【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治
ち:置
――最近きな臭くなってきた。
あの一件以来、烏とは更に『友情』は深まった。あの時付き合っていた『友達』のような、気楽な会話はしないのだが、彼女と一緒にいると、下手に以前から学んでいた自分よりも『常識』のない彼女の方が自分よりも賢いのかもしれないとも思えてきた。それに、烏は美鈴が踏み込んでほしくないことは訊かない。それが心地よかった。
凛々も二人のことを心配していたらしく、例の事件の後には『友達』二人の無事を心から喜んでくれた。
『殺されてたら、どうしていいのか解らなかった! 本当に、危なっかしいんだからふたりは!』
そう、表面上では怒りを露わにしていたが、それは敢えての『演技』だろうという事は簡単に察せた。烏でさえもそれは察していたようだ。二人そろって謝ると、無事でよかったと本気で涙を流してくれた。……美鈴は、ただ凛々が『大陸』の人間であるという事だけで差別意識を持っていた事を恥じた。世の中には『常識』では推し量れないモノもあるのだと、彼女の涙を見て思った。
――わたしは本当に大事な『友達』がふたりもいる。
今にして思えば、ただの偽りだと思う元『友達』は、美鈴がなぜ生き残れたのかと興味津々に尋ねてきたのだが、ここで烏の強さが伝播するのはあまり賢いやり方とは思えなかった。だから、言わなかった。
彼女たちは口々に不平不満を口にした。中でも強調するように『友達でしょ?』と言うのが癇に障った。自分を先に見捨てて逃げておいて、一体どの口で『友達』などと言うのか。その神経が『今の』美鈴には理解できない。……そんな『友達』など、いらない。
やっと元通りの平和な日々、『学問所』で出会ったふたりの『友達』――烏と鈴々と共に学ぶ日々は、何物にも代えがたい、宝のようだと素直に思えるようになった。もう美鈴の中に『菖蒲』の影はない。あの事件の後で、今度は『さんにん』で雑貨屋へ行き、それぞれの髪型に合う装飾品を買った。敢えて『アクセサリー』という言葉は使わない。……さんにんの中ではそれだけの重みのあるモノにしたかったから。
美鈴はふたりの勧めもあり、小ぶりの淡い桜をモチーフにしたヘアピンを、凛々は多い髪を纏めやすい紅梅をモチーフにしたバレッタを、烏はそのままでいいと言ったのだが、ふたりが『お守り代わりに』と強引に勧めたため、好物のリンゴをデフォルメしたペンダントを買った。
なぜかその時、烏は複雑な顔をしたのだが、その理由は他のふたりには当然わからない。
彼女はある『出来事』を思い返していた。『城』で、自分が『決着』をつけた『出来事』。……それはとてもではないが、ふたりには言えない。少なくとも『今』は。だがいつか、それに相応しい『刻』が来たら話そうと思っている。ふたりの『友達』は何も訊かないでくれた。こんな関係は『城』の友人関係を思い出させた。
学びの日々は三人にとっては楽しく、あっという間に過ぎていく。本人は知らないのだが、それは烏が『城』を出てから大体一年が過ぎた頃のことだった。彼女はこれまで機会のなかった学ぶ経験を思い切り活用した。
たったの一年で、美鈴ともほぼ同等の量の言葉を操れたし、他の学問の知識も、下手をすれば彼女よりも多くなったかもしれない。その美鈴はこれまでの自分の時間は何だったのだろうと少し悲しくなったのだが、要は『頭の出来が違う』というヤツだろうと勝手に結論付けた。……のちに彼女はそれが正しかったことを知ることになる。
そんな日々に突然の破局が訪れたのは、『城』から出てくる者が以前よりも少々増加傾向にあると松木様が告げてから数日後のことだった。
美鈴と烏がいつも通りに『学問所』の中へ入ると、先に来ていた凛々が手紙を読んでいたところだった。彼女がふたりよりも早く来るのはいつものことだが、その手紙を見る様子が普通ではなかった。どこかこの日が来ることを覚悟していたかのような諦念が見え隠れする、悲しい目をしていた。……もしかしたら泣いていたのかもしれない。美鈴はそう思って、何も言えないでいたのだが、こういう時には感情に鈍感な烏がいてくれて助かる。
「どうしたの?」
「あぁ、おはよう、二人とも。……実は、ちょっと困ったことになってね」
「……困ったこと?」
あの頼りになる凛々が困るような事などこれまで烏と美鈴が知る中では特に思い当たる節はない。彼女はしっかり者で、誰よりも『秀才』という言葉がぴたりと当てはまる少女だ。その彼女が、今は心底困っている。ただ事ではない、そう美鈴が思った時には、烏が彼女が手にしていた手紙を奪い取っていた。
「……なんて書いてあるのか解らない」
その烏らしい言葉に思わず笑いそうになるが、凛々が困っているのにそうするわけにはいかない。その彼女は自分から手紙を二人に手渡した。……烏の言う事は尤もだ。なにせ、日本語ではなく『大陸』の言葉らしき文章だったからだ。その中には見た事もない記号のような文字も交じっていた。
「最近、日本だけじゃなくて世界中がきな臭いって松木様も仰っていたっでしょ? それは残念なことに事実のようだわ。……これは私の親からの手が見なんだけど、向こうも危なくなっているらしいの」
「『大陸』が?」
そう反応したのは烏だった。外にいる、二羽のカラスが彼女の声に応えるように鳴いた。凛々はそちらを見た。何か考えがあるかのような目だ。
「そう。私はここで学びたいのだけど、そうもいかなくなったみたい。帰国しなさいって、強調して書いてあるのよ。だから私は帰るわ」
「そんな! せっかくここまで仲良くなれたのに!」
解っていても、納得はできない。美鈴もそれは知っているが、どうしても抗議の声を上げずにはいられなかった。そこに烏が言葉を挟む。
「『黙って行かせてやるのも『友情』。違う?』」
それはまるで誰かが言った言葉を反芻しているかのようだった。彼女――烏自身が言われたことでもあるのかと思わずにはいられない声の調子だった。
「……」
彼女が潔く見送ることにしているのに、自分だけダダをこねるなどみっともない。そう思ったから美鈴も黙り込んだ。その沈黙を破ったのは当事者である凛々だった。
「……ねぇ、烏。貴女には『能力』があるのよね?」
「え?」
いきなり何を言い出すのだろう。凛々の言葉の意図が全く読めないのだが、それは『事実』だった。美鈴との仲違いの際に、彼女が凛々に告げたという事は本人の口から既に聞いていた。烏の『能力』、それはカラスの鳴き声を『言語として』聴くことが出来るものだ。『城』にいた時から、物心ついた頃には既に自分だけにあると自覚があった、特別な『能力』。それについては『父親』が今際の際に話していた。……たしか、『大陸』の西が――。
「……まさか!?」
凛々も『大陸』の出身者だ。ならば、この『能力』の秘密、『父親』が自分に言い聞かせた言葉の意味も、そこに行けば判明するのかもしれない。彼女は頷くが、美鈴には何のことだか当然見当もつかない。
「ふたりとも何の話をしているの?」
「烏の『能力』についてよ。……私が幼い頃、母が話していた『伝説』の一族の話を思い出したの。その『一族』は、全ての動物の言っている事が理解できて、その動物たちと共に生きるのだって。残念ながら、その一族の名前は母も父も知らなかったのだけれど……」
凛々と美鈴が話し込むのを、烏はただ眺めていた。
『城』にいた頃には全く疑問を持たなかった。ただ漠然と、『能力』があるのだということ、その『事実』しか知らなかった。しかし『外』に出て、美鈴と鈴々という『友達』が出来て、様々な事を少しだが学んだ烏は、自分のことをほとんど知らない事に、どこか畏れを感じていた。『父親』が息を引き取る前に言った言葉、『力を持つ者は迫害される』という意味が、今になってやっと身に染みて実感した。烏は『能力』があるゆえに、この年齢まで『孤独』だったのかもしれない。
「……あたしも一緒に連れて行って欲しいの」
「……え? 『大陸』に?」
「どうして? 烏は日本人でしょ? 『大陸』の言葉なんて解らないでしょ? ……一体何のために?」
凛々と美鈴は予想通り揃って首を傾げた。先にいつもの調子に戻ったのは凛々で、頭の回転の速い彼女らしく、どうすればいいのかをすぐに考えをまとめた。彼女が出した結論は、なんと烏も連れて帰国することだった。
別れの日、美鈴は東京の灰色の水面を見つめていた。『大陸』に向かう船も、昔は『電気』を使った豪勢なものもあったらしいが、今ではそんなものはない。あるのは木を組んで作った、簡素で危なっかしい小さなもの。それでもまだ雨がしのげるから、と『大陸』に向かうふたりは口をそろえて言った。
烏はこれまで世話になったこと、迷惑をかけたことを美鈴の両親に深く詫びた。その態度は初めての食事の時とはまるで別人のように礼儀正しかった。
いつの間にか彼女に情がわいていたらしい美鈴の両親は引き留めようとしたのだが、一度言い出した烏は誰の言う事も聞かない、自分の意志を曲げる事は決してない。……それは『城』にいた時から変わらず彼女が持っている信念だ。今ではその言葉が自然と出てくる自分が、烏はおかしかった。
「それじゃあ、向こうに着いたら手紙を書くから」
こうして烏は、凛々と『城』での知り合いの姉弟の祖国である『大陸』を目指して大海に乗り出した。海の水の色が『青』だった事など、ふたりには全く考えもつかなかった。
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