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九章
不味くて、スフィアには申し訳ないのだが、大目に残してしまった食事を、彼女は肩にかけていた学生鞄に丁寧に詰めた。彼女の髪の色とはマッチしたその地味な制服と鞄は、麒麟からしてみれば『女子高生のお姉さん』のイメージとは遠くかけ離れたものだったのだが、当然そんな事などスフィア本人は知らない。
火すらない食事、しかも周囲は海で、初夏のはずなのに寒い。七月とはこれほど冷える時期だったのかと麒麟の乏しい人生経験で振り返ってはみるのだが、やはり経験の少なさは考察の材料にはなりえない。
「さて、そろそろ行くか」
「どこへ?」
「……城だ」
スフィアは嫌悪を顔に浮かべる。そこから窺える感情を何というのかはまだ幼い部類に入る麒麟には解らない。ただし、強烈な『悲しみ』の感情だけはいくら幼いと言われようとも解った。彼の中にある『城』のイメージとは、童話で読んだような、豪華絢爛な場所であり、王子様がお姫様を見染めて連れてくる場所だ。そんな華やかな場所に対して、なぜ彼女はネガティブな感情を持つのだろうか。まだ出会って半月だが、『もう』という言い方も可能だ。それなりにスフィアというお姉さんのことは解ってきたつもりではあるが、なぜか彼女は夜中にひとりで泣くことがあった。なんとなくだが邪魔をしてはいけないと思ったので放っておいたのだが、それは果して彼女のためになったのだろうか?
「……置いていくぞ?」
「いや、待ってよ!」
そんな事を考えている間に、スフィアは数十歩は先を歩いていた。彼女の歩く速度は女の人のモノとは思えないほどに速く、それなりに体力には自信のあった麒麟の鼻っ柱を折ってくれた。
「……」
「……」
しばらく、麒麟の腕時計では一時間半は過ぎた頃、やっとスフィアの歩みは止まった。ふらふらと歩いていた麒麟は前を歩くスフィアに勢いよくぶつかり、そこにいた彼からしてみれば『おじさん』に剣を向けられた。剣と言っても漫画やアニメに出てくるような先端のとがったものではない。むしろどうやって攻撃するのかが不明なシロモノだ。ゆえにあまり怖くはない。
「止まれ!」
「何奴だ!」
よく見ると、そこは植物で作られた城門のようなモノだった。とはいえ予想以上に貧相な造りで、火で燃やしたらあっという間に燃え尽きそうな弱々しいモノ。しかし彼らおじさんもスフィアも大真面目な顔でこの門を大事にしている節が見受けられる。
「通せ。これは私の連れだ」
「……何者ですか? 見た事も聞いたこともないその衣といい……。その髪からして素性は察せるが念のためです。我が帝国民の証を!」
すると彼女は躊躇いなく左腕の袖をまくりあげた。そこにあったのは麒麟から見れば濃紺の入れ墨だった。星が二つとそれを上下で囲むような輪が描かれている。ちょうど今のスフィアの髪の色と似ていた。
おじさんたちはそれを見た途端、すぐに態度を改めた。神々しいモノでも見るような眼でスフィアを見つめた後、彼女に向かって大げさなくらい頭を下げる。それからすぐに自然の城門は2人によって開かれた。
「これは大変失礼いたしました。第三皇位継承者スフィア様」
「ですが、その者は? いくら貴女様でもどこの馬の骨とも知れぬものを帝国内部に入れるのは躊躇われます。……ましてや、『赤』だ」
「……貴様らの言い分も尤もだ。だが、朱でさえも『赤』だった。それを忘れたわけではあるまい?」
「……それは」
一体なんの話をしているのだろうか? 『赤』というのは自分の紅い髪の事を指してのことだとは、これまでの経験から麒麟は察した。古代世界でもこの赤い髪は珍しいらしいとやや悲しくなるが、これは遺伝であり、自分のせいではない。それを言おうとしたところでスフィアによって口元を塞がれた。「余計な事は口にするな」、そう耳元で囁かれた。
初めての『ヘキギョクキョウ』の門は木々のざわめきと共に開き、そこには石灰でできたと見えるごくシンプルな建物とあちこちに噴水があった。帝国民と呼ばれるらしい国民は、皆一様に簡素な衣をまとい、顔の形も麒麟とは違う。骨格自体が違うのだということは父から古代人から現代人への進化の過程で変わったという話を聴いていたので、あまり驚きはしなかった。むしろ、なぜスフィアが現代でも通用するような美人なのかが気になった。……麒麟も年頃の男子なのだ、美しい女の人には弱くもなる。
「あや、イノリ様! みんな、来て! イノリ様だわ!」
「なんだと? ……そんなわけがないだろう?」
「いや、見てみなさいよ! どう見てもイノリ様よ!」
噴水の傍で水を汲んでいた、麒麟的には『おばさん』がこちらに駆け寄ってくる。遅れてついてくるのは彼女の夫と見えるおじさんだ。二人がスフィアのことを『イノリ』と呼ぶのを、麒麟は当然ながら奇妙に思う。
――何を言っているんだろ? スフィーはスフィアじゃないか。
彼らを筆頭に、スフィアの元に寄ってくる人波は止まらない。誰もが絶望の表情から希望を得たような、喜びを全開にしているようでもある。当のスフィアは麒麟の前では見せた事のない作り物の笑顔で対応している。ちなみに麒麟の姿は彼らの目には入らないらしい。誰も目に留めたりはしない。
「どうなさったんです、その変な衣は?」
「いや、色々と事情があってのことだ。……これから翆玉様に進言しようと考えている」
「まさか、我々の生活が良くなる、とでも?」
「確約は不可能だ。だが、少なくとも悪くはならないと考えている」
そうスフィアが答えた途端に、一気に歓声が上がる。スフィアの口調は初めて聞く真面目で重い口調だが、そこには確かな『力強さ』を感じた。老人が遅れてやって来て、その場の者たちに言う。
「イノリ様はお疲れなのだろう。皆の者、そこまでにしておくべきではないか?」
その一言で、誰もがその言い分に納得し、スフィアと麒麟が通る道を開けてくれる。流石のスフィアも軽く頭を下げて、その人並みの中央を歩く。
そこから腕時計で三十分歩き、麒麟が疲労に汗が流れ落ちた頃、ようやく目的地に着いた様だった。そこはこれまでの粗末な石灰の建物とは明らかに違った。素材が何でできているのかもよく解らないし、それなりに詳しいと自信のある建築様式も一切解らない。スフィアは高さのあるその建物を見上げて、独り言のように呟いた。
「……我が帝国の『城』だ」
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2015年 7月8日 莊野りず
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