ頭の男ではなく、今度は汚らしい中年男だった。気づいた時には飛び出していて、彼の顔面に拳を入れていた。
『……エリナ、もう大丈夫。。脅されてんだろ? アタシがついてる』
きっと脅されていただけだ。あの内気なエリナが、進んで売春などするはずがない。すると、エリナの細い手首が目に前に見え、頬に軽い痛みが走った。
『あたしの事はほっといってって言ったでしょ! 親友面しないで!』
エリナは呆然とする少女をおいて、彼女に殴られた中年男にひたすら謝った。そして一度もこちらを向かないまま、エリナはホテルへと消えた。
「……エリナ」
夕暮れの公園は、どこか物悲しい。ブランコに腰掛けて、軽く揺らしてみる。 その揺れの心地よさで、頭が空っぽになりそうだ。むしろ空っぽにした方がこの場合はいいのではないだろうか。……そもそも元から彼女の頭は空に近いのだが。
ブランコを軽く揺らしながら、ただ黙って夕陽を見上げる。しばらくそうしていると、近くに誰かの気配があった。少女はゆっくり振り向く。
「……君が名前すら教えてくれないから、探すのに手間取っちゃったよ」
目の前には明がいた。数十分前に飛び出してきた教会からすぐ近くの公園は、夕陽が美しい。その柔らかな光の中で見る明の顔は、とても優しい色をしていた。
「……どうして?」
それはあらゆる事に対しての『どうして』。
「……どうして何も聞かないの? どうして親切にしてくれるの? どうしてそんなに……優しいの?」
この少女に明に迷惑をかけたという自覚があったという事には少し驚いた。特別優しい事をした覚えはない。
ただ、まだ十代の少女が困っているのを見ていられなかっただけだ。ただそれだけの事なのに、彼女は明の事を『優しい』と言う。明はしばらく考えた。それでも答えは出ない。
「それは……僕にも解らないや」
本当に解らない。でも最初にこの危なっかしい少女を見た時から、明はおかしくなっていたのかもしれない。普段なら無難な事しかしないのに。
「君の素が出てきたね。本当は喧嘩だってしたくないんじゃないの?」
女子らしい柔らかな口調は、昨日の喧嘩相手が聞いたら別人だと思うだろう。それを直接この少女に言う気にはなれないが。
「解ったような事、言わないでよ。アタシはケンカが好きなんだ。バカでも拳は使える。それで充分なんだ!」
また、元の口調に戻る。『暴力』という幼稚な手段でしか自分の存在を認めてもらえないが故の自虐的な虚勢。 明にはそうとしか思えない。
「……でも、君が怪我をしたら悲しむ人はいるよ」
間髪入れず、少女は反論する。
「ハッ! 誰がアタシみたいなクズ……」
これにはベタだが、『こう』としか返す言葉が見つからない。どこかの安っぽいドラマでありがちな言葉。
「僕がいる。……それじゃダメ?」
「はぁ? なにそれ」
明は自分の感情を持て余していた。こんな気持ちになった事など今までなかったし、これからもないだろうと思っていた。今まで恋人が欲しいと必死な人の気持ちなど想像する価値もないと思っていた。……しかし今は違う。
「……僕は、多分、君のことが好きだ」
明の口から、ゆっくりと発言された言の葉は、少女の胸にじわりと染みた。これまで生きてきて、一度も言われたことがなかった。男はもちろん、エリナにも。
「……ああ、そうか。アタシはエリナに嫌われてたんだね」
思い返してみれば心当たりは山ほどあった。病弱だった頃から、お見舞いに千羽鶴を持って行った時も「ありがとう」としか言われなかった。中学に入っても、ただ「同じクラスで嬉しい」と言っただけで、「好き」という言葉はなかった。高校に入り、『ヒガンバナ』のメンバーとしては先輩だったのに、エリナからの言葉はなかった。
「……え? 僕の一世一代の告白は、まさかのスルー!?」
しかし、明の見えないところで、彼女はほんの少しだけ、口角を上げていた。
「……それで、あの後どーしたワケ? 一応関わっちゃった身としては聞いとかなきゃ気に入らないんだけど?」
茜は仏頂面で煎餅を次々と口に運ぶ。
「……あれ、茜さんって甘党じゃなかったんですか? 煎餅は甘くないですよ?」
不自然極まりない明の誤魔化し方には、単純すぎて腹も立たない。
「……で、どうしたワケ?」
……茜の目が怖い。そこに神父のフォローが入る。
「茜は一応『プロ』だから。少しでも関わってしまった相手の事はアフターケアとして心配なんだよ。話してやってくれないか、明君?」
あれだけ仲悪そうにしていたのに、そんな理由があったのかと、明は茜を見直した。
「……じゃあ、結果だけでいいですか?」
「うん」
あっさり茜は頷くと、緑茶を啜った。あれは、明が告白したその次の日の事だった。
少女はエリナに関わる事を一切やめた。
もう昔のエリナじゃない、彼女は今、自分の意志で全てを決めている。そこに他人である自分が関与する必要などない。そう誓ったが、やはりエリナの噂を聞くたびに反応してしまう。
てっきり依存しているのはエリナの方だと思っていたが、実は依存していたのは少女の方だったのだ。だから彼女は両親を説得し、エリナとはもう二度と関わる事のない環境へ転校する事になった。意外な事に、少女の家庭は裕福で、海外の彼女のレベルに合う学校を探す事に金の糸目をつけなかった。
そうして彼女は海外で教育を受けることとなった。一人暮らしになると母親は心配していたそうだが、何とかなると彼女は強気な笑顔で言った。
「ふぅん。じゃあ万事解決って事か。よかったじゃん?」
それならアフターフォローも必要ないか、と茜は呟いた。彼女は煎餅を食べきった後、ぬるくなった緑茶を一気に飲み干し、自室へと戻った。
がらんどうな教会内でドアの閉まる音が響く。
「……本当に、それでいいと思っているのかい?」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。あのお嬢さんとこのまま離れ離れで、本当にそれでといいとでも思っているのかね?」
明は素早く神父の顔を覗き込んだ。その表情はあくまで穏やかだ。
「……なぜ僕が、その、彼女の事を好きだと?」
「私も伊達にこの教会の牧師をしているわけではないんだよ? 君の表情を見ればよく解る。これを持って行きなさい。まだ間に合うはず」
慌てて空港に着いた時には、本当にギリギリセーフだった。神父が持たせてくれた、華奢な銀のクロスの加護だろうか。
「えっと、君ぃ〜!」
明が大声を出すことは生まれてから、覚えているだけでこれで二回目だ。少女は明の声に気づいた様で、カートを引きながら、明の元へと引き返してくる。
「明じゃん。どしたのよ? こんなとこで」
少女はまだセーラー服を着ていた。髪の色は相変わらずの痛んだ金髪。新しくピアスも空けたらしく、右耳に一つ、左耳に三つの安っぽい輪っかのピアスをつけていた。
明は息を整えながら、ゆっくりと彼女の顔を見る。そして一分ほどしてから、やっと口を開く。
「……最後に、お別れの前に、一つだけでいい。僕の願いを聞いてくれる?」
その真剣さに、一瞬だけ少女の表情が硬くなったが、すぐにいつもの何も考えていなさそうな能天気な表情に戻る。
「何? ……ま・さ・か、アタシを抱きたい、とか?」
少女はおかしそうに笑う。しかし明は真剣だ。その表情に、軽口を叩いていた少女は身構える。
「……君の名前が知りたい。他の事は何も答えなくていいから」
少女は顔を逸らすが、明は諦めない。
「言いたくないって事は解ってる。でも、せめて名前で君を呼びたい。ずっと『君』としか呼べないなんて、悲しすぎる」
明がそっと少女を抱きしめる。冬だというのに、彼女の身体は温かい。
「……好きなんだ。こんなに惹かれる女の子に出会った事なんて今までになかったんだよ!」
身体に回った明の腕を、少女はギュッと抱きしめるように抱える。
「……アキナ。名字は訊かないで。明の前ではただのアキナでいたい」
「……アキナ、か。僕と一文字しか違わないね。名字は無理に言わなくていいよ。言いたくないんならしょうがないって諦める」
アキナが仏頂面になる。そして人差し指をピンと立てて、明の鼻の頭に乗せる。
「その諦め癖、直したら?」
「え?」と思わず明は反論する。
「諦めが早い事は長所じゃないの?」
するとアキナが呆れた顔をした。
「全然。もっとあがいて、あがいて、あがき続けるの。そんな生き方がアタシは好き。そっちの方が一億万倍はかっこいいじゃん!」
相変わらず、言う事がめちゃくちゃだ、一憶万って。そう突っ込もうと思って、やめた。アキナはこうやってバカやって、笑っている方が似合っている。
「いつか僕がそうなれたら、僕を認めてくれる?」
「……。ノーコメント。うっとおしいのは嫌いだし、ジメジメしたのは苦手だから、そろそろ行く」
「あっ、待って」
慌ててアキナを引き留める明。何事かとアキナは明の顔を見る。
「……これ、持って行って。お守り、ちゃんとした教会のだから、ご加護はあると思うんだ」
神父から渡されたクロスをアキナの首にかけてやる。痛んだ金髪と安っぽいピアスとは全然合わないが、アキナの白い肌の部分にはよく映える。
「別にここまでしてくれなくていいのに。でもありがと。……じゃあね、飼い主さん!」
そう言って大きく手を振るアキナとの距離が、どんどん遠くなっていく。搭乗口へと歩き始めるアキナは、一度もこちらを振り返らない。
「元気で」
明は吸い込まれるように搭乗口に消えていくアキナを見つめながら、ただ一言そう呟いた。そしてその場から身を翻した。
――あがいて、あがいて、あがき続けるの。そんな生き方がアタシは好き。
――アキナ、僕は君みたいに強いわけじゃないし、何のとりえもないけど、とりあえずあがいてみるよ。
「明って週末空いてるよな? クリスマス合コン開催けってーい!」
「……僕は好きな人がいるからパス」
幸次の誘いを断ったことは一度もなかった。当然彼は驚いている。
「好きな人って、どうせ脈ねーんだろ? クリスマスに一人って淋しいぜ?」
言外に、『明ごときに彼女が出来る訳がない』という嘲りの口調。昔はただ聞き流していたが、今は違う。
「いや、遠距離恋愛ってだけだよ?」
そう笑って返した明の余裕に、幸次は言葉を失った。
_______________________
2015年 3月9日 莊野りず(加筆修正版更新)
2015年 9月16日 修正
Copyright(c) 2023 rizu_souya all rights reserved.