【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治

ち:稚

「……」

「どうして?」


 黙り込む美鈴に対して、彼女にとっては容赦なしに烏の言葉が重なる。『どうして?』、それは美鈴自身も実のところ誰かに訊きたい事だった。……本当に自分の考えている通りの理由ならば、自分の中の『友達』という存在自体がおかしくなってしまう、『普通』ではなくなってしまう。
 そのことに対する恐怖心は容易に拭い去れるようなものではなかった。それは絶対に今の『日本』という国で生きる徹底した『イレギュラー』である烏と凛々には理解できない感覚だろう。凛々は察するくらいだ出来るだろうが、それが彼女の限界だ。

「……烏、そこまでにしなよ」

 美鈴が予想した通りに凛々は気持ちを、考えを察してくれた。『大陸』の人間にもこういう者がいたとは思わなかった。素直に口には出せないが、こういう時の凛々には感謝している。そうできないのは『学問所』という一見公平で平等な場所でも、少数派に対する偏見は絶対になくならないものだと本能で察知していたからだ。……しかし、『異人』である凛々には察せても、同じ『日本』の人間でも、『城』という異国同然の場所で育った烏には通用しなかった。
 つまるところ、彼女には『人の気持ちを察する』能力が絶対的に欠けていた。それはカラスと意思疎通が出来る『能力』があるゆえのことだったのかもしれない。

「どうして?」

 烏は再び問う。今までの学問への打ち込みようから、それは松木の言う『知的好奇心』という者の具体例かもしれない。……美鈴にしてみれば、今そんな事で悟りたくはなかった。最も他人に触れられたくない『秘密』。美鈴にとってそれは、『友達』に関する事だった。百年以上前の人間ならば、それを当然のようにこういうのだろう、『トラウマ』――『心的外傷』と。
 しかし、今は百年以上前の日本ではないし、そんな言葉などとうに廃れていた。昔は盛んにその手の病気が流行ったため、研究が盛んだったらしい。だが『大陸』との戦いの勃発により、そんなことに構うような様々な意味での余裕など、この小さな島国にはなかった。烏はきっと、この『日本』という国が海に囲まれている『島』だということまでは知らないだろう。
 困った美鈴に助け舟を出すように、烏の前では初めて難しい顔で凛々は言う。

「……黙っている事も『友情』だからよ」

 『友情』という言葉を聞いた途端に、烏の無邪気な表情が急激に『無』へと変わった。凛々はもちろん、美鈴ですらも、そんな『無表情』としか言えない表情をした彼女など、一度も見たことがなかった。
 二人が知る『烏』という名の少女は。好奇心が旺盛な、無邪気な笑顔が魅力的な少女ではなかったか。それも、見せかけだけだったのだろうか。

「……」

 「納得がいかない」と顔に書いてあるが、それきり烏は無表情のまま黙った。そう告げた凛々が一番わけがわからなかったのだが、実は一番『わけがわからなかった』のは烏の方だった。
 『城』での『友情』というのは、命を預けてもいい程に信頼できる者に対する情の事を指した。烏が一方的にだが、『友情』を感じていた相手はふたりいた。『行きつけの武器商人の姉』と『情報屋の少女』だ。ふたりとも、烏が『城』を後にする時には、カタチは違えども『友情』を感じさせてくれた。前者は自分を抱きしめて泣いてくれたし、後者は「黙っていかせるのも『友情』」だと前者を諭してくれた。おかげで後味の悪い結末を迎えた後でも、烏は己を見失うことなく、今いる場所、『外』へと出る『勇気』をもらった。……これが『友情』ではないのだろうか。

 凛々は烏から『城』がどのような場所かを大体聴いていた。だから、彼女なりの『友情論』というモノがあるのだろう、とは思っていた。だが、彼女ほどの秀才ですらも、本当の意味で『城』という場所を理解してはいなかった。そこまで深い話はしていなかったし、そのことよりも『城』という場所の特殊性が知りたかったので訊かなかった。烏も烏で、聞かれないという事は凛々にとってはどうでもいい事、興味のないことだと解釈し、全く話さなかった。……それが皮肉にも今現在、二人の間で溝を作っている。

 そしてその二人とは違い、ごく『普通』のこの現代の日本で育ち、暮らしている美鈴から見れば、二人とは到底解りあえないと感じた。所詮は『住む世界』とやらが違ったのだ。ただそれだけのことだ。
 寂しくなんかない、自分は大丈夫だ。……そう確信して、彼女は口を開く。その声は抑揚がなく、まるで何かを通したかのように、無機質に『友達』ふたりの耳に届く。

「……烏、うちにいてもいいけど、もう二度と『友達』としてわたしに関わらないで。声も一切かけないで」


「待って、美鈴!」
「烏! ……追わない方がいいよ」
「どうしてよ? わけがわからないわ!」
「いいから! これが一番いいんだよ、美鈴にとっては。……所詮、私たちはただの『異分子』だったんだよ」

 『異分子』――その言葉の意味は何度も辞書で読んだ。まだ買ってもらって一年も経ってはいないのに、表紙が痛みきっている。……そういえば、この辞書を買ってくれたのも、やはり美鈴の『父親』ではなかったか?

 ――こんな時どうすればいいの、『お父さん』?

 烏は心の中とはいえ、初めて『彼』をそう呼んだ。もうこの世にはいない、偉大な『父親』。寂しくはなかったが、ただ悲しかった。自分が決めたこととはいえ、『彼』を殺したのは他でもない自分自身。『悲しくなる』という事は予想が出来ても、そうせずにはいられなかった。あの時はこれを何と言うのかは解らなかったが、今では胸を張って答えられる。それが自分の『信念』だから、と。

「……美鈴」

 自分と鈴々以外の同じ学び舎に集う少女たちに彼女は声をかけていた。……なぜか烏には、それがとても虚しくてくだらないことにしか思えなくて、それ以上は何も言う気にはなれなかった。
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