探偵は教会に棲む

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The Fifth Case:いろはにほへと



 山奥の瀟洒なペンションで、老紳士の死体が発見された。東北の人里離れた山の奥での事であり、今回茜たちが巻き込まれる事件の発端である。
「……それで教会の方はいつ頃になりますか?」
 美千代は気を引き締めて、姿勢を正した。今、この場では、自分はあくまでも部下の一人でしかない。彼女が『上の連中』と密かに読んでいる面々は、整った顔立ちの美人を部下に持ったことに喜びを感じているようで、大体の場合は美千代の『提案』は問題なく通る。
 それはこの日も変わらなかった。神父が入院中に話に出た『条件』で、話は十分通り、美千代は内心でホッとしている。これで、あの土地に新しく『教会』が建つはずだ。細かい打ち合わせも、茜と神父の両方の希望を訊く事を優先した。結果、多分今は大西の手によって更地にされたままの、立地条件のいい『土地』は『教会』へと変わる。今度の教会は新築で、これまで無駄に広かった庭を余す事なく活用したものになりそうだ。
 鼻歌でも歌い出したい気分で、この場を去ろうとするが、『上の連中』の一人が『事件』の話題を出した。
「それは追って連絡する。……ところで、この事件を知っているか?」
 そう言われ、彼から手渡された新聞には大きな写真が載っていた。紙面には見覚えのあるあらましが大きな見出しで踊る。……この事件ならは朝刊で読んだばかりだ。
 大手薬剤会社、『南田グループ』の南田総裁が殺された、というものだったはずだ。
「存じ上げています。次はこの事件ですか?」
「そうだ。手の空いている連中をまとめて送り込め、いいな?」
 美千代は別の資料を受け取り、頷く。……『断る』なんていう選択肢は初めからない。『上の連中』とは強引な者ばかりなのだ。
「……はい」


 茜と神父は、美千代が借りている高級マンションの一室に厄介になっていた。神父が入院していた時は、茜と美千代の女二人でちょうど良かったのに、彼が院したため三人となり、窮屈に感じるようになった。
 茜個人は気にしないが、健康を取り戻した神父には、居心地が悪い。……彼は、せめてものお礼とばかりに、部屋中の掃除を始めた。その様子を読んでいる本から彼に視線を移して、茜は指摘する。
「……やめておけば。僕はともかく、美千代さんはそういうの嫌がると思うよ?」
 止めようとしても、彼は聞く耳を持たない。……もしかして、前回の事件の事を、まだ引きずっているのかと茜は思う。そこへ美千代が帰ってきた。
「……神父、あなた、なにしているの?」
 美千代の、整った形の唇が震える。彼は後ろを向いているため、そんな彼女の様子が、全く見えない。――あちゃー、茜が慌てて本に視線を戻す。
「何って、掃除だ。 ……まったく、女性がこんなに散らかすものでは――」
 鈍い音がして、痛みを感じた時、頭を叩かれたと解る。
「バカ! ……人の部屋を勝手に掃除するんじゃないわよ、気色悪いわね!」
「……だから言ったのに」
 美千代の帰宅後、 神父の作ったビーフシチューを夕食に食べ、お茶を飲みながら美千代は、『仕事』の話を切り出す前に、新しい『教会』についての連絡事項を二人に告げる。
「……ところで、『教会』の方なんだけど、まだ完成は未定、だいぶ先になるそうよ」
「そうか」
 神父は、ガッカリと肩を落とした。あの場所、あの『教会』は、彼にとってとても大事な場所なのだ。……もちろんそれは、茜にとってもだ。
「それと次の『仕事』なんだけど、『南田グループ』って、聞いた事はある?」
「……神父が入院していた病院に薬の試供品を卸してるっていう、あの『南田グループ』ですか?」
 茜が私立美柳病院の事を、思い出しながら訊き返す。美千代は頷いて、更に詳しく話してやる。一般大衆向けの新聞記事には、当然目を通しているだろうが、補足だ。
「その『南田グループ』の総裁――南田利一が何者かに『殺された』、そうなの。……ただの物取りではなく、その他の理由が考えられるているわ。『上の連中』の間ではね? どう? 解いてみる気はない?」
 やっと夕食を終えたばかりの茜の瞳が、キラキラと輝く。事件の謎解きの前は、いつもこうなるのが彼女の癖で、神父はいつも「不謹慎」だと窘めるのだ。
「僕たちの出番ってワケですよね?」
「そういう事になるわね。……『担当』する?」
「もちろん! それで、どこまで行けばいいんですか?」
「東北の南田グループの所有するペンションまで。そこに被害者の双子の孫娘が、現在滞在中って話よ。彼女たちから詳しく『事件』の事を訊いて、解決。ここまでが『担当』のお仕事よ?」
 確認するように、美千代は茜にウィンク。彼女かて『組織』の人間。それも『組織』の資金でここまで成長したのだ。『担当』の仕事内容は、当然把握済みだ。
「ペンションかぁ……。この時期の東北って、下手すると北海道よりも寒いらしいし、防寒具はちゃんと用意しなきゃね!」
 茜はまだ見ぬ東北の地に想いを馳せている。今年は色々な事があった事だし、解決した帰りには厄落としに東北各地の神社仏閣を回るのもいいかもしれない。……そう思う茜は、クリスチャンではない。ただ『教会』には棲んでいるだけであって。
 美千代は茜との会話を終えると、湯呑みをキッチンのシンクに置いた。彼女の頭にはもう一組、「依頼しよう」と決めている連中の顔が浮かんでいる。携帯電話をバッグから取り出し、それを持ったままで、ベランダに出た。……茜たちには内密に動いてもらおうと思っての事だ。相手が電話に出ると、弾む声で尋ねる。
「もしもし? 私よ、美千代。……年末年始のご予定は?」


「わぁ!」
 ペンションに着いた途端、茜のテンションは最高潮で、大はしゃぎだ。基本的に引きこもりの彼女にとっては、遠方へ出かける事など、滅多にない機会なのだ。この反応も当然だ。ペンションは三つの棟からなっている。一つは母屋になっており、平屋建てで蔵も備えている。他の二つは、二階建てだが部屋はリビングダイニングを含め三つしかない。
 「可愛らしい」という形容が似合う、小さなペンション。もちろん、茜には異存はなし。吹き抜けになっているリビングダイニングで、彼女は大きく伸びをした。
「この周辺は……森になってるのかな? これがウワサの薪ストーブ? 初めて見た!」
「いいから、落ち着きなさい」
 二人は荷物を降ろし、薪ストーブに火を起こした。いつもの石油ストーブとは、また違った温かみがある。
 美千代が言っていた事によれば、ペンションの母屋で『事件』が起こったとの事。さっそく調べにいきたいところだが、今日は着いたばかりで疲れている。今夜は神父の手料理を食べ、リビングダイニングにあったテレビでニュース番組を観て、早々と眠りに落ちた。


この森の朝は、小鳥のさえずりで始まる。今日はちらちらと雪が降り始めた。いつも通り早く起きた神父は、森の中で母屋に向かう影を見かけた。よく見ると、着物を着た若い女性が、薪を運んでいる。
「すみません、こちらの方でしょうか?」
 思わず話しかけていた。彼女は驚いて、彼の方を見た。この森に人がいることに驚いているようにみえる。
「……あっ、はい。私は、この地の主の孫で、名を敷島葵と申します。薪が切れたものですから、補充しに出てきたんですよ」
 彼女はそう自己紹介をして、ニッコリと微笑んだ。二十歳前後だろうが、一見すると幼い印象を受ける。化粧気はなく、美千代とは違ったタイプの美人だ。着物に前掛けと襷をかけている。
 この葵という女性が、美千代の言っていた南田グループ総裁――南田利一の孫娘なのだろう。現に、彼女は自分で『主の孫』だと名乗った事だし。
「私は、昨日からこのペンションにお世話になっている、神木と申します。……滞在中は、どうかよろしくお願いします」
 神父も挨拶を返した。そこへ彼女――葵のものと、非常によく似た声が聞こえてきた。
「葵、いつまで薪取りにいってるのよ! 早くしなさいよ!」
 そう言いながら近づいて来たのは、どことなく葵に似てはいるものの、彼女とは真逆の派手な印象の女性。黒髪でショートカットの葵とは対照的に、長い髪を金に染めている。年齢自体は葵と同じなのだろうが、化粧の濃さと見た目の派手さから、もっと年上に見える。彼女がもう一人の南田利一の孫娘……なのだろうか?
「姉さん、こちらの方は、お客様だそうよ」
 「あら」と、その彼女は姿勢を正して、胸を張った。
「ごめんなさいね? あたしは敷島昴。この子の双子の姉よ」
 やはり、神父の勘は当たっていた。今目の前にいる彼女たち――姉の敷島昴と妹の敷島葵は、南田利一総裁の双子の孫娘たちだったのだ。
「……双子ですか、道理でどこか似ていると思いました!」
 わざと驚いたフリをして見せると、双子の対照的な姉妹はそろって悪戯っぽく笑う。その笑顔は双子というだけの事はあり、見た目から受ける印象は真逆なのに、そっくりだった。神父が驚いた事に満足したのだろう、葵が提案してきた。
「そうだわ! 神木さん、折角ですし母屋にいらっしゃいませんか? 自慢のワインコレクッションがあるんですよ!」
 ちょうど母屋を探るきっかけが欲しかったところで、葵の提案はまさに渡りに船だ。少しでも調べる事が仕事の探偵――茜もきっと喜ぶだろう。調査のきっかけができた事と、美人の双子の姉妹と出会える事の二重の意味で。
 もちろん神父はそんな考えなど顔には出さず、先ほど葵がしたように、ニッコリ微笑んで言った。
「喜んで、うかがわせていただきます。もう一人連れがいるのですが、それの一緒に連れて行っては……駄目でしょうか?」
「もちろん構いませんよ。せっかくの年越しですし、人数は多い方が楽しいですし。では明日の夜にでも母屋の方にお越しください。……実は、もう一組様もお誘いしてあるんですよ!」
 葵はそう言って、楽しそうに笑った。昴も、満更ではない表情。二人が母屋に戻るところを見届けてから、神父もペンションに戻った。
 彼が戻った時には、基本的に不規則生活な茜も、既に目を覚ましていた。彼女は毎朝の習慣で、各新聞に目を通している。 「おかえり神父。随分遅かったね?」
 茜が準備したのだろう、木製のダイニングテーブルの上には、おこげがついたご飯と味噌汁が用意してある。それらを食べながら、つい先ほど出会った双子についての事と、一緒に年越しをしないかと誘われた事を話した。茜は感心したように笑って言った。
「母屋に行けるなんて……神父もやるじゃん!」
 あとは明日を待つだけだ。明日は大晦日。その次の日は新年。……新しい年になるまでに、この『事件』は解決してしまいたいところだ。
 それは、森の夜も更けた頃の事だ。茜と神父が滞在するペンションに近づく、黒い影があった。その黒い影は、迷う事なく玄関扉をノックした。
「はーい!」
 茜は椅子から立ち上がると、ノックの音がした玄関扉に近づき、勢いよく扉を開けた。そこには……割とよく知った顔があった。あまりにも当たり前の様にいるものだから、最初は幻かと思ったが、彼らは間違いなく実体でそこに立っていた。
「……智也? なんでここに?」
 智也は、茜たちの滞在しているペンションの内部を無遠慮に隅々まで見渡すと、溜め息をついた。その顔には「心底残念だ」と書いてある。
「なんだ小娘と神父だけかよ? ……美千代さんがいるかと思って期待してたのに!」
 勝手な事ばかりを一方的に言う智也。その彼の後ろから、彼と同じく馴染みの顔である和也と明も姿を見せた。
「……災難だったね? 教会が燃えちゃった上に、神父は入院したんだって?」
「お久しぶりです、茜さん、神父さん!」
「……残念でした、美千代さんは仕事で海外だって〜! いい気味だよ!」
 茜は、智也に向かって舌を出してそう言った。なぜせっかくの仕事とはいえ旅行に、いつもの暑苦しい面々と顔を突き合わせなければならないのか? しかも、明日には神父が美人だと言っていた双子の姉妹から調査という目目で話を聴く予定がある。まさか、彼らは……。
 考え込んでいると、馴染みの“K”関係者の男三人衆は、茜にも神父にも一言も「入っていいか?」と訊く事なく、当然のように二人の滞在中のペンションに入って来た。元が小さなペンションがますます狭くなる。……神父と二人きりの時は瀟洒ながらも広々と感じていたのに。更に、また太ったらしい和也が、一人で二人分ほどの座るスペースを占領している。
「で、なんで智也たちがここにいるワケ?」
「美千代さんが、俺らにも連絡入れたんだよ。お前じゃ、力不足だと思ったんじゃね?」
 智也はそれまでベッドに入っていた神父を叩き起こし、コーヒを淹れさせた。彼曰く「小娘の淹れたヤツは不味くて飲めない」との事。……それなら飲まなければいいのに、わざわざ老人の安眠妨害をするあたり、相変わらずふてぶてしい。
「……そんなだから、美千代さんに嫌われるんじゃないの?」
「なにっ?……美千代さんがそう言ったのか?」
 茜の単純な挑発に、あっさりのってきた智也は、茜が予測した通り美千代に気があるらしい。男女の恋愛事には疎い茜でもその事は簡単に見抜けた。
「さぁ? ……でも智也みたいな男はやだって言ってたよ」
「それって、俺には見込みがねぇって事じゃねぇか! 俺のどこがダメなんだよ……美千代さぁ〜ん!」
 智也のオーバーリアクションは見ていて飽きない。しかし、彼らかて『探偵』。何の目的もなく、ただ茜をからかいに来た、わけではないだろう。それまで、黙ってスナック菓子を食べていた和也が口を開いた。
「……世間話はそのくらいで。……『事件』の話をしよう?」
 そこで神父と明が事件の資料を木製のダイニングテーブルの上に広げた。そのほとんどは頭に叩き込んである事だが、新しい発見もあるかもしれない。和也が資料を読み上げる。
「まず、殺されたのは、大手製薬グループ『南田グループ』総裁――南田利一。歳は七十歳。……『機関』の調べによると、かなり好色な老人だったらしい。特に、孫娘である敷島葵を溺愛していた。彼女と敷島昴の父親兼義理の息子――敷島昭雄を嫌っていたそうで、一人娘の結婚には大反対していたが、その彼女本人が強く望んだため、昭雄と結婚を許してしまった。利一の一人娘の名は敷島弥生、もちろん旧姓は南田。彼女以外の子供はなし。……これは『上の連中』の調べた事だから、まず間違いない」
「つまり一人娘である弥生さんは、駆け落ち同然に結婚したって事だね。……まぁこんな美人なら大抵の男は振り返るね。納得」
 茜が資料の中の被害者の一人娘――今は敷島弥生の写真を見ながら、そう相槌を打つ。彼女は双子の美人姉妹の母親というだけあって、相当な美人だ。その面影は、どちらかといえば、資料に添えられた写真の中の敷島葵に受け継がれたようだ。
「……その娘も二十八歳で病死。南田利一は、自分の遺産を義理の息子にはびた一文も与えず、双子の孫たちのみに遺すつもりだったらしいな。『上の連中』の資料の、ああ、ここに書いてある。『弁護士高尾と遺産相続についての相談が数度あり』ってな」
 智也はわざわざ寝ているところを起こしてまで淹れさせた、神父のコーヒーを美味そうに飲みながら、そう続けた。……やはり茜の淹れたモノとは段違いの味らしい。更に続けて言う。
「『南田グループ』といえば知らない者の方が少ない、超大手だ。きっとその遺産は膨大な額に上るんだろうな。……ちなみにその遺産は双子の孫娘の片方だけ、敷島葵だけに渡すつもりだったらしい」
「……えっ? なにそれ、僕はそんな事は聞いてないよ!?」
 智也の言った言葉の最後の一言で、茜が驚いた。彼女はそんな事など全く知らない、初耳だった。このペンションに来る前に、渡された『上の連中』の調べた資料にも、『遺産を遺すのは敷島葵のみ』という類の記述はなかったはずだ。
「そりゃそうだろ。……俺たちが昭雄に直接訊いたんだから」
 残り少ないコーヒーを名残惜しそうに飲みながら、智也はあっさりと言ってのけた。つまり彼は既に昭雄とコンタクトを取ったらしい。茜の口から思わず言い訳の言葉が漏れる。
「僕は、昨日ここに来たばかりで……」
「関係ねぇな。第一級の探偵は、誘いなんてなくても、事前の調査をしておくもんなんだよ、小娘!」
 そう言うと、智也は茜の額に軽くデコピンをした。……至極真っ当な事でも、彼が言うとその正当性が失われる……ような気がする。しかし、言っている事は尤もだと思った。最後の一言は、先ほどから買われた仕返しなのだろう。更に今の言葉の中である事実に気づく。
「『誘いなんてなくても』って、……智也達も誘われたの?」
「ああ、もちろん。明日……いや、もう今日か? ワインコレクションが楽しみだなぁ〜!」
 彼ら“K"の男三人衆がここに来た目的は、茜を煽る事だったのだろう。彼女の反応に満足したのか、智也たちは一時間ほど話しただけで、自分たちの滞在するペンションに戻ると言い出した。
「じゃ、俺らは明日に備えて寝るからな〜? お前もせいぜいその空っぽの頭で色々考えてみるんだな!」
 智也は最後に更に煽るようにそう言って、このペンションから出て行った。残された茜は、所詮は“Q"でしかない自分と、KINGこと“K"である智也との格の違いというモノを、これでもかというほど思い知らされた。悔しさに、思わず唇を噛む。
 神父はコーヒーを入れてすぐに二度寝したが、茜は悔しさでなかなか眠れなかった。噛んだ唇からは血が滲んだ。なんだかんだ言いつつ、智也は少なくとも自分よりは格上の『探偵』だと認めざるを得なかった。


 翌朝、早くに目覚めた茜は、脳を覚醒させるために砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲んでいた。そして、資料にもう一度目を通す。特にこれといって引っかかる点はない。今日は大晦日で、明日は来年だ。出来れば年内――今日この日のうちに、この『事件』は解決してしまいたい。
「……茜? もう、起きていたのか? お前にしては珍しい……」
 寝ぼけ眼の神父が、茜のいるリビングダイニングに降りてきた。二階にある二つの部屋は、茜と神父がそれぞれ眠るための寝室として使っている。リビングダイニングの中心にある木製のダイニングテーブルの上には、昨日のうちに準備しておいた、今朝の食事が並んでいる。
「起きてるよ」
 すっかり冷めたトーストを齧りながら、茜は答えた。既に朝の習慣は一通り済ませてある。それをを食べ終えると、同じく冷めきったコーヒーで、パンを流しむ。
「今日は、智也になんか負けないぞ!」
 朝のニュース番組をテレビで流しながら茜は宣言した。昨日の屈辱はそう簡単には忘れられそうもない。今の茜にあるのは、ただ漠然とした『見返してやる』という感情のみ。神父は「張り合うものではない」と宥めてきたが、素直にそれに従うような、素直な年頃でもない。彼女はまず遅れを取り戻すことに決めた。木製のダイニングテーブルに、今度は朝食ではなく、この周辺の見取り図を広げる。
「……山の近くの方にあるのが母屋で、僕たちが泊まっているのがここだね。このペンションの持ち主である被害者が殺されたのは母屋。夜は招待されてるから堂々と行けるけど……今は、図々しいよね、どうしようか?」
 彼女は見取り図の『三号棟』と書いてある場所に指を置いた。その『三号棟』というのが、今現在茜と神父がいる場所。そこから母屋を含む他の二つのペンションが、小さな山を囲むようにやや三角形のような形で、存在する。
「仕方がないだろう? ……そもそも、招待されたのも偶然だったのだし」
「それさぁ、……本当に偶然かな? 智也たちも『誘い』って言ってたし、アイツらも自分から姉妹に接触したわけじゃない。……ここに来た人全員を誘ってるんじゃないの?」
「それは……まぁ、言われてみれば。そんな気がしないでもないが。……しかし、人間の善意を疑ってはお終いではないか?」,br>  神父は『牧師』らしく、性善説を主張する。確かに彼ならば立場上そう言わざるを得ないだろう。人々の善意で生活が成り立つ職業なのだから。
 しかし、茜は違う。彼女は『探偵』なのだ。人の善意を信じるのが仕事な『牧師』である神父とは、ほぼ真逆の職業。そして本日二度目の資料確認をしてみる。……ある『可能性』に思い至ったのだ。
「……『南田利一は正面から刺殺された』とある。人間には『生存本能』というモノがある。殺されると解っていて、黙って殺される人間はいない。……普通は正面から刺されそうになったら、逃げるか反撃か、とにかく『反応』するはずなんだ!」
「……なにが言いたいんだ?」
 性善説を主張する彼の表情が曇る。その顔には「まさか」と書いてある。茜は頷く。……きっと今度は同じ考えのはずだ。
「……被害者に可愛がられていたという、双子の美人姉妹――孫娘たちは怪しい!」
 反論したかったが、前の事件の事を思い出した。神父がひたすら茜から庇い続けた少女が犯人で、彼女は同じ犯行を繰り返すとまで宣言していた。……何とも言い難い、実に後味の悪かった前回の事件の時のように、また茜と揉めるのは嫌だったので、彼は何も言わなかった。
「ちょっと、外に出てくるよ」
 神父が敢えてなにも言わない理由を察してか、茜はこの周辺の様子を見てくると言って、外に出て行った。周辺の調査はごく簡単に済ませた。
 外観から見た母屋の特徴は大体理解した。窓は全部で四つ。二階に一つと一階に三つ。一番大きな窓はリビングダイニングにあった。あとは各部屋に一つづつ。二階の部屋とリビングダイニングの窓は嵌め殺しになっており、開閉が出来ない。薪ストーブの使用ためか、中くらいのサイズの煙突が屋根から出ている。
 今は駐車場から車が消えているので、写真でしかその顔を拝んだことがない、例の美人な双子姉妹は外出中らしい。今夜の食事の買い物だろうか?
 そこまで母屋の外観の調査を終えると、辺り一面は真っ暗になっていた。東北の冬の夜は、こんなにも早い。彼女は大人しく『三号棟』ペンションに戻った。熱い風呂に入り身体を温める。この時期はつい長風呂をしてしまう。これはきっと自分だけではないだろう、と思う。その後、軽い食事をして夜のニュース番組を観ていたら、ちょうど頃合いだ。『三号棟』内の掛け時計は、十八時を示していた。
「じゃあ、行こうか」
 茜はいつもの格好――今は冬なのでオフホワイトのセーターの下に青と白のチェック柄のシャツを着こんで、下は冬用のジーンズ。その恰好は、髪さえ長ければ女子に見えるだろうが、髪型がショートカットなので少年にしか見えない。せっかくのお呼ばれなのに、普段着とは。
 そう神父は思ったのだが、茜本人が『女子らしい格好』に強い拒否反応を示すので、強制など出来るわけがなかった。
 母屋に着くと、葵が二人を出迎えた。彼女は濃い紫の着物を着ていた。無地のシンプルなものだが、それがかえって控えめに見える葵の容姿の良さを際立たせている。
「……もう一組の方々は、まだ起こしではないのですよ」
 あのルーズな智也の事だ、どうせ無駄にお洒落でもして時間を食っているのだろう、とそれなりに付き合いの長い茜には容易く想像できた。彼は女性に騒がれていなければ気が済まない性分なのだ。それ自体はそれほど悪い事だとは思わないが、周囲を巻き込むのが彼の悪いところだった。一言で言えば『自己中心的』、今風の言葉で言えば『俺様』。それが安藤智也という男だ。
 しばらくそんな事を考えていると、良い事を思いついたとでも言いたげに、葵がこちらを見つめてきた。……嫌な予感がする。そして大抵の場合において、茜のこの手の『嫌な予感』は的中する。この時もやはりそうだった。
「折角ですし、お着物でも着ませんか? 絶対にお似合いになると思うんですよ!?」
「いや、僕は……」
 一応、今着ている服だってこだわりがあって着ているのだ。しかしそれを主張するのは、この場合はあまり良い手だとは思えない。……なにしろ、彼女が疑ってる双子の美人姉妹の片割れなのだから。
都合の悪い事に、神父は葵の言葉に感激した様子だ。彼は茜のこだわりの理由をよく知っている。しかし、時には彼の愛情は暴走する。彼は彼女のテンションに同調して言った。
「是非着せてやってください! この娘は女の子としての感覚に疎いんです!」
「それはなんてもったいない! お肌も艶々で綺麗だし、顔立ちも可愛らしいのに、なぜそのような格好をしているのです?」
「……それは……」
 茜には彼女なりの『事情』というか『理由』はちゃんとある。でも、犯人かもしれないと疑っている者を相手に、それを主張するのは無駄でしかない。それ以上何も言えずに固まっていると、無理やり母屋の広いリビングダイニングの隣の部屋に連れ込まれてしまった。
少なくとも、茜が『探偵』であるとはバレていないので、下手に抵抗しなければ無害だろう。そう思ってじっとしているうちに、濃紺の着物の着つけが終わっていた。更に濃い黒で松の柄が描かれている。
「この際ですし、お化粧もしましょう! じっとしていてくださいね?」
 すっかり茜は着せ替え人形扱いだ。肌が綺麗だからと言って、葵はファンデーションは塗らず、軽く眉を整え、チークを入れた。まつ毛はあまりにも短かったため、マスカラは断念して、その代わりに唇に鮮やかな赤い口紅を塗られる。……こうして茜は、本人の意思を無視して着替えさせられた。鏡を見てみるが、自分の変わりようには驚く。たかが口紅だけでこれほど印象が変わるとは……。
 そして、広いリビングダイニングに戻ると、やっと智也たちが来ていた。彼らは茜の変わり果てた姿を見て、一瞬だけ、「誰だ?」という顔をしたが、すぐにピンと来たらしい。
「馬子にも衣装ってこの事だな! 意外と似合うじゃねぇか?」
「綺麗ですよ、茜さん!」
 智也と明は褒めているつもりらしいが、『事情』のある茜本人としては複雑だ。和也だけは興味がないらしく、いつものスナック菓子を、いつものように口元に運ぶのに忙しそうだ。『事情』を知る神父にも、言われてしまった。満足そうな顔で。
「……普段からそうしていればいいのに」
「……」
 結局、幼い頃から一緒でも神父は他人でしかないのだろうか。そんな複雑な心境のまま、母屋の広いリビングダイニングに関係者たちがそろっていくのを黙って見ていた。神父、智也、和也。、明、昴、そして葵。そこに茜自身を入れた、計七人が今年の年越しを共に過ごす者たちだ。昴か葵が犯人だと疑っている茜は、一切気を抜かないよう、気合を入れるために自分の頬を軽く叩いた。
 招待した者たち全員がそろうと、葵はさっそく、ワインセラーから白ワインを三本持ってきた。三本とも銘柄が違う、という事は解るのだが、そこから先の違いが未成年の茜には理解できない。そして、彼女はオープナーを使って栓を開けると、ワイングラスに注いで回る。智也が何やら薀蓄を披露し、葵が相槌を打つ。茜と明はワインの代わりに濃縮還元のオレンジジュースだ。
「……あれ? 君って未成年じゃないよね? なんでワインじゃないの?」
「僕が酔ったら、一体誰が智也を止めるんですか? 神父さんも飲んでるし、茜さんは女の子だし……」
 ああ、そんな理由かと、思わず納得した。明は智也とは幼馴染だと彼本人から聞いた事を思い出す。
「君も案外、苦労人なのかもね」
 他の面々は、見るからに高級品――だと茜には見える――各種白ワインに舌鼓を打っている。
「っつ、はー! 初めて飲んだぜ、こんな美味いヴォジョレー!」
 智也は、まるでソムリエがするように、一口目は吐き捨てた。『教会』という名の『棲みか』はただいま建設中で、美千代の高級マンションに厄介になっている茜には、彼のその動作の意味が全く理解不能だ。まぁ、あの時大西に爆破される前からも『教会』はボロボロで、自分たちは貧乏だった事は変わりないのだけれど。
 和也も、スナック菓子を食べ事を忘れて、智也とは別の銘柄の白ワインを飲んでいる。彼は酒が効かない体質なのか、智也のように目に見えた反応は示さず、ただ淡々と飲んでいる。
 神父は……、と茜が彼の方を見た時には、すでに彼は変わり果てていた。その姿は日頃の『牧師』としての威厳は全くない。つまり彼は……酒乱なのだ。
「茜ぇ〜! 来年こそはちゃんとスカートを履きなさい〜! 『事情』は解るが、私はお前の女の子らしい格好が見たいんだよぉ〜!」
 それぞれの反応に、葵は茜と明に向かって微笑んでみせた。そこには何の他意も感じられず、思わず犯人ではないのかという判断を下しそうになる。
「お気に召していただけたようでなによりです! おつまみも用意したんですよ、どうぞお召し上がりくださいね!」
 『三号棟』のものとは素材が違う木製の大きなダイニングテーブルの上には、所狭しと小皿が並べられている。乾杯を済ませた一同は、ワインを楽しみながら、それもつまむ。その酒に酔った者独特のテンションが無性に羨ましくなって、気づいたら呟いていた。
「僕も飲んでみたいな……」
  それを、慌てて明が止める。
「ダメです。あなたは未成年です。それに智也たちと同じくらい酔ってしまえば事件の事を何も訊けませよ?」
「……それはそうだって、解って言ってるんだよ? ……ワインが飲めないのは仕方がないとしても、なんで僕まで着物を着なきゃいけないのさ?」
「確かに、その疑問はご尤もです。でも、似合ってるんですよ? なぜそんなに不満そうなんですか?」
 明の疑問は彼女の『事情』を知らないのだから尤もなものだ。しっくりきすぎて違和感はないが、茜はいつもパンツルックだ。最初に会った時には男かと思ったくらいだ。そう明が話すと、茜は不用意に呟いた事を後悔した。とんだ藪蛇だ。
 何時しか二人で話しているうちに、智也と和也の“K”コンビは双子から証言を訊き出しているところだった。なぜ少女らしい格好をしないのかと訊いてくる明を適当にあしらって、茜も二人の『探偵』と『その補佐』に混ざって話を聴き始めた。
「お爺様を発見したのは、姉さんなんです。ねぇ、姉さん?」
 昴は、初めて戸惑った表情を見せた。……初めてとはいっても、今が初対面なのだから初めてといい始めたら止まらなくなるが。彼女は語る。
「……それが、よく覚えていないのよね。……死体を見つけたと思ったら後ろから殴られたみたいで、気を失ってたわ。また目が覚めたら、爺さんの死体の傍で倒れていたの。おかしなことに服がなくなっていて、下着姿で」
「遺体を発見した後に殴られ、気づいたら下着姿でその遺体の傍に倒れていた。……間違いないですか?」
「……このシンプルな内容のどこに間違える要素があるのよ?」
 昴は呆れたとでも言いたげに、茜を見た。どうやら智也たちは自分が『探偵』であると名乗ってから話を聴きだしていたらしい。茜はそのカード――『探偵』であるという事を隠しておくことにした。
 智也は動作が緩慢になってきた。そうやら酒に酔ったらしい。彼はひたすら目元を眠たそうに擦っている。
「……あれ? 俺ってこんなに弱かったっけ?」
 和也は知らないが、智也はかなり酒に強い。こんなに早くから眠るわけがない。……どうやら『事件』の決着の時は近いらしい。茜はちらりと壁の掛け時計を見やる。毎年の年越しの際に観ているテレビ番組を見ていないためか、時間の経過速度は思っていたより早かったらしく、針は十一時半を指している。眠そうにしているのは、神父、智也、和也、昴の四人。そして起きているのは、茜、明、そして……敷島葵。
 犯人は……確定だ。茜は静かにその名を告げた。
「……葵さん、あなたがお爺さん――南田利一さんを殺したんですね」
 葵は一瞬、何を言われたのか解らないという、戸惑いの反応を見せた。 薪ストーブは、パチパチと音を立てて燃えている。母屋のものは、『三号棟』とは大きさが違う。いつの間にか眠そうにしていた四人は、本当に寝入っているらしく、動いている気配がない。
「……いきなり何を仰るんですか? からかっているおつもりですか? 第一、私と茜さんは先ほど出会ったばかりで、私の事など――」
「『何も知らないでしょう?』、と続けるつもりですよね? すみません葵さん、僕はそこで眠っているバカ面した男の同業者です。……こう言えばお解りいただけますか?」
「……『探偵』、なんですか? 茜さんは?」
「はい。いかにも僕は『探偵』です。智也と和也の所属は通称“K”ですが、僕の所属は“Q”、ただそれだけが違う。……あなた方一族の関係や、『事件』時の状況は全て『上の連中』が調べた資料で把握済みです。その上で、あなたが犯人だと言っているんですよ」
 犯人――敷島葵は、これまでのものとは違う、ぞっとするような冷たい微笑みを浮かべた。途端に、明の背筋が冷えた、気がした。
「……そうですか。私が犯人、ではそうしてそう思われるのです? 詳しくお話ししていただけるんですよね? もちろん」
「いいでしょう。まず僕は初めから、犯人はあなたたち双子のどちらかか、もしくは二人そろっての共犯だと考えていました。理由は簡単です。被害者――南田利一さんは、好色なご老人で、自身の一人娘である亡くなった弥生さんと、あなたたち二人の孫娘を可愛がっていた。この時点で彼の義理の息子であり、あなた方の父親である敷島昭雄さんは犯人から除外。もちろん死者に生者が殺せるわけがないので、弥生さんも除外。初めから関係者の中で彼を殺すことのできる人物の条件は、『被害者に愛されていた者』に限定されます。……なにせ、死因は正面からの刺し傷が原因の出血多量なのですから、刃物を持って近づいても彼が逃げない人物はあなた方双子だけです!」
「……なるほど。確かに言われてみればそうですね。あまりにも当たり前すぎて忘れていました。それで、なぜ姉さんではなく私が犯人だと断定するんですか? 証拠はあるんですよね?」
 茜は首を左右に振った。それは証拠がないという証。明は焦る。
「ちょっと、茜さん! 証拠もないのに、ただお姉さんが先に寝ちゃったからって――」
「そう、それが逆に証拠なんですよ。あなたが犯人でないのならば、なぜお姉さんにまで、薬――睡眠薬を盛ったんですか? 無罪ならば堂々としていればいいだけじゃないですか。それに『物体である』証拠は燃やしてしまったんでしょうね。金髪のかつらと盗まれたという服は」
 茜の指摘に、しまったという顔をする葵、ホッと胸を撫で下ろす明。しかし彼には今回の『事件』の真相が読めていない。……失策に「もういい」と開き直ったのか、葵は今度はとぼけてみせた。
「さあ、何のことでしょう?」
「……大方『事件』の日の流れはこんな感じでしょう。まず、あなたは予め用意しておいた金髪のかつらをかぶり、同じく用意していたお姉さんの服を着て、あたかも自分が『敷島昴』だという風になりきって、被害者がいつものように部屋に戻るのを待っていた。戻って来た被害者――利一さんは、可愛がっている孫娘――『敷島昴』に、多分ですが、抱きつこうとしたのではないですか? 何しろ好色な事で有名でしたし。まぁ、そんな些細な事は置いておいて。近づいてくるお爺さんを隠し持っていた刃物で刺した。当然可愛がっている孫娘相手に警戒などしません。殺害自体は楽でした。しかし、そこへ予定よりも早く、後始末をする前に、被害者の名を騙って呼び出しておいた本物のお姉さんが現場に来てしまった。だから、血の付着した服を脱ぎ、彼女から服を奪い取って着替えた。だから彼女は目覚めた時に下着しかなかったたんです! あなたの本当の計画は、ただお爺さんを殺すだけではなく『敷島昴が祖父を殺した』という事実が欲しかった。……違いますか?」
 葵は困ったように笑った。その顔は「そう、その通りなの」と言っている。明には理解できない、……なぜ可愛がってくれた相手を簡単に殺す事など出来るのだろう? 茜はついでだとばかりに、更に続けた。
「……動機は大方、お金の事でお姉さんと揉めたとか、遺産を独り占めしたかったとか、その辺ですか? 被害者――南田利一さんは、あなたを特に可愛がっていたそうですね?」
「……憎かったのよ、姉さんが。家事も家の事も何一つしないくせに、遺産だけは手に入れる姉さんが。お爺ちゃんも憎かった。……あんな姉にも遺産を遺そうとする事がね」
「だから殺したと」
 茜は納得したように首を次上下させた。そして、いきなり明の身体を突き飛ばした。何事かと思っていると、なんと葵が包丁を手にしていた。彼女は元からこのつもり――『事件』の真相を知った者は全員殺すつもり、だったのだろう。茜は明の前に飛び出すと、黒い細い棒――スタンガンと思しき物を彼女の身体に押し当てた。短い呻き声がして、葵はその場に倒れこんだ。
「……危なかったね、明」
 女物の着物姿それにうっすらとだが化粧を施した、いつもよりか若干少女らしく笑った茜が、そう言った。彼女は刃物を持った相手にでも全く恐れていない様子だ。……自分より年下の少女である彼女が、これほどまでに頼もしかったのだと明は素直に驚いた。
 智也はやっと目を覚ました。しばらく意識は覚醒しなかったが、ゆっくりと頭がクリアになっていくの彼はを感じた。いつものマンションではなくどこかの……ああ、思い出した。ここは東北のペンションの母屋だ。
「こむ……茜が解決したのか?」
 小娘と言いかけて途中で訂正した。自分がドジを踏んだという事が解ったからだ。彼女のすぐ傍に立っていた明が、しゃがんで倒れた身体を引っ張り上げてくれた。幼馴染独特の安心感のある声で彼は訊いてきた。
「大丈夫?智也」
「そういえばお前らはワイン飲んでなかっけたな……今回は流石の俺も油断した」
 異変を感じたのはワイングラス一杯分を飲んだ時。独特の風味を味わっていると、味に違和感を覚えた。なにかの薬物が混入されている事には気づいたが、珍しい銘柄のワインだったので、つい好奇心に負けて飲んでしまったのだ。
「まったく。自分で『第一級の探偵』なんて言っておいてこんな凡ミスするなんて。……僕がいた事に感謝してよね?」
 茜は勝利の笑みを湛えた顔でそう言った。……今回の智也の狙い通りに。
「……あぁ、そうだよなぁ、サンキュ!」
「うわっ! 智也が素直なんて変なの!」
 茜はオーバーに驚いてみせた。実は智也にも葵が犯人だと解っていた。彼女の姉の話を聴く前から。だって、敷島昴には動機になる要素が初めからどこにもなかった。ならば当然、犯人は妹の敷島葵で決まりだ。茜と明にはこの事は秘密。今その二人は茜の手にした黒い棒の話題で盛り上がっている。
「……それにしても茜さん、なんでそんな物を持ってるんですか?」
「僕専用に作ってもらった“Q”の支給品。美千代さんが一応持ってけって言うから。思ったよりも威力があったね!」
「……それはまた、すごいものをお持ちで。ところで神父さんと和也さん、それに敷島昴さんは大丈夫なんですか?」
「毒物の類の匂いはしない。多分放っておいて大丈夫だろうな。それにしても、俺も柄にもねぇなぁ。あれからどのくらい経ったんだ?」
 明の当然の心配に答えたのは智也だった。彼は昔から飲んでいる『薬』の影響で、睡眠薬を始めとしたほとんどの薬物は効かない。抗体ができてしまっているからだ。その彼が他の者よりも早く目覚めたという事は害のない証拠。
 柱時計の針が十一時五十五分を指している。茜は『事件』解決記念の、伸びをした。とんでもない年末年始だった。眠っている三人――神父、和也、敷島昴の顔を眺めているだけで、あっという間に五分が経った。柱時計内臓の電子音が鳴る。……新しい年の幕開けだ。
「あけましておめでとう!」
 三人の声が、上手い具合に重なった。
 今年もまた『事件』があるだろうし、茜たち『探偵』はその『事件』とは切っても切れない関係だ。探偵の主な収入源が『事件』なのだから。母屋の広いリビングダイニングの大きな窓から見えるのは、今の時刻では暗闇だけだ。その暗闇の色が、茜には少々恐れのようなモノを感じさせた。


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2015年 2月7日 莊野りず(加筆修正後更新)
2015年 9月14日 修正


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