混濁の感情

 どこのどなたかは存じませんが、あなたがこれを読んでいるということは、僕はもうこの世にはいないでしょうね。
 そう、僕は殺されたのでしょう、彼女に。
 犯人は僕が言わなくても判明するでしょうし、それは言うだけ野暮だと思います。でも僕は彼女が好きでした。愛していました。
 そして彼女もまた、僕のことが好きで、愛していたのでしょう。だからこそ、僕は殺されたのですね。
 長い付き合いゆえにわかる事ですが、たぶん僕のそばにはもう一体、女性の遺体が転がっているのではないかと思いますが、どうでしょう? 当たっていますか?
 彼女の名前は時雨坂楓さんといって、僕の幼馴染であり、最愛の女性です。どうか、彼女を責めないであげてください。
 僕と楓さんは、この春に結婚する予定でした。
 当人である僕はもちろん、楓さんもとても喜んでいました。文字通り、安月給三ヶ月分の婚約指輪を渡した時から、僕たちの関係は『ただの親しい幼馴染』からちゃんとした『結婚を前提とした恋人同士』に変わりました。指輪を渡した時の楓さんの笑顔は、二十六歳とは思えないほど無邪気で、愛らしかったのです。
 楓さんは実年齢より若く見える。綺麗という言葉よりはかわいいという言葉の似合う女性です。それでも中身はたおやかでいて、芯の強さも持ち合わせています。
よく頼りないと言われる僕にとっては、理想の相手で、子供の頃からずっと叶わない片想いだと諦めていました。
 そんな彼女が、「嬉しい」と言って僕のプロポーズを受けてくれた時は、思わず泣いてしまいました。そういった場面で泣くのは、一般的には女性の方であるはずなのに、僕の方が嬉しくて泣いてしまいました。まったく、自分でも嫌になるくらいに僕は情けなくて、頼りないのです。
「しょうがないなぁ、誠司くんは!」
 楓さんは照れたように笑いながら、僕にアイロンのかかったハンカチを手渡してくれました。昔から泣くのは僕の役目で、楓さんはいつも慰める役でした。それがずっと歯がゆくて、僕はもっと楓さんに相応しい男になりたくて、努力を続けてきました。プロポーズが成功したのは、長い付き合いだったことに加えて、僕が頼りないからという、我ながら情けなくて泣きたくなるような理由だったのでしょう。
 本当に、僕ときたら。だから、僕は死んだのでしょうね。
?


 Side S

 うだるような真夏の暑さの中、僕は医師免許取得のために試験を受けた。
 なぜ医学の道を志したかなんて、簡単なこと。実家が総合病院で、院長である父が、僕に病院を継がせたがっていたからだった。理由なんてそんなもの、きっとうちのような父親を持つ子の進路なんて似たり寄ったりだろう。
「こんなところにいたの? 探したよ」
 夏の暑さの中、彼女の声はとても爽やかに、涼しく聞こえた。
 高すぎでもなく、低すぎもしない、不思議な声音を持つ彼女は、冷えた缶コーヒーを投げてよこした。
「うわわわっ!」
 それまでだらしない姿勢でいた僕は、なんとかそれをキャッチするのが精いっぱいで、彼女の方を見る余裕がなかった。軽やかな笑い声がした。
「ナイスキャッチ!」
 缶コーヒーの冷たさがじんわりと掌に染みた頃、やっと振り向くだけの余裕が出来た。
「……楓さん?」
 なぜ彼女がこんなところにいるのだろうか。
 楓さんと僕はたしかに親しい幼馴染。昔はどこに行くにも一緒だったけれど、もういい大人だ。医師免許取得にあたふたする、二十四歳にもなった。ひとりがこわい歳でもない。
「誠司くんさぁ、自分だけ医者になろうとかずるくない?」
「……は?」
 意味不明だった。
 なぜ僕が医者になるのがずるいのか。
 第一、 幼い頃には楓さんだって散々うちの病院に探検と称して遊びに来ていたではないか。その頃から僕はすでに医者になるために勉強をしていた。
 楓さんならばそんなことくらいわかっているはずなのに。
「わたしもね、なりたかったんだよね、お医者さん」
 彼女が医者になりたかったなんて、初耳だった。小学校、中学校、高校、大学まで、すべて一緒で、ずっと一緒にいたはずなのに、そんなそぶりなどひとつもみせたことがなかった。
 なのに、なぜに医者になりたいなどと、今更。
「なんで? 楓さんは普通がいいって言ってたじゃないか。いつも」
 楓さんの実家は地元では知らぬ者のない、由緒正しい家柄で、なんでも旧華族の血を引いているとかで有名だった。もちろん、金銭的にも恵まれていて、いつも彼女はお姫様のような恰好をしていた。
 その家の一人娘として、幼い頃から大切に育てられてきたのが楓さんであり、言うまでもなく、彼女は正真正銘のお嬢様なのだ。箱入り、という言葉がつかないのは、世間一般のお嬢様のように女子ばかりの環境で育ったわけではないからに過ぎない。
 お嬢様である楓さんは、そもそも汗水たらして働く必要などないのだ。
「あのね、楓さん? 医者ってドラマみたいに簡単な仕事じゃないんだよ? 手術には失敗ももちろんあるし、夜勤で寝不足は当たり前だし、研修医の頃なんかこき使われるのも普通で――」
「だから、医者になりたいんじゃないの」
 僕の言葉を遮って、楓さんはきっぱり言った。眼をきらきら輝かせて。
「一度ね、苦労というものをしてみたかったの。みんながわたしみたいな子供相手に気を遣って、首になるかならないかでおどおどして。そんなに労働って大変なんだって子供ながらに思ってたの。
 ある日ね、うちの家政婦さんの子供が熱を出した時だって、わたしの方が先にインフルエンザに罹ってたって理由で、自分の子をほったらかしにしなきゃいけないって時があって。その時にはお父さんに言ったの、『お休みをあげて』って。……でもお父さんはそうしなかった。『おまえの方が大事だから』って言ってね。どう思う?」
 楓さんはゆっくりと、その当時のことを思い出しながら話した。安物の缶コーヒーを啜る彼女のくちびるに眼がいったけれど、どうにか視線を逸らした。
「それは……。楓さんのお父さんは娘が心配だったんだよ。だからだって。一人娘がインフルエンザなんて、僕が想像する以上にこわい話だと思う」
 僕は缶コーヒーの中身を、どうにか喉に流し込む。ここ数日は試験勉強で部屋にこもりっきりで、外の暑さは苦しささえ感じる。強い日差しの中で飲むコーヒーは救いのはずなのに、眼の前に楓さんがいるというだけで緊張する。昔はこんなことはなかったのに、二十歳を過ぎて、更に綺麗になった楓さんは僕には眩しすぎる。
「そう? 医者の一人息子でもインフルエンザはこわいものなの?」
 喉が渇くのを見越していたのか、楓さんはもう一本の缶コーヒーを僕に勧めてくれる。会場のどの自販機も売り切れが続出していて、僕は水分補給を諦めかけていたのだ。
 楓さんも自分の分の缶コーヒーのプルトップを引いた。
「それで、楓さんは医師免許を取って、最終的には何科の医者になりたいの? 忙しいのはやっぱり外科辺りだと思うけど……」
 楓さんが外科医となると、それはそかれで悪くない。むしろ似合うかもしれない。激しく辛い労働は似合わないけど、白衣を着るだけならばありかな、なんて熱視線の当たる頭で考える。
 他にいい休憩場所もないわけではなかろうが、いい場所は既に先客がいたのだ。
「わたしさ、知らないことってほとんどないじゃない?」
 急に楓さんの表情が変わった。いつもののんびりとした育ちのいいお嬢様の表情ではなく、真剣な顔だ。
 実際、楓さんに知らないことなどなかった。
 博学で、博識、知的好奇心がまるで泉から湧き出るような、そんな楓さんは、昔から何でも知りたがった。
 幼い頃は、たしかにかわいいものからだった。
 戦前の子供たちがどんな遊びをしていたのかを知りたがり、親のコネをフル活用して知っている人を呼んで、直接絞り上げるように聞き出した。それが始まり。
 昔は何が流行ったのか。どんな生活をしていたのか。数は誰が発明したのか。なぜ自分は生きているのか。スポーツの起源や発祥の地はどこか。本当に地球は回転しているのか。そんなことは可愛い部類で、やがては宇宙の存在理由そのものに疑問を投げかけたり。
 学校で知識が増えるのと比例するように、楓さんの興味は溢れだして、止まらなくなっていった。
 その度に専門家が高い金で呼ばれたり、雇われたりして、楓さんが百パーセント納得するまで時雨坂家に拘束されたのだった。
 幼い頃から楓さんにとってはそれが当たり前で、知りたいことはなんでも教えてもらえるのが楓さんの常識であり、その結果として学校では何でも知っている生き字引とも呼ばれるようになったのだ。
 もちろん、すべてが環境に恵まれていたからではない。元から楓さんの知能は普通の子供よりも遥かに高かったのだ。それを僕は定期テストのたびに思い知らされた。
 僕が赤点を取るテストでも、楓さんは常に百点を取り、苦手なことは特になかった。
 強いて言うのならば、手加減というものができなかった。でも、そのくらいで彼女の優れた面は否定できないだろう。
 楓さんには本人の言う通り、知らないことなどなかった。
「だからね、未だに謎の多いところに務めてみたいの」
 この現代社会で、現代医学で、解明されていないことはたしかに少なくはない。それでもこの一言だけで僕には見当がついた。伊達に総合病院の跡取り息子ではない。
「……もしかして、心療内科?」
「当たり!」
 正直に言えば、最も楓さんに相応しいけれど、僕としては関わって欲しくない科だった。
 心療内科はうちの病院にもあるけれど、患者の精神状態によって医者本人が体調を崩すこともしばしばある。向精神薬を服用しながら、同じく向精神薬を必要とする患者を診る医者を、僕は何人も見てきた。
 その中には自分が罹る者も少なくはないのだ。
「やめておいた方がいいよ。興味本位でできる仕事じゃないし」
「やだ! 決めたの!」
 こうなると楓さんは梃子でも動かぬ、聞かぬ。
 お嬢様イコール我儘、というつもりはないけれど、楓さんにはその図式は当てはまっている面も多い。
 博学な上に容姿も可憐な楓さんの周りには、幼い頃から人が途切れたことがなかった。子供から大人まで、みんながみんな、楓さんのことが好きだった。
 見た目も頭もいいだけではなく、性格も穏やかで親切、学校でわからないことがあれば、楓さんの実家で勉強会ということもよくあった。
 彼女の父親は男子が関わるのをあまりいい顔をしなかったけれど、娘の願いには逆らえず、結局許可した。それでも楓さんに関われる男子はそう多くはなかった。
 僕は家が隣の幼馴染だからこそ、近づくことを許されたけれど、他の男子――楓さんがそれほど親しくないと認識している男子は傍に寄ることさえできなかった。
 いつも当たり前のように楓さんのそばにいられる唯一の男子だと思うと、僕は優越感に浸っていられた。けれど、それと同時にずっと心にあったのは、いつ見捨てられるのかという不安だった。
「……楓さんは一度決めちゃうと何を言っても無駄だから」
「よくわかってるじゃない! よーし、ご褒美に試験が終わったら美味しいもの奢っちゃう!」
 コーヒーの空き缶を二本、ゴミ箱に入れた楓さんは、伸びをしながらいい笑顔で僕にそう告げる。
「食事に奢るのは男の役目じゃないかな」
「ん? なにか言った?」
「いや、別に」
 僕は庶民、楓さんはお嬢様。
 お嬢様には庶民の常識など通じない。
 そしてこの日に受けた試験で、僕と楓さんは一発で医師免許を取得し、六年間の研修を受けることになる。


 研修といっても、まだ何科の医者になるとは決めない。
 決めるのは研修が終わってからであり、僕は楓さんに会う機会がなかった。
 それほどまでに研修は厳しく、忙しかった。
 あっという間に二十四歳から三十歳になり、やっと一応は研修明けの医者のひよこと認められる三十歳になった時には、僕は心療内科医の道を選んでいた。
 心療内科は軽い精神科の症状も診るし、内科の範疇の症状も診る。要は、精神科に行くほどでもない軽い精神疾患や、内科の診察も必要とする摂食障害などを診るところだ。
 実家の病院には精神科しかなかったから、僕の代で新設した科ということになる。
 そして、予想通りというか、予定調和というか、楓さんはうちの病院の心療内科医として勤め始めたのだった。
 初日は父に院長室に呼び出され、「どういうことだ」と問いただされた。父からしてみれば青天の霹靂だろう。
 まさか幼馴染のお嬢様が、未だに偏見の残る科に来るとは思ってもみなかったに違いない。それどころか、働くという選択をしたこと自体がもう既に予想外だったのだ。
「おまえ、医師免許を取りに行った時にでも会ったのか?」
「はい。一応、止めはしましたよ? それでも、本人がなりたいというのなら仕方がないじゃないですか」
「まったく、困ったことになったものだ。あのお嬢様には昔から振り回されっぱなしだ。おまえもおまえだ。なぜもっとしっかり止めなかったんだ?」
「聞くような性格だと思いますか?」
「……聞かんだろうな」
 ならば答えはひとつしかない。
「責任を持って、あのお嬢様を見張って、困った患者からガードしろ」
 そんな無茶苦茶な命令が下ったのだった。


 心療内科医になった楓さんは、あまり馴染みのないはずの白衣を翻して、僕の働く心療内科の隣の診察室で患者を診るようになった。
 メンタル系の科は基本的には患者の話を聴き、症状から大体の病名を推測する。いくら医者だからって、百発百中で病名を当てられるわけではない。患者の話をじっくり聞かなくてはならないのに時間が足りない、万人に効く共通の特効薬はない。メンタルの厄介な面はそういう数値で測れないところなのだ。
 しかし、そんなよくあることをものともせずに、楓さんの診断は的確だった。
 休憩時間に隣の診察室を訪ねると、大抵は患者となんでもないお喋りをしている。それも一応は診察の一環だ。
 淡いレモンイエローのシャツに赤いタイトスカート、その上に白衣を羽織った楓さんは、まさしくこれぞ女医さんといった感じで、見慣れた僕も見惚れてしまう。
「あ、誠司君!」
 患者らしき老若男女に囲まれていた楓さんはこちらに向けて手を振る。一見したところ、なんの屈託もないいい笑顔だ。
 患者の眼の前で親しい態度はどうかと思ったので、僕は頭を下げるだけだ。
「時雨坂先生、どうです?」
「誠司君ったら、他人行儀ね」
「公私混同はしない主義なので」
 そうは言っても、うっかり楓さんの白衣に見惚れた僕が言えたことではなかった。
「順調ですか?」
「順調ですよ!」
 楓さんは僕に合わせて笑う。周囲の患者たちも、本当に精神病にかかっているのかと疑わしくなる笑顔を向けてくる。
 まだ正式に精神科医になって間もないのに、この風格はどうだろうか。
 それに比べて僕は……と、軽くへこむ。
「そっちはどうなの? 心療内科って、やっぱり若い女の子が多いの?」
「えぇ、まぁ。摂食障害は九十パーセント以上は女性ですからね」
 すると楓さんは悪戯っぽく笑う。
「ハーレムじゃないの」
「やっ、やめてくださいよ!」
「真っ赤になっちゃって! ……図星だった?」
 こういうところは子供の頃から変わっていない。楓さんはお嬢様のくせにイタズラが好きなのだ、昔から。
 でも、そんなところが親しみの持てるお嬢様ということで、僕は好きだった。お嬢様ということを抜きにしても、僕は昔から楓さんが好きで、本人は覚えていないだろうけれど、大きくなったら結婚してくださいという子供の約束を申し出たひとりだった。
 楓さんのことが好きな男子は大勢いたし、僕ごときが楓さんに釣り合うような男だとは思っていない。
 僕は昔から意気地なしだったし、気弱だったし、どちらかといえば虐められるような子供だった。
 それでも子供独特の残酷ないじめに遭わずに済んだのは、楓さんが裏から庇ってくれたからだ。
 楓さんは自分を慕う男子に、それとなく根回ししてくれていたのだ。僕がその事実を知ったのは、虐められているクラスメイトをただ傍観者として見ていた時に「おまえも一歩間違ったらあっち側だった」と教えられたからだった。
 その時に感じたのは、自分がいかに無力で情けないかということと、楓さんのように頼りになる人になりたいという強い欲求だった。
 最初はただ、父の跡を継ぐためだけに医者になるつもりでいたのに、いつしか楓さんと一緒に働けることに喜びを感じるようになっていた。
 それに、あの子供の頃にはなかった感情――愛というものをこの歳になってやっと、うっすらとだけれど理解できた。
 理解できたのは心療内科医としては遅すぎるくらいだったけれど、恋や愛ということに関しては知識はあっても楓さんも経験はなかっただろう。
 僕は楓さんが好きだ。
 僕は楓さんを愛している。
 ならば、大人ならばすることはひとつしかない。
 プロポーズだ。
 僕はそう決めると、さっそく給料を貯め始め、それとなく楓さんの好みを訊き出した。
 いくら長い付き合いといっても、子供の時と大人では好みは変わるものだ。
 まして楓さんはお嬢様であり、モノには不自由したことがないに違いない。
 そんな楓さんが喜ぶ場所で、喜ぶものを贈りたい。
 準備が完了した時、僕は週末に食事でもどうかと楓さんを誘ったのだ。心臓が爆発するかと思うくらい緊張したけれど、楓さんはあっさりオーケーしてくれた。僕はこっそりとガッツポーズをとったのだった。


 楓さんは和食、特に精進料理が好きらしい。お嬢様にしては地味すぎる趣味だ。というか、渋い。
 そんなところで指輪を渡しても締まらないので、僕は美味しいと評判のフレンチレストランを予約した。もちろん綺麗な夜景もばっちり見える窓際だ。
 下見に行った時には、都会独特のネオンが瞬いていた。残念ながら星は見えないが、東京で星を見ようという方が無謀だろう。
 婚約指輪には、悩んだ。
 宝石など有り余るほど持っている彼女には、指輪の小さな宝石など石ころのようなものだ。だから敢えて楓さんが持っていないようなものを調べて、愛のパワーストーンと言われるムーンストーンをあしらった指輪を用意した。安物になりがちだけれど、淡いピンクが透き通る輝きが美しいものを選ぶとなると、それなりの値段になる。指輪本体だって純銀製だ。
 完全に満足はできなかったものの、これが僕の精一杯なのだと自分を納得させた。楓さんは宝石の値段で相手を見るようなことはしない。
 レストランのメニューもすべて試食して、ワインも最も美味しいものを選んだ。僕と楓さんは味覚はよく似ている。子供の頃からたまに一緒に食事をしてきたのは幸いだった。
 女性を喜ばせるというのがこれだけ手間のかかることだとは思ってもみなかったけれど、愛する人の喜び顔を想像しながらの下準備もまた、これほど楽しいものだとは思ってもみなかった。


 デート当日、僕たちは休みを取った。
 一か月前から休診の予定を張りだしておいたので、特に文句もなく、トラブルもない。まさしく、プロポーズには最適だった。
 デートに誘ったきっかけが「いつもお世話になっているお礼」という建前しか言えなかった僕は、やはり情けない。
 楓さんはそれでも「じゃあ甘えちゃおうかな」とにっこり笑ってくれた。ぜんぶお見通しなんだろうけれど、知らないふりをしてくれるのがありがたかった。ここで深く突っ込まれては面目も丸つぶれだ。
「それで? 今日はどこかに出かけるの? それとも――」
「今日は僕にまかせて」
 楓さんの言葉を遮って、僕はドキドキしながら、楓さんの小さな手を繋いだ。
 子供のようだけれど、車を止めてある駐車場まではまだ距離があるし、ばらばらに歩いていてはデートのようには見えない。もっとも、楓さんはこれをデートと認識しているのかは怪しいが。
「はい」
 手をゆわゆる恋人繋ぎにつなぎ直しながら、楓さんは素直に僕に従った。口から心臓が飛び出るかと思った。
 今日の楓さんは、もちろんいつもの格好ではなく、冬物のモヘア素材の白いニットのワンピースに赤いAラインコートを羽織っている。街でよく見かけるはずの格好なのに、彼女が着るとまるで別物に見える。
 僕がじろじろと見ていることに気づいた楓さんは照れたように、でも少し困った顔をした。
「子どもっぽかったかな? でも気に入ってるんだよねぇ」
「いや、とっても似合ってるよ。楓さんはかわいい」
 言った後で猛烈に後悔した。
 こういうことはイケメンが言うからこそ決まるものであり、僕のような平凡な容姿の奴が言っても決まらない。
 しかし楓さんはやはり格好いいことに、
「そう? ありがと!」
 とにっこり笑う。
 その笑顔は心をとろかすような、そんなうっとり見惚れてしまう笑顔だった。


 その後は定番デートコースにしかならなかった。
 まずは水族館でイルカのショーを見て、無邪気に笑顔になりつつ、楓さんの蘊蓄が入る。
「あのね、ああやってイルカってじゃれてるように見えるよね? でもホントはね、あれって親イルカが子供を虐待してるんだって」
「…………」
 なんともコメントに困る蘊蓄だった。
 その後も海洋生物のじゃれ合いを見るたびに、聞きたくない現実を突きつけられた。
 水族館の次は、定番のプラネタリウム。
 しかしここもまた、蘊蓄の宝庫であり、楓さんの係員よりも詳しい星座の開設を聞くこととなった。
「夏場には空気の綺麗なところなら北極星が見えるの。北斗七星は見つけやすいから、その直線部を二倍して――」
「う、うん、なるほど……」
 他のカップルは神話と人工的な星空のコラボレーションにうっとりしている中、僕は楓さんにより実用的な星の見方を解説されていた。
 水族館とプラネタリウムを回り終えると、外はもう夜。恋人たちの時間だ。
 生憎と僕と楓さんははっきりと『恋人』といえる関係じゃない、現時点では。
 でも、ずっと、子供の頃から彼女が好きだったことには何の変わりもないわけで。
 子供の頃にした結婚の約束も、僕の中ではまだ記憶に残っているわけで。
「……あの、楓さん、この後レストランに予約を入れてあるんだ」
「え? 意外だね。このまま帰るのかと思ってたよ」
「僕だっていつまでも子供じゃないんだよ?」
 この言葉の含むところがわからないような楓さんではない。
 少し身を固くした楓さんの手をそっと引いて、車に近づいていく。歩幅を合わせてくれているということは、少しは意識してくれているのかと期待してしまう。
「レストランってさ、和食?」
 デートの最中にそれを訊きますか。
 まったく色気のない。しかし、それでこそ楓さんだ。
「楓さんは食べ飽きてるかもしれないけど、フレンチ。でも美味しいところだよ」
「断言するということは、一度食べに行ったんでしょ? 計画的だね。でも誠司君の『美味しい』は確かだもんね。あー楽しみ!」
 しまった、楓さんに気づかれた。勘が鋭いから、プロポーズのこともお見通しなんだろうな。こんなことならサプライズとか言って和食にしておけばよかった。
 そんな後悔をしていても、車を運転している限りいずれは目的地に着く。
 レストランの駐車場に車を入れ、楓さんを伴って入口へ向かう。
 予約していたことを告げると、ボーイは僕のことを覚えていたようで、楓さんに聞こえないよう小声で「頑張って」なんてエールをくれた。その後は何事もなかったかのように「こちらです」と案内してくれる。
 夜景の見えるレストランなど楓さんは見慣れているだろうに、彼女は子供のように喜んだ。
「わたしね、暗くて高いところって好きなの! なんかワクワクしない?」
 喜びどころがどこかおかしくて、うっかり笑ってしまう。暗くて高いところが好きなら、後半はプラネタリウムじゃなくて、遊園地にすればよかったかもしれない。ちょうど外は薄暗くなっていたことだし。
 そんなことを考えている時、前菜が届き、本格的な食事の時間となった。
 ナイフとフォークを動かしながら、時にワイングラスを傾けながら、僕と楓さんは料理に舌鼓を打った。
「美味しいね!」
 そう楓さんが笑うたびに、僕はほっと胸をなでおろす。
「よかった……」
 はっきりいって、もう味などわからないくらいだった。
 大人になった楓さんとふたりきりで、その上にこの後にはプロポーズを控えている。緊張しない方がおかしいだろう
 ラストのデザート、イチゴのミルフィーユを切り分ける楓さんの手元を凝視して心を落ち着ける。
「あの……楓さん」
「なに?」
 僕は思い切って婚約指輪の入ったケースを彼女に差し出した。たとえ、楓さんにとってはよくあることだとしても、プロポーズする側である僕は必死だ。
「僕と結婚してください! 結婚を前提にお付き合いしてください!」
 よくある、ありふれた、陳腐でポンコツな言葉。
 だけど、僕に言えるのはやはりこれしかなかった。
 楓さんは特に驚いた様子もなく、黙って指輪を見つめている。
「わたしでいいの」
 一瞬、彼女が何を言っているのかが理解できなかった。
 こんなことが以前にもあった気がする
 そうだ、医師免許を取りに行った時だ。あの時も何を言っているのか理解できなかった。
「本当に、わたしでいいの?」
 念を押すように楓さんは繰り返す。
「もちろん! 楓さんだからこそ、結婚して欲しいって思うんだ」
 僕のあまりにも必死な剣幕に、楓さんは驚いたようだけれど、すぐにいつもの冷静な顔に戻った。そしてハンカチを取り出す。綺麗にアイロンがかかっている
「なにを泣いてるの」
 呆れるように、それとも出来の悪い子供でも見るように楓さんは僕を見た後、自分の目元を指差した。 
 僕はその時になってやっと自分が泣いているのだと知った。
「しょうがないなぁ、誠司君は!」
 楓さんはなんでもないことのように、また笑った。


 それからの日々は、よくある表現だけど、人生がバラ色に変わった。
 あの食事の席でのプロポーズは見事に成功し、僕と楓さんの関係はちゃんとした『恋人同士』になり、定期的に休みを取ってデートに出かけるようになった。
 楓さんが喜びそうな遊園地にまず行って、遠出して海にも行った。オープンしたばかりのテーマパークにも行って、コースターをすべて制覇した。
 そして、楓さんの実家にも行った。用件はひとつしかない。
 ヨーロッパに建ててあってもなんら違和感のない時雨坂家は、今日の僕の訪問を待ちわびているのだと楓さんは言った。僕は緊張で昨日はほとんど眠れなかった。
 楓さんの父親は悪い人ではないし、それどころか、いい人の部類に入る。しかし、大事な一人娘を、よりにもよって忙しい医者のところに嫁にやるとなると、厳しい顔をせざるを得ないのだろう。
 楓さんの父親、将来の僕の義父は、対面した時から厳しい表情を崩さない。彼の部屋には暖炉があり、薪がぱちぱちと音を立てて爆ぜている。
「…………」
「…………」
 『お義父さん』も、楓さんも黙りきっている。父娘は互いに目を見つめ合っていて、僕の入り込む余地などないように思えた。
「ところで、いつまで黙っているつもりだね?」
 ぱちっと薪の爆ぜる音が部屋中に響いたと同時に、お義父さんは口を開いた。楓さんは僕の方をやっと見てくれた。
 やっとこれまでの沈黙の意味がわかった。僕が定番の「娘さんを僕にください」という言葉を待っているのだ。
 お義父さんは日本人離れしたノーブルな顔立ちをした、洋風紳士だった。日本人らしい、小柄で幼く見える楓さんはきっとお母さんに似たのだろう。そんな関係のないことを考えた。
「あの……えっと、すっ、すみません!」
「ちょっと、しっかりしてよ。格好いいところを見せて?」
 楓さんが吹き出しながらそんな無茶を言う。
 幼馴染だから互いに家を行き来していたこともあったおかげで、幸いにも僕は他の男より有利だ。お義父さんとも面識があるし、それなりに互いのことを知っている。
 だから、ここは僕らしく飾らない自分の言葉で楓さんを下さいと言いたかった。
「むっ、娘さんを、楓さんを幸せにします! 絶対に!」
 しかし悲しいかな、長年しみついた僕の意気地のなさが、この大事な局面で露呈してしまった。楓さんも、お義父さんも、しんと黙り込んでしまった。よりにもよって、こんな大事な時にどもるなんて、最悪だ。
 これは失敗したのか。
 思わず頭を抱えたくなった時、部屋中に男女二人分の笑い声が響いた。
「ははははは……」
「あはははは……」
 楓さんも、お義父さんも、腹こそ抱えていないものの爆笑している。笑うとやはり親子なのだと実感する笑顔だ。
「絶対に幸せにするんだね?」
「はい、もちろんです!」
 僕はもとよりそのつもりだった。
 ずっと好きだった楓さん、ずっと憧れていた楓さんと結婚。僕にとって、これ以上の幸せはない。
 幸せにする自信は、正直に言えばなかった。でも自信はなくても、幸せにしたいという気持ちだけは無限にあった。
 笑い過ぎて泣き笑いになっている楓さんは、僕を頼りない男だと思っているのだろうか。
「それじゃあ式はいつにしようか?」
 お義父さんはやや早すぎないと思えなくもない言葉を口にした。
 こうして、最難関だと思っていた花嫁の父親の説得は思った以上に上手くいったのだった。
「……絶対に、幸せにしてね?」
 そう言いながら手を握ってくる楓さんも、幸せいっぱいというように満面の笑みを浮かべていた。
 僕と楓さんは、桜の咲くころ、春に式を挙げることとなった。


 結婚式の日取りが決まってからは、楓さんは僕の贈った婚約指輪を仕事中にもつけているし、僕もまたそれとペアになっているものを指につけていた。
 僕と楓さんが結婚するという話は、既に院内に広がっていた。
 父は最初こそ楓さんとの結婚にあまりいい顔をしなかったものの、だいぶ老朽化が進んでいる病院の修繕費を時雨坂家が援助してくれるかもしれないとでも思ったらしく、特にうるさくは言ってこなかった。
 僕はお金目当てで楓さんにプロポーズした訳ではない。態度には出さないものの、そう言いたげな父の姿に、僕は辟易していた。
 また、結婚後には新居をどうするかという話もまとめなければならなかった。
 互いに一人息子に一人娘であり、僕は病院の跡取りで、楓さんは良家のお嬢様だ。当然、両家の間で揉めることになった。
 そこで折衷案として、結婚と同時にマイホームを購入するということで妥協した。父はあまりいい顔をしなかったものの、お義父さんは嫁姑問題に気を揉む必要がないと、むしろ安心した様子だった。
 すべてが順調、すべてが希望に満ち溢れている。僕はこの世のすべてが輝いて見える時期を過ごしていた。
 しかし、異変が起きたのはその頃からだった。


「あれ?」
 朝早くに心療内科のドアを開けると、そこには猫の死骸が横たわっていた。消毒用エタノールがうっすら香る病院内で、それは異臭を放っていた。
「うっ!」
 迷い猫だろうか。猫は死期を悟ると、誰もいない所でひっそりと死んでいくと聞いたことがあった。だとしたら、入院患者もいるような病院内を最期の地に決めるというのは、いささか不自然だ。
 それに、はっきり人間の手のものだとわかる刺し傷があった。それが致命傷だったようだ。
「……まさか、誰かのイタズラ? 嫌がらせ?」
 幸福の絶頂に水を差したい誰かの悪意から、この猫は犠牲になったのだろうか。
 人気者の楓先生を独り占めにする憎い奴――そんなやっかみが生まれたとしてもおかしくはない。僕本人ですら、楓さんと結婚するというのが未だに夢のようなのだから。
 まだ他の医者は誰も来ていなかったし、こんなところを見られて下手に騒がれたくもなかった。最悪、結婚式が延期、もしくは結婚自体がなくなるかもしれない。
 体面というのはそれだけ大事なものだと父に幼い頃から言われている。
「ごめんよ」
 僕はもう冷たくなった猫の身体を抱き上げた。
 あれだけ身軽な生き物なのに、生命活動が終わってしまうとこんなにも重くなるのかと感傷に浸りながらも、どうにか中庭の花壇まで運んだ。傍には樹木も植えてある。墓にはちょうどいいだろう。
「あれ? 誠司君なにしてるの?」
 ぎくりとした。
 それは今、最も聞きたくない人の声だったからだ。
「……楓さん」
 楓さんは早番だったのか、すでに問診の時のいつものスタイルで遠巻きに僕を見ていた。思わず、猫の死骸の入った段ボール箱を抱え込んで隠そうとしたけれど、目ざとい彼女にはすぐに見つかってしまった。
「それ……なに? すごいにおい……」
 重い荷物を抱えた僕と、何も持っていない楓さんの足取りの軽さは段違いで、すぐに追いつかれてしまった。中を覗かなくとも、この匂いだけで楓さんには中身が大体わかっていたのだろう。
「かわいそう」
 楓さんは神妙な顔でそう呟いた。そして偶然花壇に差してあった、小さなスコップを見つけてきて、穴を掘ってくれた。
 それほど深くは掘れなかったけれど、花壇に咲く花の匂いがこの匂いを消してくれるだろう。僕たちはふたりきりで猫の遺骸に土をかけていった。
「かわいそう、だよね。……誰がこんなことをしたんだろう?」
「さぁ? ストレスでもたまってたのかな? わたしの患者さんは、みんな回復に向かってると思ってたんだけどな。……わたしもまだまだ未熟だったのかも」
「いやいや、なにもここの患者さんが犯人って決まったわけじゃないでしょ。成仏できるようにお祈りをしてあげようよ」
「優しいね、誠司君は」
 ぽつりとつぶやいた楓さんの顔は、髪が邪魔で表情が見えなかった。
 
 その後も、妙なことは起こった。
 ある日には首輪がついたままの子犬の死体が僕のデスクの上に置かれていたし、また別の日にはカルテがバラバラにされていたりもした。
 イタズラにしては悪質で、度が過ぎていることは言うまでもない。
 いったい誰がこんなことをしているのだろうか。
 楓さんに相談してみようかとも思ったけれど、彼女との結婚式が四月に迫っている。嫁入り前でバタバタしている楓さんを困らせるわけにはいかず、かといって警察に訴え出るのもどこかはばかられた。
 結果、僕はただ怯えて過ごすしか手はなかった。
 夜中に頻繁に目覚めるようになり、とうとう睡眠障害としか判断できない症状に罹ってしまった。医者の不養生というが、これは僕のせいではないはずだ。

「大丈夫、じゃないよね? 隈がそんなにひどいことになっちゃって」
 楓さんの診察室を訪ねたのは、式の半月前。
 彼女のところに来よう来ようと思っているうちに、仕事に忙殺され、デートの回数も減っていた。原因は仕事だけではなく、僕自身の体調不良も原因だった。
 さすがの楓さんも、問診後に処方箋を書きながら呆れていた。
「わたしとの結婚が迫ってるんだから、無茶はしないでよね?」
 さらさらとボールペンを滑らせながら、楓さんらしくない拗ねた口調で言った。子供の頃から、彼女のこんなところは見たことがなかった。ひょっとして僕が思っている以上に、僕との結婚を楽しみにしてくれているのだろうかと嬉しくなる。
「……なにニヤニヤしてるの?」
「いえ、なんでもありません」
 僕は楓さんとペアの婚約指輪を久しぶりに眺めた。淡いピンクのムーンストーンは僕たちにどんな幸せな生活を与えてくれるのだろうか。
「今夜、久しぶりにデートしない?」
 不意に耳元で楓さんが囁く。
 最近はすっかりデートどころではなかったし、このお誘いは嬉しかったので、すぐに了承した。今日はどこに行こう。
 デートプランをいくつか検討している僕に、楓さんはきっぱりと言った。
「今日の行き先はわたしが決めてもいいでしょ?」
「え? もっ、もちろん! 楓さんおススメの場所ってどんなところ?」
「それは秘密。その方が楽しそうでしょ?」
 楓さんはそれ以上は教えてくれなかった。僕もそれ以上は訊くつもりはなかった。この手の秘密はその時が来るまで内緒の方がずっと楽しい。
「じゃあ、午前で上がりだから、わたし。誠司君は?」
「僕も今日は午前までだから。何日ぶりだろう?」
 すると楓さんはまた笑った。
「もう。たかが数日でしょ? ずっとね、前から行きたいって思ってたの」
 楓さんの行きたい場所って、どんな場所なんだろう。


「先生、午前の診察は終了です。お疲れ様でした」
 ナースのひとりが、午前最後の患者のカルテをしまいながらそう告げる。
「ありがとう。……もう二時か。まずは楓さんと合流して、食事かな」
 独り言をつぶやいていると、ナースは羨ましそうにこちらを見た。
「いいですね、先生は。あんな綺麗な人と結婚だなんて。あーあ、なんであたしは病院勤務なのにイケメンの医者が言い寄ってこないんだろう」
「あはははは……」
 ナースの独り事を軽く聞き流して、僕は着替える。
 心療内科ではここは病院なのだという先入観をなくして、患者に楽にしてもらえるよう、医者の証である白衣を着ない。うちはそういう方針だけれども、他はどうなのかまでは知らない。
 白衣がない分、ファッションには気を遣わねばならず、なかなか難しい。オンオフの切り替えは着替えという手段しかない。
 今日は問診の時に着ていた服に、用意しておいた春物のジャケットを羽織って、それで準備は完了。あとは楓さんと合流すればいい。
 隣の診察室はもうすでに午前の診療は終わっていて、楓さんは診察室の中で待っていた。
 心療内科は思い当たることを詳しく話す必要があるため、プライバシーの保護は最重要だ。だから完全個室が普通である。
 その個室の中で、楓さんはカルテを読みこんでいた。同じ医者とはいえ、他者のプライバシーは踏み込んではいけないので、見えるけれど見ない。紙の質から、コピーなのだと思ったが、そういうこともあるだろう。
「誠司君は早かったんだね」
 楓さんはカルテを隠すように素早く棚に仕舞い、白衣を脱いでハンガーにかけた。今日はいつもよりラフなオフホワイトのパンツに淡いピンクのトップスを中に着ていた。
「じゃ、行こうか」
 楓さんは素早く身支度を整え、小型のバッグを手に持った。その中から車のキーを出した。
「今日はわたしが運転するからね」
 いつもは行き先は相談して決めてから僕が運転するので、楓さんが運転するところを見るのは初めてだ。
「安全運転で頼むよ?」
「まっかせなさい」
 楓さんは白い歯を見せて笑った。


「あの……楓さん? どこに向かってるの?」
 楓さんの運転する、彼女らしくない安物の軽自動車は、既に一時間以上走り続けている。
 もう東京郊外に出たところだろうか。景色がのどかだ。しばらく眼を閉じていてもなにも違和感はないかもしれない。
「どこだと思う?」
 換気のために開けた窓からは、潮の香りのする風が入ってくる。海だろうか。
「わからないな」
「ふふっ」
 なにがおかしいのか、楓さんはこれまで見せた事のない、妖艶な笑みを浮かべた。綺麗なはずなのに、なぜか背筋がぞくりとした。
 そのまま車を走らせて、更に二十分ほどすると、倉庫が見えてきた。どう考えてもデートの場所とは思えない。
「あの……ここは?」
「見ての通り。倉庫」
 それはわかっている。僕が訊きたいのはそういうことではないのだ。
「先にその適当なところに入っていて。ほら、かくれんぼしましょうよ」
「え、でも――」
「いいから!」
 楓さんはこれまたこれまで聞いたことのない、ヒステリックな金切り声を上げた。いつもの声と同じとは、とてもではないが思えない。
 息を荒げながら、楓さんは後部のトランクの方に回った。
 何やら釈然としないながらも、僕は楓さんの指示通り、倉庫の中に入る。中は真っ暗で、何も見えない。
 そこに突然明るい光が灯った。楓さんがハンドライトのスイッチを入れたのだ。
「暗いね」
 くすくす、と子供のような笑い声を上げながら、楓さんは僕に便箋を差し出した。なぜか僕の愛用の万年筆まで、彼女は持っていた。
「暗いところで書かなきゃ、真実味がないから」
「あの、どういう――」
「わたしね、あなたのためなら死ねるって人と結婚したいの。それがわたしの幸せなの。……誠司君はわたしを絶対に幸せにするって言ったよね? だからね、わたしのために死んでほしいの。わたしは誠司君を愛してるから。誠司君だって、わたしのことが好きでしょ? 愛してるでしょ?」
「……楓、さん?」
 いきなり何を言い出すのか。
 僕たちは半月後に結婚して、ふたりとも幸せになるはずじゃなかったのか。
 それなのに、なぜそんなことを言うんだろう。
「さ、ここに遺書を書いて欲しいの。わたしも誠司君が死んだら生きていけない。ずっとひとりぼっちになる。そんなのは嫌。だからね、わたしも後を追うの。そうすればわたしたちはきっと、永遠に一緒よ」
 恍惚とした表情で語る楓さんは、もはや僕の知っている彼女とは別人だった。
「さぁ、早く書いて。わたしのことを愛してるって」
 それが楓さんの望む、愛の形。
 楓さんの望む、永遠の愛。
 ならば、僕のすることといえばひとつしかない。
「……わかった」
 僕はごくりとつばを飲み込み、万年筆を握る。その手に汗が滲む。
 一文字一文字、僕と楓さんの愛を刻む。
 教会で誓う永遠の愛とやらがひどく子供じみたもののように思える。
 僕たちは一緒に死ぬことによって、永遠に愛し合うことになるんだ。
 振り返るたびに、淡いながらも逆光で楓さんが微笑んでいるのがわかる。
 僕は頷いて、続きを書いていく。
 その時間は永遠のように思えたけれど、ちゃんと終わりは来た。
 僕が死ぬ時間。
「……死ぬ前に一つ訊きたいんだけどいいかな?」
「なに?」
「猫や犬を殺したり、カルテをバラバラにしたのは、楓さん?」
「…………」
 彼女は答えない。
 けれどその事実が雄弁に、彼女がやったということを示していた。
 僕と楓さんは幼馴染、困った時には沈黙するということを僕は、僕だけは知っている。
「頂戴」
 楓さんは僕から遺書を受け取ると、ライトで文面をチェックした。どうやら問題はないらしい。
「楓さん、最後に、死ぬ前に、結婚の誓いをしよう」
 僕は楓さんにキスを迫る。
 が、その前に腹部に鋭い痛みを感じて、思わず腹部を押さえながら、僕はコンクリートの床に転がった。
「か、え……でさ、ん?」
「大丈夫よ。ちゃんと苦しまないように殺してあげるから。なんにも心配はいらないのよ。あとのことはすべてわたしに任せて?」
 刺さった刃物が引き抜かれ、血がどっと溢れだしたようだった。血液の量は暗くて見えないけれど、きっと致命傷なのだろう。当然、呻き声を上げるような余裕はない。
「――わ」
 楓さんのあの軽やかな声が、暗くて狭い倉庫内に響く。
 けど、なぜだろう。
 あの夏の日のような、爽やかさは全然感じられないんだ。
 楓さんの表情は真っ暗で見えないまま、僕はゆっくりと意識を手放してゆく。暗くて、楓さんの表情は見えないけれど、きっと微笑んでいるに違いない。僕と楓さんの愛は永遠になるのだから。
 最愛の女性に文字通り命をかける生き方も、悪くはない。むしろ幸せだ。
 最期に楓さんに愛を囁けないことだけが心残りだった。?




 Side K


 わたしは、お嬢様だった。
 幼い頃から優しい大人に囲まれて、誰もが羨むお屋敷に住んで、好きな習い事をして。そんな子供時代を過ごした。
 インフルエンザで熱を出した時には、家政婦さんが自分の子供をほったらかしで、わたしの熱が下がるよう、手配してくれた。
 わたしは愛されていたし、守られていた。
 お金ならばたくさんあった、余るほど。
 小さい頃から好奇心旺盛だったわたしは、なんでも知りたがり、専門家を金にものを言わせて呼びつけた。
 本当にわたしは恵まれていた。
 わたしは幸せな子供、選ばれた子供、特別な子供だった。
 周囲の大人も、同年代の子供も、みんながわたしを「かわいい」と言い、だからわたしも自分が「かわいい」のだと知った。そして、だから周囲がちやほやしてくれるのだと思っていた。
 満たされていた日常、その反面で、退屈な日常。
 小学校に上がるころには、学校で習うようなことはだいたい知っていたし、クラスメイトともみんなと仲良くなった。そこでもちやほやされていたとでもいうべきか。
 そんなわたしでも知らないことがあった。
 『悲しい』と『苦しい』。
 わたしはその感情がどうしても知りたかった。
 でも、満たされた生活を送っている限り、決して知ることのできない感情だと理解していた。概念は理解していても、感情というものは、実感が伴わなければ本当の意味での理解はできないのだ。


 わたしは幼い頃は幸せだった。
 ということは、今はそうではないということだ。
 周囲はわたしを今でも『お金持ちの良家のお嬢様』として見るけれど、実は母が亡くなってからは我が家は一気に没落したというか、極貧になった。
 その時にやっと、『悲しい』と『苦しい』の両方の感情を理解できたのは、まったくもって皮肉と言う他はない。
 もう家政婦さんを雇うお金もなかったし、わたしも働かなければならなくなった。
 お父さんはどうにかできないものかと策を練ったものの、まず最初にお金がなければどうにもならないことも世の中にはある。わたしはそのことを生まれて初めて、身をもって知った。
 お金はなくなったけれど、わたしには周囲が褒めるような頭脳は残された。それを活用するしかないと思った。
 それに、ひとつだけ、我が家の極貧生活からの突破口を見つけたのだ。
 幼馴染である誠司君は、総合病院の跡取り息子だった。
 これを利用しない手はない。
 わたしは医者になるついでに、彼のそばに寄った。ただ、それだけでよかった。彼がわたしのことを好いているのは、子供の頃から知っていたのだから。
 予想通り、わたしが医者になって彼の病院に務めるようになると、毎朝彼と顔を合わせるたびに笑ってみせた。幼い頃から誰にでも愛されてきた笑みを、惜しみなく。
 すると、わたしのもくろみ通り、彼はらしくもなく行動を起こしてくれた。安物のムーンストーンが嵌った婚約指輪でわたしにプロポーズしてきたのだ。
 しかし、そのプロポーズは最悪だった。
 わたしは昔から京懐石料理が好きだったのに、フレンチレストラン。
 パワーストーンなんてダサいもの、大嫌いなのに、よりにもよってムーンストーンの指輪。
 夜景の見えるレストランといっても、覗き込めば排水パイプが張り巡らされている、三流の店。ミシュランにも載っていない味だ。
 そんな店でプロポーズだなんて、わたしも侮られたものだ。昔から、気の利かないところは吐き気がするほどに変わっていない。
 けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。
 優先すべきは将来彼が相続するであろう遺産だ。
 誠司君は実家こそ総合病院で金持ちだけど、成金趣味は隠せない。
 いつも着ている服はどれもブランドものだったけれど、太り過ぎの体型にはそれは全然似合わないし、コーディネイトセンスもない。数百万はする腕時計だって、やっとベルトがしまるほど、無駄に贅肉がついた腕はどうにかならないものか。
 それでもわたしは耐えた。
 耐えて、耐えて、耐え抜いて、必ず昔のような華やかな生活を取り戻してみせる。
 でも、レストランに行くたびにいつも食べ物を口の中に詰め込んで喋ったり、くちゃくちゃ音を立てて食べるような男とは一緒にいたくない、絶対に。
 もっと爽やかなイケメンならば、おとぎ話さながらに『めでたしめでたし』で終わりなのに、誠司君はその真逆で、いつもわたしを失望させた。
 だから、わたしは決めたのだ。
 式の日程を決めて、要は手っ取り早く目の前にニンジンをぶら下げて遺書を書かせて、殺す。
 たとえ財産を譲るという文章がなくても、結婚直後は財産分与の権利などないだろうし、あったとしてもわたしの取り分など雀の涙だろう。
 ならば、婚前に関係があったという文章を入れるよう、自然に誘導して、既成事実があるのだと周囲に思わせてしまえばいい。
 そう、わたしは誠司君を殺すことにしたのだ。
 誠司君は今でもわたしをお嬢様だと思っている。
 今のうちに、殺さなくては。


「死ぬ前に、結婚の誓いをしよう」
 死を覚悟した勘違い男ほど、手に負えないものはない。
 彼は真剣そのものだが、その唇には間食した時についたと思しき青のりがついていると知っているのだろうか。
 わたしは吹き出しそうになるのをこらえながら、隠し持っていた折り畳みナイフをそっと開いた。それは暗闇の中でも鋭い光を放っていて、刃先がどこを向いているのか、わたしにはわかる。
「大嫌いだったわ、アンタみたいな豚」
 わたしは、誠司君が死ぬのだと確信して、最期に本音を教えてやる。これはわたしなりの仏心。最期まで真実を知らないなんてかわいそうだから。でもきっと、このおめでたい勘違い男には、「愛してるわ」とでも聞こえるのだろう。それでも別に構わない。どうせこの男は間もなく死ぬのだから。
 わたしは彼の書いた遺書を確認する。
 筆跡と万年筆のインクの成分はばっちり、本人のものだと判断されるだろう。
 あとはわたしは、ただ婚約者が錯乱して自殺した、それに巻き込まれそうになった悲劇のヒロインを演じればいいだけだ。
 ナイフを握る時には、ちゃんと指紋がつかないよう、外科から拝借してきたゴム手袋をはめていたし、あとは誠司君の手に握らせて彼本人の指紋をつければいい。
 わたしは血のにおいが充満する倉庫を出て、潮風香る海のそばで思い切り伸びをする。
「……あれ?」
 すっきりしたはずなのに、なぜか涙が出てきた。
 涙を流すなど、母が死んだとき以来だ。
 てっきりあの時から涙は枯れてしまったのだと思っていたのに、こんな時に涙が流れるなんて滑稽だ。まさか、わたしはあの男を愛していたのだろうか。あんな、冴えない親の七光の豚を。まさか、そんなはずはないじゃない。
 だとしたら、わたしは二度と取り返しのつかないことをしたことになるじゃない。賢いわたしが、そんな失敗なんてするわけがないじゃない。そうよ、そんなはず、ない。
「あはははは! はははははは!」
 わたしは自分が笑っているのか、それとも泣いているのか、わからなくなった。?




×××


 街はずれの小さなクリニックのカルテの中に、それは紛れ込んでいた。最近だれかが持ち出したのか、担当医は数年ぶりにそのカルテを確認したことになる。
 担当医、坂本昇。患者氏名、時雨坂楓。
「最近来ないねぇ、あの美人さん」
「先生、時雨坂さんも忙しいんですよ。なにせ、差し押さえ直前ですからね。おとうさまももう若くはないですし、就職どころか退職の年齢ですし。それ以前に、働く気はあるんでしょうか?」
医者はタバコに火をつけながらつぶやく。
「……あの家も、昔はそりゃあもう、名家って有名だったのになあ。先代があれだけ金のかかかる病気に罹らなきゃ、奥さんだってちゃんと治療を受けられて、今も存命だっただろうに」
「え? あの家が傾いたのって先代の病気が原因なんですか? あたしはてっきり――」
「奥さんは幼い娘さんを遺して、さぞ無念だっただろう。でも、まぁ、そこは盛者必衰ってやつだろうよ。いくら栄えようともいつかは滅びるのさ。うちのクリニックを見てみろ。昔は繁盛してたのに、今は開店休業のようなものじゃないか」
 言いながら、医師はどうでも良さそうにカルテを放り投げた。
 カルテは風に乗り、開け放した春の空へと飛んで行った。
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