ここに、三人の男女がいる。
宮沢香苗、羽柴弘道、油井沙織。彼らを前に茜は考え込む。
――そもそもどうしてこんなことになったのか。
その日、茜は目を覚まし起き上がった。時計の針は八時を指していた。
「やば、寝坊だ」
いつもは七時ごろに目覚めるのに、昨日は発売されたばかりのミステリ小説に夢中で夜更かししてしまった。
リビングとして使っている六畳間に行くと、朝食のトーストが二枚用意してあった。かなり前に準備してあったらしく、すでに冷めきっていた。それにも構わずに、 彼女はそれを平らげると新聞に目を通した。
大きな事件は起こっていない。平和である事に不満はないが、何か事件がないとこの冬を越せそうもない。ストーブに使う灯油も値上がりしているのだ。
茜は焦る気持ちを抑えてパソコンを起動した。メールボックスをチェックしてみるが、何も来ていない。 嬉しくないダイレクトメールなら大量に来ていたが、そんなものに構ってはいられない。
「はぁ……。今年は厳しいな」
コーヒーを淹れて、大して広くもない自室に戻る。部屋にはベッドと本棚、サイドボードしか家具がない。本棚にはミステリが並んでいる。
もう一度、昨日の小説に目を通そうかとベッドから立ち上がろうとした時、来客を告げるチャイムが鳴った。
茜の服装はいつものジーンズにセーターにワイシャツをイン。この時期の部屋着はいつもこれだ。真っ白のセーターは、ところどころ汚れている。とてもではないが客に見せる恰好ではない。
「それで、貴方が探偵さん? ずいぶんお若いのね」
客は四人組だった。華やかな装いの女性が茜を見るなりそう言った。確かに一般的な探偵のイメージはくたびれた中年、と言ったところだろう。
「……君はちゃんと食べてるのかい? 女の子のように細いじゃないか」
白いひげを蓄えた男性が気遣わしげに言った。……『みたい』ではなく本当に女なのだが、この恰好では間違えられるのも無理はないので黙っていた。
「申し遅れました、私たちはこういう者です」
スーツの若い男が名刺を差し出した。名刺には、羽柴弘道という名前と各種連絡先が書いてある。
「すみません探偵さん。あたしたちの話を聞いてくれますか?」
地味なOLのような、少々くたびれたスーツ姿の女性が話を切り出した。
あたし、宮沢香苗とこちらの二人は大学の同期なんです。久しぶりに四人で会おうって油井沙織――この派手な子が言いだしたんです。
それでこの方、白いひげの方はあたしたちの出身大学の教授なんです。あたしたちはかなり親しいです。学生と教授の肩書きも四人でいる時はなくなるほどに。
会うことを決めたのは沙織で、弘道は店の予約、あたしは二次会の会場を確保したんです。あとは週末を待つだけでした。……でも、教授のところに脅迫状が届くようになったんです。
送り主も解らず、警察も相手にしてくれません。教授は問題ないと言うんですが、心配で。あたしたちはどうしたらいいでしょう?
「それなら僕も一緒にその飲み会に行きましょう」
茜はあっさりと決断した。
「え?」
教授以外の三人がぽかんとしている。
「僕は護身用の武器を持ってますし、探偵がいるってだけで安心できませんか?」
若い三人は顔を見合わせた。……まるで何か都合でも悪いかのように。
予約を入れていた居酒屋は盛況だった。若者から中年、壮年層まで幅広い客がいる。茜を含めた五人は窓際の席へと通された。
「さあ、今日は飲みましょ! 教授、乾杯の音頭を!」
沙織が上機嫌でグラスを持ち上げた。
「油井君、もう出来上がっているのかね? 困ったものだ」
教授は苦笑すると「乾杯!」とグラスを合わせた。
「ここには教授の好みのブランデーも置いてあるんですよ。是非飲んでください!」
佳苗がブランデーのボトルを教授のグラスに向けた。
「悪いね。じゃあいただくよ」
教授はビールの入っていたグラスにブランデーを並々と注がせる。こんな無茶な飲み方をする人がいるとは茜は思いもしなかった。神父もほんのたまに飲むが、嗜む程度だ。
「いいでしょう、この店? 俺が見つけたんですよ」
弘道が得意そうに言う。
「まだ始まったばかりだし、どんどん飲んでくださいね」
沙織が赤い顔で笑った。
ジュースばかり飲んでいる茜はつまらなくなってきた。へべれけに酔うのは楽しそうだが、茜はまだ未成年。飲むわけにはいかない。……それだけならまだいいい。
一人だけ素面でいると、酔っ払いたちに絡まれるのだ。依頼人でなければスタンガンの一撃でもくれてやりたいくらいだ。
佳苗は酔いつぶれて眠り、弘道と沙織は教授と議論を交わしている。議論というとまともに聞こえるが、酔っ払いのもの。とてもではないが論理的ではない。
「暑くなって来たわね。窓開けていい?」
沙織が返事を待たずに店の窓を開けた。寒いくらいの涼しい風が入ってくる。そこへ店員が青い顔で駆け付けた。
「お客さん、窓開けちゃったんですか? 駄目ですよ、この近くにスズメバチの巣があるんですから!」
「え?」
スズメバチと聞いて驚いたのは教授だった。そして夜の暗闇から店の明るさにつられて二、三匹の蜂が入って来た。
「うわぁ!」
今度は教授が青い顔になった。やがて店の中を飛び回っていたそれは、教授の周りを飛び回り、彼を刺した。
「誰か、誰か助けてくれ! 私はアナフラキシーなんだ!」
救急車を呼んで、教授が運ばれた後、茜は三人に残ってもらった。……これは『事件』で、この中に『犯人』がいる。そう確信したからだ。
救急車に同乗しようとする三人を、彼女は呼び止めた。予想通り三人は怪訝な顔をしている。
「なんなの? あたしたちは教授に付き添わなくちゃいけないの!」
沙織が強い口調で言った。
「そうだ。もし教授に万が一の事があったら……」
弘道もすっかり酔いが醒めているようだ。
「私が寝ている時にそんな事があったなんて」
佳苗も驚きを隠せない。
「……この中に、その『犯人』がいます」
茜の硬い声に、三人は緊張した面持ちになった。
「これからあなた方に質問をします。正直に答えてください」
居酒屋での飲み会では、暇を持て余していた茜が『探偵』の顔を見せると、三人は気を引き締めたようだった。
「まず、教授がアナフラキシーだと知っていましたか?」
「知ってました。みんな知ってると思いますよ」
佳苗が控えめに答えた。
「それはなぜですか?」
茜はメモを取り出すと、情報をメモする準備をした。
「だって、いつも花の咲く季節になると、得意げにアナフラキシーだと自分で仰っていましたから」
自慢する事なのかは解らないが、教授としては重要な事だったのだろう。皆が知っているという事はこれは計画された可能性が高い。
「では、この飲み会を企画したのは誰ですか?」
すっと手が上がった。沙織だった。
「あたしが計画しました。教授がお忙しそうだったから気分転換にどうかって。弘道も佳苗も賛成してくれたし」
「計画したのは沙織さん。では店に予約を入れたのは誰ですか?」
今度は弘道が自分の顔を指さした。
「沙織が雰囲気がよくて安い店を知らないか、って煩いからネットで調べたんだ」
居酒屋の内装が小奇麗だったことを思い出し、この証言も納得した。
「なるほど。……犯人が解りました。一度店に戻ってください。それで犯人が解ります」
三人は先程と同じ席に着いた。
「こんなので、何が解るってのよ?」
沙織は煙草に火を着けた。
「まぁまぁ。あの探偵さん自信ありそうだし」
佳苗が宥める。
「……あれ? この音は……?」
それは虫の羽音だった。しかもそれはスズメバチ。数匹のスズメバチが弘道に向かって襲い掛かって来た。他の二人など目に入らないかのように。
「うわあぁぁぁぁ!」
「これがあなたの仕掛けたトリックです」
入り口から茜が入ってきた。
「どういう事?」
「企画しても店を準備しなければ犯行は無理。ただお酒を勧めるだけではただ虫に刺されやすくなるだけ。虫、蚊などはアルコールの匂いに釣られやすい。……場所を用意した人間ならば、予め予約で蜂の巣の傍の窓際を用意できる。更に下見に来た時に虫の好きなフェロモンを仕掛けておけば、より確実です」
茜は弘道に向き直る。
「……違いますか、弘道さん?」
弘道はそれどころではない様子で、必死にスーツでスズメバチを追い払っている。
「でもどうして弘道君が……」
「多分、論文を盗まれたことを気にしてるのよ」
沙織が煙草の煙を吐き出しながら憂いを帯びた顔で答えた。
「言ってもいいわよね? ……答えは聞いてないけど」
入学した時から『天才』だと有名だった弘道。彼の書いた論文は、今までの常識を覆した。その論文に目を付けたのは教授で、彼の書いたものを自分のものだと公表してしまった。……代わりに弘道の元に残ったのおは教授の書いた三文論文。それ以来機会をうかがっていた――教授を殺す『機会』を。
「あたしには何も出来ないわ。……さようなら弘道」
沙織は、うなだれる彼をおいて、タクシーを呼び病院へ向かった。何も知らなかった佳苗はその場に立ち尽くした。茜は事件を解決すると報酬を振り込む口座を告げて去って行った。
引きこもりの彼女には『理屈』は解っても、その『心』は、到底理解できなかった。
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2015年 2月26日 莊野りず(加筆修正版更新)
2015年 9月16日 修正
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