ケイコ

 わたしの頬に生暖かい感触がある。
 考えるまでもなくそれは血だと理解った。但し、わたし自身のものではない。
 ああ、またか。
 わたしは頬の返り血を拭いながら真正面を見つめる。目に飛び込んでくるのは分別があるはずの大人の男たちによる、形振り構わぬ争い。皆血走った眼をギラギラ輝かせながら包丁や鎌、鍬を振り回す。瞬く間もなく鮮血が舞う。
 何度目か理解らないが、覚えのある感情が湧き上がってくる。結局この村でも同じ結末を迎えるのか。突然そんな感慨を憶えた。
 やがて男は一人倒れ、二人、三人倒れ、そうしているうちに息も絶え絶えの最後の一人すら気づかぬうちに息絶えていた。


「今日も暑いなぁ……こんな日には川に沈めておいた冷を、こう、目が覚めるような別嬪さんのお酌でさ――」
「バァカ! ただ涼しい場所で冷たいものが飲みたいだけなんだろ? なんでそこに別嬪が必要なんだよ?」
「お前さんも野暮だねぇ。『背筋が凍るほど美しい』なんて言い方もあるくらいだ。涼しいところで、冷たいものを、ぞっとするほど美しい女に注いでもらうなんて、最高じゃないか」
「そんな言い方なんて生まれて初めて聞いたよ。さすが都会者は学がおありになるこって」
 真夏の炎天下。
 今日も今日とて畑作業に精を出す村の男衆は、暑さには敵わないとばかりに休息をとっていた。山奥の農村は都市部と違い不便ではあるものの、日陰を作る木々は山ほどある。畑からそう遠くない場所に集まった彼らは川で冷やした手拭を首に当て、ささやかな涼をとっていた。
 山奥の村という閉鎖的な空間では互いに顔を見ただけでどこの誰かまで仔細がわかる。名はもちろん、親兄弟のこと、先祖のこと、現在の生活ぶりまでも。農村部では助け合わなければ年を越せるだけの食い扶持も作れないし、出稼ぎも難しい。一蓮托生の共同体なのである。
 そんな彼らは皆兄弟のように気の置けない関係であり、どんなくだらない雑談でも盛り上がることができる。上手く馴染むことができなければその時点で生活は破綻するのだから。
「いいよなぁ、隣にきれぇな女がいるだけでも目の保養だもんな――」
 男の一人が独り言のような呟きを漏らしたと同時に、見慣れない女の姿が目に入った。
 農村では滅多にお目にかかることのない、鮮やかな茜色の着物を当然のように纏う女。普段質素な身なりに慣れている者では到底こうはならない。多少なりとも緊張するものだからだ。
 緑一色の風景の中に輝くような茜色はいやが上にも視線を集める。
「おい、どうしたん――」
 他の男たちも女の姿を認めた瞬間、同様に息を呑む。
 何も着物ばかりに目が行ったわけではない。華やかな着物よりも目立っていたのは女自身の美しさだった。近づかれると眩いほど顔の造作が解る。
「……」
 これまで見たことのない、整った目鼻立ち。陽の光を受けて艶々と輝く漆黒の髪。ほのかに笑みを浮かべた不思議な表情。
 そして、雪のようと言っても決して過言ではない透き通るような白い肌。
「……」
 見知らぬ女の美貌に圧倒されたように男たちは誰一人として二の句が継げなかった。
「……あの」
 言葉もない男たちの様子に困ったように女が口を開く。圧倒するような美しさに反して、恐る恐る話し出す様子が奇妙にかみ合っていない。まるで目の前の男たちが一斉に自分へと襲い掛かってくると警戒でもしているかのように。
「は、はい……?」
 怯える女につられるかのように、男の中の一人も緊張した面持ちで応える。
「わたし……道に迷ってしまって。目的地まではとても遠くて、けど周りは山や森だし、途中で休める場所もあるかわからないし……。今は明るいけど、夜になったらと、もし、獣がいたらどうしようって、わたし……とても、恐ろしくなって」
 今にも泣きだしそうな震える声で彼女はたどたどしく話す。整った容姿からは想像もつかない気弱な様子に男たちは面食らったものの、丁度今まで女の話で盛り上がっていたこともあって穏やかに笑いかける。
「成程。つまり、遠い場所に向かっている最中ということか。それで今夜の宿場を探している、と」
「あちゃぁ……そりゃご愁傷様だなぁ。ここから一番近い村でも大の男が一日がかりでもたどり着けねぇなぁ。まして女の脚じゃ、精々森の中で立ち往生が関の山だ」
 男の返答を聞いた女は困り果てたように俯いた。長い睫毛がそっと伏せられる。
「泊っていくといいさ」
 女の目元が光ったと同時に男はそう告げた。
「え、っ?」
「困った状況の女一人助けないでどうするんだ。ここ数年凶作続きとはいえ、多少の蓄えはある」
「あんた一人一泊程度くらい問題はないさ」
「なんなら一番近くの村まで送って行ってやるよ」
 男たちは口々にそう提案をする。
 親切心はもちろんあった。だがそれ以上に村外からの来訪者は物珍しかったし、なによりこれほど美しい女など初めて見たのだ。一泊の礼に酌でもしてくれれば十分釣りがくる。親切と言うより全面的に下心からの言葉。
 しかし女の方は気づくことなどなかったようだ。
「……いいの、ですか?」
「ああ! もちろんだ!」
 笑顔で応える男に、女の方も遠慮がちに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「けどなんだってまぁ、こんな辺鄙な田舎に? 何しに来たんだね?」
 村一番の博識な男は不思議そうに首を傾げる。近辺には名産品もなければ名所もない。ただの寂れた田舎である。まして、遠方から若い女が単身でここまで来る理由など思い当たる節などなかった。
 女は眉を下げて暫し迷っているようだったが、口を開いた。
「わからないんです……」
「わからない?」
「昔のことはよく覚えていなくて……けれど、わたしは何か目的があってこの辺りに来たのです」
 予想外の返答に尋ねた男の方も困惑した。
 だが気のいい村の男衆はそんなことは些細なことだとばかりに歓声を上げた。
「そんなことどうだっていいじゃねぇか!」
「そうだそうだ。おあつらえ向きの別嬪さんだぞ?」
「よし! そうと決まれば今夜は宴だな! 丁度酌をしてくれる別嬪の話をしていたところだ」
「お前は酒が飲みたいだけだろうに。あ、そうだ」
 上機嫌で今夜の話を始める男を咎めた年嵩の者は大事なことを思い出したように女に向き直る。
「あんたの名前は? さすがにずっとあんたと呼ぶのも都合が悪かろうし」
「わたしの名前、ですか?」
 女は僅かに戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに答えた。
「仲間内ではケイコと呼ばれておりました」
「ケイコ? どんな字を書くんだね?」
「さぁ……わたしは漢字には疎いもので。良かったら素敵な字を選んでくださいませんか?」
「そうさねぇ、じゃあ蛍の子と書いて、蛍子というのはどうだい? 美々しいあんたにはうってつけだと思うんだが」
「素敵ですね。それではわたしのことは蛍子とお呼びください」
 女――蛍子はぎこちなくはにかんだ。
 こうして蛍子はこの村に泊まることとなった。
 只一泊だけ。当初はそのはずだった。
 だがそうはならなかった。
 蛍子がこの村に滞在して一週間が過ぎた。
 当初は一泊した後に目的地へ向かうはずだった。だが予想外のことが起きたのだ。
「まだ昼か……はやく夜にならねぇもんか」
「ああ。夜になれば酒を飲みながら蛍子と過ごせるのに」
 村の男たちは今まで一日も欠かすことなく続けていた畑仕事が苦痛で堪らなくなっていた。
 蛍子が最初に泊まった一夜で男たちは彼女の美貌の虜となった。彼女がかすかに微笑うたび、控えめに酒瓶を傾けるたび、足音一つ立てずに歩くたび。その一挙手一投足に心惹かれ、彼女のすべてに目を奪われるようになるのに時間は要らなかった。
 毎日の畑仕事を飽きることなく続けていた村人にとって、蛍子のような洗練された美女は目の毒だったのだ。
「あの綺麗な顔をずっと見ていたい……」
 誰ともなく呟くと、それに同意する声が続々と沸き起こる。
「俺もだ」「俺もそうだ」「ああ、もちろんだ!」「俺も早く蛍子の酌で……」「今日は俺だと言っていた!」「いやおれだ!」「俺だ!」
 他愛もない願望から本気の取っ組み合いへと発展するほどに、村人たちは突然迷い込んできた女に夢中だった。
 酷暑のうだるような暑さも後押ししたように村人たちは苛立ち、殺気立つ。かつて和気藹々と談笑を楽しんでいた村人の姿は今やどこにもなかった。蛍子を取り合う男たちはもちろんのこと、男たちと所帯を持っていた女たちにも不快な感情は伝染していた。
 かつてないほど村中が敵意殺意を向け合っている。
 そしてその殺意は切欠もなしに暴発する。


 蛍子がこの村を訪れてから連日連夜、村の男たちは全員村長の自宅に集まっていた。侘しい農村は住居も貧相なものだったが、村長の自宅だけは掘っ立て小屋の中では広い。
 今夜も男たちは細君を置き去りに酒瓶を傾けていた。盆や正月といった特別な日でないと飲めなかった酒はこの一週間で残り僅かまで減っていた。
「蛍子」
 誰が彼女を呼んだのかなど些細な事。
 蛍子は今夜も色鮮やかな着物を着て、静かに酌をしていた。今夜も輝くばかりに美しい。
「俺の酒が残り少ないんだ。酌をたのむ」
「かしこまりました」
 微笑した蛍子は現在進行中の酌を手早く済ませようとしたのか、若干動作が乱暴になった。お猪口から微かに酒が零れる。
「……む」
 酌をされていた男は眉根を寄せた。
「おい。蛍子は今俺の酌をしているんだ」
「あんだと?」
「蛍子は俺のだ」
 普段呑み慣れない酒を短時間で飲んでいたこともあり、男たちは既に出来上がっていた。皆一様に赤ら顔で酒臭い息を吐く。
 酒に飲まれた男は些細なことですぐに理性が消える。
「聞き捨てならねぇな!」
 もう一人の男が乱暴に壁を叩いた。安普請の住居に容易くへこみがつく。
「そうだ、どういうことだ!」
「調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
 酒の勢いというものは恐ろしい。普段は温和な者たちですら、異常な攻撃性を露わにするのだから。
 男たちは競うように立ち上がり、周囲の者に血走った眼を向ける。まるで長年の仇敵をようやく見つけたかのように。
「蛍子は俺のものだ!」
 そして、作業用に立てかけてある農具に手が伸びるのも最早時間の問題であった。
「邪魔する奴は容赦しねぇぞ!」
 一人の男が鍬を持つと、もう一人もまた鎌を持つ。
「やる気か?」
「そっちがその気なら」
 また一人、二人、包丁と小刀を手に取る。
「殺ってやるよ」
 凶器になりそうな農具がいきわたってからも蓄えてある薪や藁、囲炉裏の傍に置いてある薬缶を我先にと取り合う。
 そして阿鼻叫喚が始まった。
 
「……」
 蛍子はその一部始終を黙ったまま見つめていた。
 どこかで見た覚えのある光景。少なくとも今と、それ以前と、そのずっと以前。自分を巡る殺戮の現場を見たはずだった。
 状況は異なるはずなのに、男たちの表情はいつも同じだった。
 誰もが自分を欲し、邪魔者を排除しようと凶器を向ける。凶器だけではない。狂気も共にだ。
 彼らは狂気に侵され凶器を向け合っていた。
 憎み合い、殺し合い、男たちは床に伏していく。一人、また一人、三人、瞬きをする間にもまた一人倒れた。
 蛍子は只ぼんやりと、無表情に惨劇の様子を眺めていた。
『――』
 唐突に誰かの言葉が脳裏に蘇った。
「ケイコ……」
 自身が呟くと、言葉が鮮明になっていく。
『ケイコク』
 それは、男の声だった。
 かつて蛍子が滞在した場所で聞いた言葉。息も絶え絶えの男がそう呟いた。きっと自分に向かって言ったのだろうと、ずっとその名を憶えていた。実際は一文字足らずの「ケイコ」だけしか記憶になかったが。
「わたしの名はケイコクだったの……?」
 ケイコク。
 あまり馴染みのない響きだが、きっと自分に似合いの名なのだと蛍子は思った。記憶に出てきたあの男は優秀で学もあると評判の男だったから。だからきっと、とても良い名なのだろう。
「どんな漢字なんだろう」
 ケイコクは想像してみた。が、どうしても漢字が浮かばない。自分を愛してくれた男がつけた名なのだ。自分に最も相応しい名に違いない。どうしても思い出したい。思い出せない。
 彼女がぼんやりと考え事をしている間に既に事態は終わっていた。
 数日間共に過ごした仲だが、誰一人として名を覚えることはなかった。ただ、厳つい男が破顔一笑して景気よく酒を飲んでいるのは悪くはなかったが。
「ねぇ、あなたは知っている? ケイコクってどんな漢字を書くのかを」
「……」
 既に彼は息絶えていた。
「なんだ……わからず仕舞いか」
 頬に付着した返り血に構うことなく呟く彼女は、あどけない少女の無邪気な表情を浮かべていた。
 この惨状が切欠だったのか、彼女はようやく自分がなぜ遠方の村を目指していたのかを思い出した。
「そうだ。わたしがあの村に向かっていたのはケイコクの漢字を知っている博学な男を訪ねるためだったんだ」
 漸く目的を思い出したケイコクは晴れやかな顔をしていた。
「今度こそわたしの名がわかるんだわ。ああ、これでようやく……」
 そう呟いた彼女は笑っていた。
 男たちの躯に囲まれ、喜びに溢れた笑みを浮かべていた。狂喜していた。
 ケイコク――傾国はその名の通り、いつか国すら傾けることになるのかもしれない。
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