【ち:○】――地・知・恥・質・痴・稚・血・置・智・治
ち:治
――もう、わたしも逃げるしかないのかな?
蓮杖美鈴は、『友達』――鈴々からの『大陸』に来ないかという何度目かの申し出を検討し続けていた。
今の日本は危険すぎるという両親の言い分は、美鈴にとっても尤もだとしかいえない。しかし彼らが行動を起こさないのは、やはり未だに根強く残る『大陸』への偏見・不審・不安、そのような要素があるからだ。そうでなければ彼らはきっと躊躇いなく『大陸』へと移っているだろうし、他の家族もそのはずだ。例え知り合いと呼べる相手がいなくても。
あれから、烏と鈴々が『大陸』に渡ってから六年が過ぎた。最初はふたりとも美鈴に手紙を送って寄越したのだが、三年前からは凛々からのモノしか届かなくなった。当然、理由が気になった美鈴はそれについて尋ねる手紙を出したのだが、彼女も詳しいいきさつは知らないらしい。とりあえず美鈴が知った事は、『烏は大陸の伝説の一族の生き残り』であった事と、『その一読の元で暮らすようになった』という事のみ。
烏という少女が好奇心旺盛なたちだという事は、初対面の時から感じていた。そうでなければ育った場所、『故郷』と呼ぶべき場所である『城』から出るはずもないし、『学問所』に通いたいと願うはずもない。その彼女が自分でも知らない自分のルーツを知りたがるのは当たり前だ。……そうと理解はしていても、たまに手紙くらいは寄越してもいいのではないか?
『友達』ふたりが『大陸』に渡ったほぼ直後、日本では大地震が起こった。特にダメージを受けたのは東京で、流石の『城』でさえも大きな被害を受けたそうだ。その結果として山は崩れ、川は氾濫し、東京の海に面した場所は水害により二度と作物が育たない不毛の地と化した。……美鈴の住む地域はまだ海面とは離れ場所だったため、被害は最小限で済んだ。しかしその弊害として、近場にある『城』から来た者たちによる被害は増加の一方だ。
その現実が実際に起こってやっと、『城』という場所がどれだけ特殊なのかを悟った。『外』の殺人犯など『城』出身者に比べれば、本当に『可愛いもの』だ。『外』には人として越えてはいけない一線というモノが無意識のうちにあり、殺人者もそれなりの事情があるものが多く、法で裁かれる。それは共通して『モラル』というものがあるからだ。しかしそんな『モラル』など、『城』の連中は欠片も持ち合わせていなかった。彼らはただ、『殺し』という行為を目的もなく、ただ『愉しむため』に積極的に行った。『食糧を奪う』という理由のある場合でさえも、どうしたら相手により苦痛を与えられるのかという『無駄な工夫』を怠らなかった。……そこで美鈴は烏は特殊な例だったのだと知ったのだった。
『学問所』も、ふたりが大陸に渡って数か月後には松木が『城』出身者に言葉にはならないほどむごい目に遭わされた後、虫けらのように殺されたため、当然閉鎖だ。彼の遺体はまともに認識できる部位が薬指に指輪がはまった左手だけだった。その事件は『五本指』の一家が潰れるという意味でも、『学問所閉鎖の潮時』という意味でも話題を呼び、人から人へと会話で広がった。
もちろん、文字通り『無力』な美鈴には何もできなかったし、出来る事など何一つなかった。せめて、烏のような『強さ』があれば、松木の仇討ちくらいはできたかもしれないのに。
それから東京は急激に更なる荒廃を遂げて、人口も減っていった。人々は進んで田舎へと逃げ帰っていくのだが、生まれも育ちも東京な蓮杖一家を始めとする大多数が逃げたくても逃げられない、生き地獄のような日々を送り、いつしか誰もが瞳の光りを失っていった。
空虚な目に映るのは『絶望』のみ。進んで自殺を選ぶモノも少なくはない。……しかし、『希望』というモノは得てしてそんな時にやってくるものではなかろうか?
その少女は、高貴な色と言われ、高値がつく『紫』の鮮やかな振袖を纏っていた。彼女の周囲にいる者にだけわかるような、上品な柄も控えめで、慎み深い何かの花の香りを纏い、凛として駕籠から降りた。
ちょうど美鈴が食糧を調達しに遠出した時だった。その日仕入れた噂話はかなり古いもので、もうすぐ『大陸』が日本を属国にしようと機会を狙っていた、という話だった。ただでさえ国内でもろくな生活も出来ない。だから皆、諦めていた。……そんな一様に諦念を漂わす人々の忠心に降り立った彼女には目を引かれた。
――なんて堂々とした、綺麗な身なり……。
自分よりも遥かに幼い、見たところ年長に見積もってもせいぜい十四歳が関の山だろう。美鈴は既に二十歳は過ぎていたのだが、とてもではないが彼女ほどの自信は持てないであろう。その自信は一体どこからくるものなのかと興味がわいた美鈴は、気づかぬうちにその人々の群れに入っていた。
「わたくしの名は月城沙耶! 日本の者……少なくとも東京に棲む者ならば知っているであろう? 『五本指』が一家、『月城』の名を!」
その簡潔過ぎる自己紹介だけで、美鈴には少女――沙耶の自信の理由がはっきりと理解できた。『五本指』に選ばれるのは名門の中の名門であり、それなりに優秀な者にしか『当主』を任されることではない。その当主である松下重喜も同じ『五本指』の『当主』だった。彼が存命中はたまに愚痴を言っていた。『名門なんて幼い頃から学ばなければならない事が多くて困る』と。……目の前の少女も似た境遇だったのだろう。だからこその『自信』なのだ。
――でもちょっと待って、確か『月城』様って……。
「いくら『五本指』とはいえ、『月城』家は『城』の統治者だろ? 今こっちに出てる連中も纏められないくせに、いい気になるな!」
「そうだ! 所詮はその程度だろ!?」
一部の聴衆がそう怒鳴るのを、沙耶は冷ややかな目で見つめていた。そしてそれが十分ほど続いたかと思うと、彼女は一言だけ、平坦な声で言った。
「それがどうした? 自分では何もしない愚者どもが」
その冷ややかな目つきは、この場を凍らせるには十分だった。騒いでいた連中も彼女の迫力には逆らえないようだった。流石は『名門』と呼ばれるだけのことはある。そう美鈴が感心していると、沙耶は予め考えていたらしい具体的な問題に対する対処法をいくつか語った。それらはとてもよく練られていた。……『幼い少女』にしては、だが。
確かに具体的で、理想的だ。だがしかし、これでは想定外の事態が起きた時にあまりにも弱い。そう指摘しようと思ったのだが、美鈴が彼女に近づく前に、同年代の女性が一足先に彼女――沙耶の隣にいた。その歩く速度は尋常ではなかった。
「……久しぶりね、美鈴」
「え?」
その女性は腰より下まで長い黒髪をそのまま下ろしていた。特に飾り物の類は見に着けていないが、なんとなく『美しい』のだという印象を受けた。喪服のような振袖を着ているのに、胸元にはどこかで見たような赤いペンダントが揺れていた。……これだけの要素で判断するのは早計かもしれないが、「まさか」という期待を押さえられなかった。
だが、もし彼女だったとしても、なぜこの場にいるのだろうか。ここは名門『月城』の現『当主』である『月城沙耶』の演説の場だ。いくら『彼女』の性格でも、これほど大事な場に無遠慮に踏み込める立場でも、身分でもないはずだ。
近づいてくる若い女性を一目見た沙耶は固まるしかなかった。
――お母様?!
だが首を振って否定する。『母』は『殺された』のだ。他でもない、今も自分が必死で治めている『城』の内部で。それに、『母』はこれほど若くもないし、このような微笑みなど一度も見たことがない。だとしたら、このひとは一体――。
彼女は高いながらも、あくまでも諭すような、穏やかな鈴の音のような声で言葉を発した。……他の者には解らずとも、美鈴と沙耶には心当たりがあった。
「……あたしの名は、『月城烏』。ここにいる沙耶と同じ『名門』、『月城』の血を継ぐ者です」
一度はしんと静まり返ったのだが、しばらくすると一斉にブーイングや暴言の数々が飛び出した。「一体何を言っている?」「月城の当主は沙耶様のみ」「お前は誰だ、ニセモノが!」……。沙耶も呆然として、信じられないでいる。美鈴も信じられないが、『あの』烏ならば、信じられる。『友達』は、『信じる』もの、そう思うから。そして、自然に笑う。
――なんだ。嫌そうにしてたくせに……実は気に入ってたんだ、ペンダント。
嬉しくなった美鈴は、烏の元へ小走りで寄る。六年前の、日本を出る前の『貧相』としか言えない痩せすぎの体型は、標準に近い程度の細さになっていた。そしていつも着ていたワンピースでもなく、敢えて振袖を着ているのは、彼女なりの『決意』の表れだと察した。
色がやはり『黒』なのは、やはり烏だからだ。……ここまで詳細に解るのは、やはり『友達』だから、としか言えない。
「彼女の言う事は本当よ!」
第三者であり、この場にも頻繁に顔を出す美鈴の言葉で、聴衆も黙る。どこにでもいるような、一般的な水準でしかない『蓮杖美鈴』だからこそ、それが可能だった。
「……ありがとう、美鈴」
「どういたしまして」
一人、納得がいかないのは沙耶だった。
「……『お母様』の娘は、わたくしひとりのはずよ?! 他にいるなんて、わたくしは一度も聞いて――」
「あんたはあたしより、多分『賢い』わ」
「はぁ?」
烏は沙耶に向き直る。その眼差しは性格という内面からくる多少の違いはあれど、『母』のものだった。それが沙耶に、この『烏』と名乗った女性が『母』の、『月城』の関係者だと直感で意識させた。
「……あんたの『母』――先代『月城家当主』である『月城月下』という女を殺したのは、他でもない、このあたし」
「……」
「あたしは『大陸』出身の父に育てられた。そして彼に、『師匠』に提案された。『復讐』を。……だから、『両親』を殺した。あたしとあんたは『腹違い』の姉妹よ」
『腹違い』などという言葉を知る者はこの場では沙耶しかいなかった。美鈴には最後に烏が何を言ったのかは理解できなかったが、重要な事を言った、という事だけは解った。
絶句して二の句が継げずにいる沙耶を優しく押しのけ、烏は群衆に呼びかけた。
「沙耶のプランは悪くはないけれど、『人材』に問題がある。まず『大陸』とは早急に『和平』を申し出るべきよ。日本人が考えているほど『大陸』の者は野蛮でもなければ愚かでもない」
「なんで、言い切れるんだよ!」
「そんなこと信じられるか!?」
「証拠はあんのか?!」
「……あたしは『大陸』に六年間いたわ。下手な日本人よりも全員優しくて、博識だった。いくつもの言語を操る人種だわ。……文句は?」
実際に行った烏がそう言うのだし、納得するしかなかった。彼女の美しい顔には、よく見ると細かい傷が出来ていた。目立たないだけで。それだけ過酷な環境にいたのだろうと美鈴は思う。
「『大陸』の使者にはあたしの『友達』に条件に見合う能力のある人材がいるし、話はつけてあるわ。それからこの国内の治安維持も兼ねた視察、これはあたしが自らやるわ。……三年間、『大陸』でも『伝説』と謳われた一族の戦い方は学んだ。今のあたしならば、『城』の『上層部』も恐怖などないわ」
これには沙耶が驚いた。『城』の『上層部』、『上の上』に棲む彼女でも、『戦闘能力』という物理的な『力』が皆無につき治められないでいる。そして沙耶は『大陸』のその『伝説』の一族の名を、幼い頃から読みふけっていた書物で知っていた。――『大陸』に棲んでいたとされる『伝説』の『戦闘』種族で、その強さのミソは『生類』との対話が可能であること。ゆえに『生類纏』という。
「……それから、一番肝心な『大衆の意向』調査。これは美鈴、あなたにお願いしたいの」
「うそ、わたしが?」
大陸の『使者』は凛々だろうし、烏は実際に『城』での強さの比較のたとえ話が理解できないが、沙耶の様子からして十分強いだろう。だから適材だと思う。しかし、なぜよりにもよって自分なのだろうか?
「……向こう――『大陸』でも学んだし、あなただって学んだはずよ? 世の中を変えるのは、数の多い一般人たちだって。松木だって言ってたじゃない、『協調性』というって」
烏と美鈴のやり取りをじっと見ていた沙耶は、心底不思議な心地だった。よく思い出してみれば目の前の女性は、あの時、『母』が殺されたあの日、『引き取ることにした』と言っていた不健康な年上の少女の面影が残っていた。表情がまるで違うので気づかなかった。
――あれだけ物知らずの『下』の者が……。
今や光の差す表舞台にいるのはもはや沙耶ではなかった。一生日陰にいると思っていた、決めつけていたはずの、『見知らぬ他人だと思っていた』、『異父姉』だった。……あの『母』のことだし、自分以外の跡取りがいたところで今更驚きはしないが、ただ純粋に疑問だった。
「……なぜお前が、ここまで変わったの?」
「『変わった』んじゃない、『変わりたかった』から」
烏は『父』の言っていた事が『知りたかった』。『知っている自分』になりたかった。……ただそれだけの事だ。
「……そう」
沙耶は悔しそうに俯いたものの、すぐに側近を呼び寄せ、自分と烏プランを検討するよう『五本指』――残りは三家だが――に伝えるよう命令を下した。
そして、六年ぶりの再会を果たしたばかりの『友達』ふたりを見つめる。
「……わたくしも、あんな風になれるかしら?」
その問いに答える者は誰一人いなかったので、彼女は勝手に結論を下した。
――わたくしならなれるわよ。
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