【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治
ち:智
――これが『なつかしい』という感覚?
日本から船で一ヶ月がかかった、と鈴々は告げた。烏は初めて足を踏み入れる『大陸』の大地をそう感じた。これが『望郷の念』と呼ばれるものなのだろうか。しかし、彼女にとっての『故郷』はあくまでも『城』だし、明かな誤用だ。だが、その言葉しか今の烏にはしっくりくる言い回しが思いつかない。それだけ、この地が無性に『なつかし』かった。
「烏、ここから馬車が出るから。さ、こっちよ」
『大陸』には日本にはない場所というモノがあった。日本では駕籠屋に頼み、人力での移動が最も速いのだが、やはり『大陸』は広大なだけに、人力では限度というモノがあるようだ。『馬車』を待つ間、烏は凛々に彼女の両親について尋ねた。美鈴の時のような失態はご免だから。
「私の両親は……あまり私が熱心に勉強するのはあまりいい顔はしないの。女は男に従って、家事だけやっていればいいって……これはなんだか解るでしょ?」
烏は黙って頷いた。まるで松木が話していた『大』がつく昔の話ではないか。これだけ聡明な凛々の『両親』がそんな古い思想の持ち主だとは思わなかった。だが、お世話になる以上は礼儀を欠く真似など出来ない。……烏は無意識のうちにそのような『作法』というモノが身についていた。『城』にいたままでは決して身につかなかったもの。
港から数時間馬車に揺られる間は互いに書き写したノートを読み、無言だった。しかし、ここは『大陸』、つまりは日本ではない場所だ。
「……凛々、ここって日本の言葉は通じるの?」
無言だった烏が突然言い出した事を今更思い出した凛々は、途端に落ち着かなくなった。
「あっ、しまったわ! ……『大陸』は多種多様な民族が棲んでるから、何語とははっきり言えないんだけど……私が使っているのは主に『中国語』ね。あ、烏なら『英語』で話せばいいわよ! 結構いるのよ、肌の色が白すぎる人も」
英語が通じると聞いて、とりあえず安心した。凛々がこういう言い方をするという事は、彼女の両親も英語も喋るのだろう。流石は『大陸』と呼ばれるだけのことはある。船から見えた一部も、東京という日本の一部とは大違いだ。
やがて馬車は深い森に入ったようだ。耳を澄ませてみれば茂みの揺れる音が聞こえる。馬車には窓がなく、初めて感じるからだの揺れる感覚が、烏をらしくもなく少々不安にさせていた。常に大地に足を下ろして生きてきた彼女だからこそのモノだ。
言語についての短い話を終えた凛々は再びノートに目を通していたのだが、急に左手首に目をやった。どう見ても古びた赤銅色のベルトの腕時計がそこにはあり、彼女は大体どのくらい時間がかかるのかを知っていたようだ。
「もうすぐ私の地元よ。とりあえず食料が手に入る市場はあるし、危害を加えるような人間もいない。……東京よりは治安がいい所よ、狭いけどね」
「動物はいるの?」
この質問の意図を凛々は敏感に察した。
「……乱獲されていなければ、ね」
烏はそこでホッと一息。カラスがいないのではないかと心配になったのだ。凛々という『人間の友達』はもちろん大事だし、大切だ。カラスという鳥も、それと同じく、いや本能的に頼りにしている『生きる上での友達』だった。彼らと共にこの年齢まで成長できたのだし。
馬車を降りてしばらく歩くと、東京とはまるで違う住居が数えられる程度の数、集中している。途中では確かに小さいながらも市場があり、危険な人間もいなかった。治安のよさ、という点で言うのならば、ここは遥かに優れた場所だった。不便ではあるのだが、だからこそ最近では鈍ってきた『生存本能』というモノが烏の中で久しぶりに顔を出した。
「ここが私の家よ。……これでも頑張って作ったらしいのよ」
凛々がそう言って指差したのは、『学問所』で習った『竪穴式住居』というものだった。本人の弁通り、こじんまりとしていて、五人は入れればいい方だろう。
「……本当に、お世話になってもいいの?」
「もちろんよ!」
遠慮がちになる烏に対して、凛々は即答。そして彼女の両親は『異人』である烏を連れてきた娘には大いに戸惑ってみせたものの、「娘が世話になって」というニュアンスのことを英語で言った。そして、「遠慮しないでね?」とも。
「それでは遠慮なく伺いますが、『伝説』と言われる一族のお話を詳しく聴きたいのです」
烏は知る限り丁寧な言い回しの英語でそう言った。初対面で、いきなりその事を訊かれると、先に手紙で知っていたとはいえ凛々の母親は驚いた。経緯を知っていたので、彼女の返答は早かった。
「ごめんなさいね。あたしたちも、そこまで詳しくは知らないの。ただ、『存在』だけしか……」
心底申し訳なさそうに詫びる彼女には、申し訳なくなった。この感覚も『城』では身につかなかったものだ。本人はそれにやっと気づき始めたところだった。落ち込む烏を励ますように、凛々の母は微笑んだ。
「あたしを『母親』だと思って、いくらでも甘えていいのよ? 素敵なお嫁さんになれるように、料理も裁縫も教えるわ!」
ここで凛々はわざとらしくため息をついた。彼女が先に言っていたのはこの事だったのだと実感した。学んで損になるわけでもないので、ここで烏はその辺を詳しく知ろうと決めた。……『母親』というモノは、美鈴の場合も含めて、このように子に接するのが『普通』なのだろうか?
それから、烏が『大陸』に渡って、三年の月日が過ぎた。
『幼い』という形容詞がつくような彼女の容姿は、丸みを帯びた『少女』のモノへと変わっていた。凛々と共に学ぶ日々、彼女の母に女性の常識を学ぶ日々は、あっという間に流れた。烏は相変わらず、時間の経過を知らせるものを所持していなかったし、その正確な時間も解らなかった。凛々が持つ腕時計だけが彼女たちの生活の指針だった。
「それでは、米だけでいいんですか?」
少しだが、烏くらいの年頃では成長は顕著だ。相変わらずの鈴のような声で、彼女は凛々の母に『日課』の買い物を頼まれた。
三年という月日の間で、烏は『習うより慣れろ』の要領で『大陸』で沢山のことを学んでいた。言語を数種類、独特の学問、文化、風習……学びたいと思う事は尽きる事なく烏を誘惑してくる。夢中になって学んでいる時だけは、温厚な凛々の母も容赦はなかった。
――本当に、この国は平和だわ。
故国である日本の事を忘れるわけがなく、美鈴とは凛々と共に文通で連絡を取り合っている。『日本はきな臭い』としか美鈴は書いてよこさなかったのだが、繰り返し、毎回そう書くので、相当彼女もこわい目に遭っているのだろうと凛々と共に心配になる。……それに比べれば、ここはなんて平和で『のどか』すぎるくらいだ。
いつもの店で米を量り売りしてもらう時、烏は懐かしい感覚を思い出した。市場は森の中にあり、カラスによる被害が急になくなったという噂が流れたが、その真偽は烏本人がよく知っていた。
そのカラスが、語り掛けてくる。最近は彼らとも挨拶程度の世間話しかしていない。そのカラスたちの言っている事が、初めてよく解らなかった。ただ、『忠告』しているのだという事だけは、『能力』で察したのだけれど。
「っ!」
米と引き換えに硬貨を出す時に、急にその手首を誰かに捕まれていた。
――しまった!
あまりにも『平和』に慣れていたため、反応が大幅に遅れた。『城』であれば、今この瞬間には自分は死んでいるところだった。だがここは『城』ではないし、相手の力もそれほど強くはない。……敵意のない証拠だ。
「あっ、これは失礼! ……そのカラスの群れを見て、『もしや』と思ったんだ」
「……まさか、あんたは……?」
相手の男――どこか鷹に似ている顔立ちだが、もちろん本人ではない。ただ『似ている』、それだけの『赤の他人』。彼は烏が求める『答え』を言った。
「……カラスが警告している声が聞こえているのなら、君は私と同じ『生類纏』だ」
「あんたにも聞こえているの? この子たちの声が?」
彼は微笑んで頷いた。
「……『生類纏』は森と共に生きる種族。戦う種族。私は最後の『純粋』な一族のただ一人の生き残りだ。君は異国へ逃げた『生類纏』の系譜だと見える。ほら、この猫の鳴き声は聴こえるかい?」
烏は黙って首を左右に振る。男は笑みを深めた。
「君が望むのならば、君のルーツを少しは教えられる。……すべてを捨てる覚悟はあるかい?」
烏は流石に迷ったが、彼女らしいことに、数秒で『決めた』。
「あるわ」
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