【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治
ち:地
――やっぱり、変な子だわ。
美鈴は、今日も頓珍漢な事を言い出す烏に呆れる。よくこれだけ無知で、あの『城』で生き残れたものだ。そう別の意味で感心せずにはいられない。
両親はいないとは聞いたし、『城』でも『殺し専門』としてそれなりの実力者だったとも彼女は言っていた。……それは真実なのだろう。でなければ出会ったきっかけ、連続殺人犯に殺されかけていた美鈴を、あれだけ簡単に助ける事など不可能だっただろう。
「だから、なぜ?」
烏は自分の考えが『正しい』のだと信じて疑わない。それが、長年、というか物心ついてから両親に従って『学問所』に通ってきた美鈴との違いなのだと思う。烏の言い分は、語彙が貧弱すぎて、何を言いたいのかという要点がまるで解らない。『だって』『だから』『でも』『知らないもの』、烏がよく口にするのはこの言葉が主だ。いや、最も多いのはこれだった。
『なぜ?』
長年の知識、一般常識のある美鈴からしてみれば、なぜその程度の事も解らないのかが逆に謎だ。『城』という場所は『危険な場所』だと両親は口をそろえて言っていたし、自分より長く生きている彼らがそういうのだから、実際にそうなのだろう。そして、それだけ危険な場所から来た彼女ならば、それなりに経験も豊富だろうし、学べることも多そうだった。何よりも、噂しか耳にしたことがない『城』という場所への興味、『好奇心』には敵わなかった。
だから美鈴は『元』が付くとはいえ、『城』の住人である烏を自宅に来ないかと誘ったのだ。
――あの時は、驚いてばかりだったんだもの。
そう自分に言い訳をしてみるが、どう考えてもこの場所――『学問所』という場所では、烏は迷惑な邪魔者でしかなかった。なぜかと言えば、すぐに自分の知らない言葉が『松木重喜』という傑物と名高い人物の口から出れば、質問せずにはいられないからだ。……驚いたことに彼女は、『学問所』という場所の存在理由から漢字でどう書くのか、具体的にどんな場所か、そんなことまで知らなかった。
『学問所』とは、優れた人物から教えを乞う場所だ。昔は『学校』と呼ばれていた時代もあったそうだが、現在ではそのことを示す証拠は美鈴の知る限り、名門『松木』家の現当主である重喜が所持している、ボロボロの本でしか見たことがない。それに百年以上も前の事など、現在を生きる自分には何の関係もないではないか。中にはそんな古い話が好きな連中もいるけれど、美鈴は全く興味がなかった。
そして『松木重喜』というのは人名で、それも現在の日本で『五本指』に数えられるほどの名門中の名門である、『松木』家の現当主だった。美鈴は「これだけ凄い人がいるんだよ!」と興奮気味に語ったのに、烏はものすごく嫌そうな顔をした。その時から、既に彼女の中で『松木重喜』に対する負の感情――美鈴から見れば、それはただ単に『城』育ちゆえのやっかみというモノだと思えた。
そんな美鈴に「もっと詳しく聴きたい!」とねだる烏は、年相応に可愛らしかった。彼女は自分の実年齢も、誕生日も、生まれた西暦でいう年すらも知らなかった。だからこれは美鈴の推測にすぎないのだが、外見は幼く見えるものの、大の男を文字通り一撃必殺で倒した実力から言って、自分と同じ十五歳だと思っている。美鈴には『友達』はいるものの、『親友』と呼べる関係の『同い年の少女』はいなかった。
『学問所』とは様々な年齢の男女が集い、現存する書物から知識を吸収し、互いに意見を交わす場所だった。当然、『互いの意見』は尊重されるし、間違っているところはみんなで正すという目的ゆえに、上下関係も何もなかった。どう見ても美鈴より遥かに年上の男性が、同じく美鈴より遥かに幼い少女――彼女は『俊才』と呼ばれているから当然とも取れるが――に、教えを乞う、などという光景も日常茶飯事だ。
そのことを『知りたい』と言った烏に説明したところ、彼女は本当に困惑していた。……美鈴だって、例に挙げた少女のような俊才ではないし、『学問所』に通い始めたのは記憶が確かならば八歳の頃だ。いつ通い始めるのかも、そもそも通うか通わないかも『自由』。それが『学問所』だ。その一応数えでは八年通っている美鈴でさえも、今の烏の『感情』が何なのか、適切な言葉など思い浮かばない。
烏と名乗った少女は、首を傾げたり、頷いたり、顎に手をやったり……。本当に、『困惑』という言葉が最も適した状況表現なのではないか? そう思ったところで、例の鈴の音のような声で彼女は呟いた。
「『外』って、広いのに変な所ね。『城』の方が普通だったわ」
『城』を基準に『普通』などと言われるのは、一般人である美鈴からしてみれば心外だ。『無法地帯』と名高い、『旧オフィスビル群』。その『オフィスビル群』の単語の意味を知っているかと、『元』住人の彼女に問いかけても、返ってくるのは『そんなの知らない』という返事。
「……変なのはあなたの方だわ。『烏』って名前も、『普通』はそんな名前なんか付けないわよ! わたしの『美鈴』って名前だって、ちゃんと『漢字の意味』も調べて、ちゃんと『いつでも美しく、凛として自分の責務を果たすような鈴のように生きて欲しい』っていう意味もあるわ。……あなたの名前の名付け親はいるんでしょ? 由来は何?」
自分でも、イライラしているのには気づいていた。この少女には助けられたのだが、逆に言えばただそれだけだ。
両親がそろって引きつった笑みを浮かべたところを、美鈴は初めて見た。……そのくらい、目の前の『烏』という名の少女の食事の行儀は悪かった。『娘の命の恩人なら』と言って、母が貴重な蓄えを崩してまで作った、愛娘である美鈴でさえ誕生日にしか食べられない『ご馳走』が並んだというのに、彼女は特に喜んだ様子もなく「ありがとう」とだけ言った。
今時は豚の肉さえも入手は困難で、一家庭に三匹までという条件が付いて飼育を許されている。もちろんどの家庭も例外なく三匹飼っているし、食べるために殺した後には高額の金で新しい子豚を買うのが『普通』だ。そんな貴重な豚を前にしても、彼女は全く嬉しそうにせず、むしろ残念そうにこう呟いた。
「……こんなものより、リンゴがいいわ」
それは一瞬で楽しいはずの夕食の時間を台無しにした。母は驚きと軽蔑の視線を彼女に向けたのだが、烏は全くこたえない。
他にも貴重な『異国』のモノであるチョコレートも、美鈴は滅多に食べられないのに、彼女だけに出されて一齧りした。「不味い」と言って吐き出したのだ。これは父がいつも美鈴のために必死で仕事先の禿げ頭に頭を下げて分けてもらっているものだ。それをこの扱い。
当然、少女の事は両親ともに『気に入らない』どころではなく、『迷惑』な存在でしかなかった。『命の恩人』ということで、「住む場所は提供するがそれだけだ」と告げた時には、むしろ嬉しそうに「あんな不味いものなんか食べたくないし、ちょうどいいわ」と、例の鈴のような声を弾ませて微笑んだ。これには一家三人が閉口するしかなかった。
そして『学問所』は互いに、誰が『上』で、誰が『下』などという概念とは無縁の場所だった。だが、貴重な資料を惜しげなく見せ、名家の現当主としてのたしなみを全て身につけたと評判の松木は誰もが敬い、尊敬し、目標とした。
『名門松木家』の『現当主』が、自ら進んで教えを施し、考えを述べ、相手の意志や立場も尊重してくれる。……彼の自賛した書物で見た『教師』という存在と非常に似ていると誰もが考える。……もちろん、例外というモノは一人いるのだが。
「松木の言う事は何が言いたいのかさっぱりよ!」
「……私も、君の意見は何が言いたいのか支離滅裂の上に、文章の書き方がまるでなっていない。一体誰に教わったのかね? 漢字も『鳥』という字しか書けないなんて……。『非常識』にも程があるではないか」
――あの温厚な松木様でも激昂なさるのね。
美鈴はまだ烏という少女と出会ってから一月程度しか経過してはいないが、二日間の『学問』をする時の二人の様子を見て、『松木様』も同じ『立場』なのだと、少々安堵していた。同じ程度に『失望』と呼ばれるような感情もあったのだが、そんな事は彼女は知らないかった。
「まず、どこがどう解らないんだい? 言ってごらん?」
「あたしはなぜ『漢字』というモノがあるのか解らないの。みんなひらがなでいいじゃない」
「それは……」
現在ではどこの『学問所』でも、現存する資料が少なすぎて、昔の人々がどんな事を考えていたのか、何を学んでいたのか、そもそも『昔の人々』とやらは存在したのか? そんな事さえも論じられる、頻繁に。
烏の放った疑問に松木が答えられずにいると、烏の声とは真逆と言っていい、高い少女の声が聞こえた。
「……私が思うに、『漢字』も含めた『日本語』という言語だから、じゃないかしら?」
――まだいたのね。……いい加減に『大陸』に帰ればいいのに。
「……あなたは誰?」
「私は凛々。『大陸』出身者よ。この『学問所』では割と『物知り』だと言われるわね」
鈴の音のような少女らしい高い声の烏と、それよりは年上で体格も非常に女らしい肉感的な美少女の媚びた声の凛々。ふたりの視線がかち合う。
――二人とも、喧嘩でもするのかしら?
そんな美鈴の懸念とは真逆に、真逆な声のふたりは互いに微笑み、同時に握手を求めた。
――えっ?
美鈴の反応が『普通』だった。誰もが『大陸』という『異国』から来た凛々という『異人』を、『奇異』の目で見ていたからだ。
この荒廃した時代に、わざわざ危険を冒してまで『異国』である『日本』に来る者など、『異分子』以外の何物でもない。彼女に対して、これだけ明らかに『好意』を寄せるような者など誰一人いなかった。そもそも凛々に進んで関わろう、話を聞こうなどと考える者もいなかった。
凛々は自分から握手を求めたというのに、見知らぬ少女の態度に大いに戸惑っている。それは彼女自身がこの場では『異分子』だと十分に自覚があったからだ。
「……貴女は何者? 名前は?」
「あたしは烏。『外』では珍しいらしいけど、『名字』はない、と思いたい。そんな『烏』よ。それ以外の何者でもないわ」
躊躇いがちな凛々に対しても、烏は全く怯まなかった。そして彼女が立った今漏らした余計なひと言で、この狭い『学問所』にどよめきが起こる。美鈴は思わず頭を抱えた。
――言ったのに。
「『外』ってことは、もしかして……」
比較的勇気のある、好奇心旺盛な、名は知らないが見知った顔の少年は驚きを隠さない。この場所を『外』と呼ぶという事は、つまりは『外』ではない場所から来たという事だ。
「『元』だけど、あたしは『城』の住人だった」
「それがどうかしたの?」とでも言いたげに、烏は彼にそう言って、再び凛々に向き直る。そして今度は積極的に、自分から彼女の手を握った。
「よろしく、凛々!」
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