【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治
ち:質
――なにがそんなに嬉しいのかしら?
美鈴は議論の時間に烏の様子を観察するのが癖になっていた。それだけ、初めて出会った時とは様子が変わった。あの月の夜は彼女の笑顔は純粋に『無邪気』だと感じたのだが、何やら美鈴には理解不能な考え事をしているようで、目が離せない。おかげで最近は、ありがたい松下様のお話も耳に入っらないし、学習できないのがちょっとした悩みだ。
烏は傍から見ても明らかに凛々と急激に距離を詰めていた。打ち解けて仲良くなっている。彼女たちは互いに互いの知らない話――『城』と『大陸』について質疑応答を繰り返している。その尽きる事のない盛り上がりは、『学問所』でやっている『議論』よりも遥かに激しく、楽しそうだ。……それが、美鈴には面白くなかった。
――なによ、わたしも混ぜてくれてもいいじゃない……。
言いようのない不安。それと同時に自覚のある、認めたくない醜い感情が彼女の中で渦巻いていた。『本当に』混ぜて欲しいのならば、どうすればいいのかなど考えるまでもない。ただ言えばいいだけだ、「わたしも混ぜて」と。しかし、無意識のうちにまた、ヘアピンに手をやっている自分に気づく。
――また、『あの時』みたいになったら、わたしはどうすればいいの?
『菖蒲』――「『あやめ』でも、『しょうぶ』でも、好きな方で呼んで?」。そう言っていた『友達』がいた。名前の由来は、『読み方によって印象が違うから面白いから』だと彼女は言っていた。その彼女は今はこの『学問所』にはいない。たまに出没する、美鈴自身も遭遇したような『危険人物』に殺されたのだ。
『城』出身の烏ならば何とも思わないだろうが、美鈴はその時には『複雑』な心地だった。……なぜそうなるのか、なんてことは思い出したくもない。未練がましくヘアピンに伸びる手が憎らしい。
烏と凛々はすっかり意気投合し、質疑応答を繰り返している。美鈴の両親が、渋々だが買ってくれた新品の辞書を片っ端から開き、読めない漢字を凛々に尋ね、なぜか『大陸』という外国出身なのに彼女は一度も間違いなく、正確にその読み方を指摘する。定義されている意味が間違った使われ方をした時には、まるで松木のように優しく諭した。
どう見ても、この『学問所』で最も『博識』なのは凛々だった。この『日本』という『異国』で、最も『日本語』という言語を自在に操る少女。それが凛々。……『城』出身で、『外』の一般『常識』から大きく外れた烏が彼女に教えを乞うのは当然だった。だが、彼女は例外の中の例外、別の言語で言えば、『マイノリティの中のマイノリティ』だった。
烏はこの事実には全く気づいていない。その事は本人以外の誰もが知っていた。されはもちろん、凛々も。
充実しているように見える烏が、ある意味では羨ましくもあり、ある意味では大変『憎らしく』もあった。美鈴のそんな心情は、凛々はおそらく察していたのだろう。だからこそ烏にも詳しく説明しようとしたのだが、彼女はただ首をかしげるばかりだった。
そんな、三人――美鈴、烏、凛々を『観察』している者がいたなんて、この時は三人とも思いもしなかった。
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