【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治

ち:恥

 ――あんな顔をして、何を考えているの?


 美鈴は松木に「蓮杖さん」と呼びかけられるまで、ただなんとなく烏の方ばかりを見ていた。いや、見つめていた。視線の先の彼女は、今まで見た事のない、真剣そのものの顔で何やら考え込んでいる。
「……蓮杖さん?」
「あっ、はい。なんでしょう?」
 彼はやれやれとでも言いたげに、目で手元の紙を示した。活版印刷で文字が細かく書かれている紙には、今教わっている『歴史』が載っている。
 現在では信じがたいことに、百年前以上のこの日本という国の人間は『自動車』という、何とかという物質を原料に動く乗り物で移動していた……らしい。いくら名門松木家に現存する資料を元にしたと言われるものでも、やはり思う事は一つ。

 ――百年以上も前の人間に、そんなモノなんか作れっこない。

 多分、ここにいる者もみんなそう思っている事だろう。その証拠にみんなが困惑顔で紙を見つめている。
「……その自動車ですが、本当に存在したと思いますか? 蓮杖さんはどう考えますか?」
 松下は『スーツ』というらしい服を着て、視力矯正のためだという『眼鏡』をかけた柔和な顔立ちをしている。他にもかけている者もいるし、『眼鏡』自体はそれほど珍しくもない。しかし『スーツ』とやらを着ているのは松下しか見たことがないので、何とも言えない。
「……ええっと、そもそもなぜ昔の人がそんなモノを作りたいとしたのかが疑問です。今だって、『駕籠屋』もあるし、あれに頼めば移動には十分じゃないでしょうか?」
 無意識のうちにヘアピンに手を伸ばしている自分に気づき、ハッとするも、誰もその仕草を不自然とは思わなかったらしい。みんな美鈴の意見に賛成のようで、同じような表情だ。……その事に内心安堵する。
 松下は「それもそうですね」と肯定し、自らもその疑問に対して考えをまとめ始めた。彼がうっとおしそうに適度に整えられた前髪を邪魔そうに弄るのは、考え事をする時の癖で、いつもの光景だ。本当は身なりになど気を配らなくてもいいのがこの『学問所』だが、彼は名門『松下』の人間だ。それなりの服装はしなければならないと考えているのは容易に想像が出来る。美鈴の視線の先にいた烏はそんな彼をなぜか仇敵のような目で見ている。
 

 その烏はというと、久しぶりに『城』にいた頃の表情で必死に頭を働かせていた。

 ――あたしは、あまりにも『物事』を知らなかったのね。

 凛々にすっかり騙されたことでそれを身に染みて思い知った。正直に言えば、自分は『城』の中では『賢い』と思っていた。『物知り』だと。実際に師匠も「お前は物知りだ」と頭を撫でてくれた。……しかしそれは、彼女の戦い方の特性上、ある意味では当たり前だった。
 自分でも正確な年齢を知らないが、『並より幼い』という自覚は十分にあった。その烏が『城』で生きていくため、そもそも生き残るためには、少なくとも『弱者』であってはならなかった。それゆえに彼女を保護した師匠は『人体上の急所』を狙う戦法を徹底してたたき込んだ。まだ幼かった、少女以前の年齢の頃だった。
 そんな幼少期を過ごしたため、その『急所』は烏が知る他に詳しい者はいないくらいだった。『城』とはそういう『無法地帯』で、『弱肉強食』の場所だった。だから、初めて『外』に出た時には大変な驚きだった。
 『外』の世界は見た事も聞いた事のないもので一杯で、それまで『城』で『殺し専門』として名を馳せてきた烏の『表情』というモノを取り戻すのに一役買った。それまで、少なくとも『蓮杖美鈴』と出会うまでは、烏は全く笑わない、無口な少女だった。今の彼女を『城』に住んでいた頃の知り合いが見たらどんな顔をするだろうか。……それほどまでに彼女は変わった。『成長した』ともいうのかもしれない。実はこわくてたまらなかった『外』がこれだけ希望に満ちた場所だったとは。

 ――やっぱり、あたしは『知らない』わ。

 『城』の生活は常に『死』と隣り合わせの危険な場所だった。しかし、『外』では逆にそんな事は滅多にないと言ってもよかった。烏は知らないし、今まで縁のなかった言葉だが、それは『平穏』というモノだった。そして彼女はこんな事も考える。
 ――そもそも『急所』って何なのかしら? 人間の『弱点』?,br>  

 その『弱点』の意味が知りたくてたまらなくなった烏は、休憩時間には凛々の傍へ寄った。彼女はちょうど何かの書き物を終えたところだった。
「あら、烏。どうしたの? そんな硬い顔しちゃって……」
「ねぇ凛々、『急所』ってどういう意味の言葉なの?」

 あっという間に烏のことを色んな意味で気に入ったらしい凛々だが、この時は少々忙しかった。終えたばかりの書き物は、実は故郷である『大陸』への手紙だった。今でも『郵便局』は存在する。『大陸』宛ての手紙は当然のように嫌がられるが、通常の料金よりも割高に支払う事でやっと届けてもらえている。
 そのような事情があったので、凛々は自分のボロボロになった辞書を差し出しながら烏に言った。

「辞書を貸すから、引いてみたら?」

 すると烏はそれを受け取ったものの、その場で固まってしまった。凛々は気になって「どうかしたの?」と訊いてみたのだが、なぜか彼女は気分を害したらしく、暗い表情だ。

 ――あたしは、自分が思っている以上に物を知らなかった……。

 落ち込むしかない、『辞書を引く』という事がどういう事なのか、皆目見当もつかない。一体どうすればいいのか? そもそも『辞書』とは何なのか? そんな、みんなが当然の様に知っている事すらも知らない自分が、恥ずかしくてたまらなかった。『知らない』という事は、こういうことなのかと落胆せずにはいられなかった。


 そんな烏の様子を、美鈴は心底不思議なモノを見る目で見つめていた。
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