【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治
ち:知
――これは、なんというのかしら?
『大陸』とは、文字通り日本以外の広大な面積を持つ国の事だ。だから、自分たち日本人とは肌の色も違えば、髪の色も違う。それだけでも十分に『異分子』であり、『厄介者』であり、無意識での『差別』の対象だった。日本人の国民性である『強調性』は未だに残っていたらしい。それは日本人という人種の遺伝子に刻まれたものゆえなのかは、流石の松木も解らなかった。
最近『学問所』に来た『烏』と名乗った素性不明の少女は、今確かに言った。それも自分の口から、躊躇う事なく。……『非常識』にも程がある。
しかし、当の彼女と松木が内心で嫌悪している凛々が握手をしているのは『善いこと』なのではないかと考えた。ふたりの『異分子』を徹底的に糾弾するいい機会ができた、そう思えば。
「……」
烏は、いつまで経っても手を繋いだまま離さない凛々を不審に思った。身長が高い彼女の表情を伺うためには、少々見上げなければならない。そうして見えたのは、『驚き』の感情だった。
「ねぇ、なぜ驚くの? そっちだって、手をつなぎたがってたじゃない?」
その一言で、凛々はやっと我に返ったようだ。それまで呆然としていた彼女は烏の小さな手を握り返す。
「痛いわ。……あなたって力があるのね。羨ましい!」
「……」
凛々は黙ったままだ。美鈴にはその理由が簡単に察せる。『異分子』という自覚が十分にある振る舞いを凛々はしていた。時にはわざと松木の知らないであろう『大陸』独特の話を持ち出したり、その『大陸』の言語で仲間に話しかけたりと、『迷惑』ばかりをかけてきた。
だから、まさかこれだけストレートな『好意』を向けられて、逆に戸惑っているのだ。その気持ちは烏と生活を共にする美鈴にはよく解る。とにかくこの『大陸』出身者以上に、同じ日本という国の者でも『城』という特殊な場所で育ったという烏は凛々以上に『非常識』な『異分子』だった。
「どうして黙っているの? それよりも、どこかで見た気がするわ、あなたのことを」
「……なんで私が『大陸』出身者なのにそんな態度を取るの?」
そこでやっと彼女は凛々が『大陸』の人間だと気づいたようだった。「あぁ」と烏はまじまじと凛々をじっと見る。そこに見えるのは……美鈴が初めて凛々と出会った時のものとは全然違った。美鈴が抱いた感情は得体の知れない『恐怖』だったのだが、烏の様子から存分に見えるのは純粋な『興味』だった。
――だって、あの『大陸』の人間よ? 今の世の中がこうなのも、みんな『大陸』の連中が戦い始めたからだって、松木様が……!
「……よく見たら、あなたはあたしの知り合いに似てる。ねぇ『銘々』って名前を聞いた事はないの?」
『城』では『大陸』の人間もいるものなのか? きっとここにいる者はその事が気になっているのだろうと美鈴は思う。だって、取りまとめる立場の松木でさえ、どうしていいのか解らない様子だから。
凛々はしばらく黙っていたけれど、ここまで『非常識』な人間など初めて見たらしい。
――まぁ、わたしもそうなんだけどね。
「……姉さんは『城』にいたのね」
「えっ?」
流石の烏でも、この事には驚いていた。逆に美鈴はあまり驚かない。どうせ『大陸』の人間の住処など限られる。その『姉』とやらは相当な物知らずで、自分たちのように『日本語』を上手く操れないからに違いない。『日本語』という言語は、世界一難しいと松木の所蔵する書物に書いてあった。……逆を言えば、それをスラスラ喋れる凛々はかなり賢いということになるけれど。癪なので言わない。
「……『姉さん』って、φの他にも『きょうだい』がいたっていうの?」
「あなたは……烏は、姉さんのことをどう思ってた? やっぱり昔と変わらないのかな……?」
そう言って懐かしそうに目を細める凛々には、烏もどうした答えたものかと悩む。彼女の『姉』――銘々のことは、正直に言えば、進んで関わりたくはなかった。かといって、『嫌い』では断じてなかった。ただ、髪を好き勝手に弄られるのが『不快』だっただけだ。
それまで積極的だった烏が黙り込んだので、場は一気に静まり返った。美鈴は内心で、これが『水を打ったように』とはこの事かと妙な納得をした。今度は凛々が『興味』の色をその整った顔に浮かべている。やがて意を決したかのように、烏は口を開いた。
「銘々は、あたしの……『大事な友達』だったわ」
この一言が美鈴の胸に刺さった。無意識のうちに、『髪切り屋』で整えてもらったショートヘアの、少しアップにしたところを留めてある四葉のクローバーの緑のヘアピンに手が伸びる。
「……そう。じゃあ姉さんは多分、『幸せ』だったんだと思う。ご存知の通り、あの性格だから」
「……」
烏はまだ『外』に出てからそれほど長い期間を旅しているわけではない。師匠の持っていたような『懐中時計』と呼ばれるものも、彼のように『手帳』などというモノも持ってはいなかった。それ以前に、『時間』というモノの測り方、見方すら知らない。……だからこそ、『知りたい』と思って勇気を振り絞って『こわかった』場所である『外』、つまりはこの『学問所』にいる。
凛々はまるで『知己』に語り掛けるように、ゆっくりと語り掛ける。話題はもちろん彼女の『姉』のこと。
「姉さん……銘々はあの通りの性格だから。烏が返答に困る理由も大体解るよ。……本当に、相変わらずだわ。私も、幼い頃はよくやられたわ。その時も姉さんは笑ってた。……そっか。私の他にも『きょうだい』がいたんだね。私は『二人きりの姉妹』だと思ってたのに、なんだか裏切られた気分……」
「φとは『きょうだい』じゃないの? 銘々と『姉妹』なら、『きょうだい』でしょ?」
――確かにそうだわ。
二人の言う『銘々』という名の凛々の『姉』には、『ふぁい』という『きょうだい』がいるらしい、という事は美鈴も理解できた。しかし、烏の指摘通り、なぜその『ふぁい』のことを『きょうだい』である凛々が知らないのか? 他の者も同じ事を考えているに違いない。
「烏は、『腹違い』って言葉を知っている?」
知らないので問われた少女は首を左右に振った。美鈴をはじめとするこの場の仲間も知らないらしく首を傾げ、最も物知りのはずの松木でさえも難しい顔をしている。その表情には何とも言えない感情が出ていたのだが、その感情を表す言葉を美鈴は知らなかった。
「……父親が同じなのに、母親が別々の『きょうだい』のことよ、大体は」
その自嘲気味の説明に、皆が息を飲んだ。つばを飲み込むような音すらも現在の無音の部屋には響く。なぜか烏だけは神妙な顔をしている。『城』にはその『腹違い』の概念もあったとでもいうのだろうか? ……無知としか思えない烏でも心当たりらしきものがあるようなのだし。
「でも、『きょうだい』であることに変わりはないわ! 凛々もφと『きょうだい』よ!」
鈴のような声が力強くなるとこうなるのかと思っていたら、凛々が微かに震えだした。『元』とはいえ、『城』の住人だった彼女だから言える言葉に感激でもしているのだろうか? それとも「貴方に何が解る」とでも来るのだろうか?
我ながら意地が悪いと思いつつも、凛々の反応に期待せずにはいられない。その凛々と言えば、今度は腹に手を当てた。その意図が、全く読めない。
「……凛々?」
「……先にお詫びさせてくれるかしら? 今の話はね、全部『嘘』よ。言葉の意味は正しいはずだけどね」
その言葉で、全員が避難をこめた驚きの声を上げた。彼女の『姉』という人物について語っていた烏は初めて間の抜けた顔を見せた。顔には「信じられない」と書いてある。……それもそのはずだ。
「だったら、なんで銘々のことをそんなに詳しく知ってるの? おかしい!」
「……それが『知っている』ということよ」
「気になったのなら、後で私のところに来て頂戴」とだけ言った凛々は、その後はいつも通りに勉強をした。美鈴と烏は彼女の事を目で追わずにはいられなかった。
「それで、どうして解ったの?」
「『大陸』に棲む連中の考え方の基本、『価値観』は、どこも大体同じだから察せた。……ね? 『知っている』から見知らぬ『銘々』って人のこともあなたの表情や言い方、口に出した言葉でどんな人物なのか解った」
『休息時間』に、烏は渋る美鈴を誘って凛々の元へ来ていた。進んで『大陸』の者に関わりたくはないが、どういうわけか『知りたい』と思ってしまった。だから、今は三人でいる。
「……」
烏は何やら考え込んでいる。この『学問所』の庭に出ていたため、カラスはすぐに烏の肩に群れる。彼女は黙ってその鳴き声を聞き、「しばらく待ってて」と返す。美鈴も初めて見るが、これが出会った時に本人が言っていた『カラスと喋れる』という事だろう。何も知らない凛々はただカラスの群れから離れようとする。
「……烏は『城』から来たって言ったよね? 具体的にどんなところ?」
「……『具体的に』ってどういう意味? それをきかなくちゃ話せない」
烏はぴしゃりと言った。先ほど騙されたことを根に持っているらしい。凛々は肩をすくめて、自分のオレンジの風呂敷からノートを取り出す。そこに『無知の知』と書いた。そして言葉にして言った。
「『具体的』の意味以前だわ。二人はこの意味は解る? 烏は『城』育ちだし、多分わからないだろうから読み方は『むちのち』だよ。……さぁ、答えて?」
――馬鹿にしてるのかしら?
「『自分は無知であることを知っている』、でしょ?」
「……相当の強者ね」
凛々の指示通り、彼女の腕時計でちょうど一分後に、二人はそう答えていた。彼女は『大陸』出身ゆえか、常に袴姿だ。何を着ようと自由なのに、まるで約束か何かのように、いつも袴しか着てこない。色や柄に違いはあれども。
そして美鈴は松下に教わった通りの事を口にしたのに、烏の答えとのあまりのも違うことに驚いた。どうやら、それは凛々も同じだったらしい。
「ちょっと待って。蓮杖さんの言い分は解るし、一理あると思うけど、わたしの考えは違う。解釈が違うだけで。でも、烏は……なんで『強者』になるの? 『強者』の意味は知っているの?」
すると烏は少し得意げに答える。
「『強い人』でしょ? あたし自身もその『強者』だもの!」
「……実際に、彼女は強いよ? わたしとの出会いも元はと言えば例の連続殺人犯に追われてた時の事だし。その時に助けてもらったから」
「……成程。でもなぜ、『無知の知』が『強者』になるの? 意味は蓮杖さんのいっている事が一般的な解釈だけど?」
「その意味の方が解らないわ。……だって、『ムチ』という武器は、余程の熟練者で腕力もないと『血』が出るなんて事はないわ。『熟練者』の時点で、『城』では『強者』だわ。……『師匠』がそう言っていたもの!」
烏は漢字すら思い浮かばず、ただ、『無知』を『鞭』という武器と解釈したのだった。それに加えて『知』を『血』と解釈。この時点で他の二人には『城』というのがどのような場所なのかという疑問が少し氷解した。
「成程ね。……とりあえず烏が大物なのは解った。そして、『無知』というのはこう書くのよ、漢字だとね」
凛々はノートに鉛筆で『無知』と書いた。手にした鉛筆の鋭さから、彼女の几帳面な性格が窺える。烏はその漢字を食い入るように見つめる。……だが、一向に『意味』はピンとこないらしい。
「……それで、どういうことなの?」
「この漢字は『知』、つまり『知る』という意味。そして、『無』は『ない』ということ。……もう一度訊くわ。『無知の知』ってどういう意味だと思う?」
烏はそれから美鈴の体感時間でたっぷり十分は真剣に考え込んで、やっと答えを出したようだった。
「……自分はその『無知』だという事の他には何も『知らない』?」
「私と同意見だわ! 初めてこの言葉を知った時からそう思っていたのだけど、一人も同じ事を考えた人はいなかった!」
――なにがそんなに嬉しいのかしら?
心から嬉しそうに笑う鈴々など、それなりに長い付き合いの自分でも見たことがなかったし、彼女の反応に気を良くしたと見える烏の笑顔も初めて見た。……何だか一人だけのけ者にされたような、置いてきぼりを食らったような、そんな気がした。
――まるであの時と同じじゃない!
喜び合う二人を視界に入れないようにしながら、美鈴は昼食の自家栽培野菜に味噌をつけて齧り始めた。凛々と初めて出会ったのは烏よりも自分の方が先なのに。その烏と初めて出会ったのも自分のはずなのに。
Copyright (c) 2023 荘野りず All rights reserved.
-Powered by 小説HTMLの小人さん-