執筆応援企画SS集

愛惜の匂い

「匂いって、個人情報だよな」
 俺はボタンを留めながらポツリと言った。
 高校の男子更衣室の中には着替えの遅い俺とそれに付き合う孝臣の二人しかいない。いつもならゆっくり着替える俺を孝臣が待つのがお決まりだが、今日に限っては俺は既に着替え終わっている。
「……は?」
 孝臣は理解できないものを見る眼をした。
 しかし人当たりのいい奴だから、すぐに曖昧な笑みを浮かべた。匂いと違ってこの手の処世術の表情は誰が浮かべても変わらない。
「七瀬って匂いフェチだもんな。マニアは細かい違いが分かるってことか」
「ちげーし」
 俺は充満するみんなの匂いを存分に吸い込んだ。
 男子更衣室。
 夏場は特に汗と別の何かの匂いが混ざり合って刺激臭すらする。絶対風呂入ってない奴いるだろ。女子の方は知らないが、男子だけを集めた空間の匂いは相当癖がある。
「はー! たまんねぇ……」
 まぁ、そんな癖のある匂いが好きで好きでたまらない俺みたいな奴にとってはご褒美なんだけどな。
 大きく息を吸い込んで存分に匂いを堪能した。
「なんかアレだ、猫もそんなカンジだよな。靴下の匂い嗅いで『たまらん! もう一回!』みたいな反応するやつ」
「フレーメン反応だろ? 猫の気持ちもわかるなあ」
 俺はそんな感じで混沌とした匂いが好きだった。みんなの匂いが混ざり合ってひとつの匂いができているような気がして。みんなで力を合わせて……みたいな感じで。
「ちょっと何言ってるかわかんない」
 孝臣は本気で理解不能だという顔をしている。
 ただ、他の奴と違ってバカにしたような色はない。純粋に理解できないだけという顔なので俺もバカにされたとは思わない。
 孝臣のこんなところが好きだった。

「は? 意味わかんない」
 ちょっと気を許したタイミングでこの話をすると、みんな必ずこれを言った。
 続く言葉はいつも似たり寄ったり。
「変態」「気持ち悪い」「お前、絶対おかしいよ」
 そこまで言われるいわれはないだろ。
 俺はただ匂いが好きなだけだ。お前らが巨乳が好きとか尻が好きとか、それと同じだろ。ただのフェチの話だ。
 なのにいつも、俺が男の匂いに興奮すると言うと気味が悪いという拒絶の視線を向けられる。

「俺はただ、男の匂いを嗅ぐのが何より好きなだけなのに」
 なんで異常者を見る眼で見られるんだか。
「はは……」
 ロッカーからシャツを取り出した孝臣が羽織ろうとしたので、俺は阻止するように抱き着いた。
「孝臣の匂い気に入ってるんだよ。この学校入ってよかった」
 俺は気分直しにシャツを羽織る前の孝臣の背中に抱き着いた。スラックスは穿いたものの上半身は裸だ。そのまま生の孝臣の匂いを存分に堪能する。
「はー、生き返るぅ。くんかくんか……」
「……おい。さすがに頬擦りはやめろって」
「お前っていつもすげぇいい匂いするよな。何食ってんの?」
「別にフツーの食事だよ。お前体育の後は特に匂いフェチ悪化してないか?」
 体育直後は汗と混ざり合って複雑な匂いに変化している。ある意味期間限定の匂いだ。
「期間限定なんだから好きに嗅がせろよ。あーたまらん! キくぅ!」
「それだけ聞くとなんかヤバそうな響きだな……」
 俺への気遣いなのか、孝臣は羽織ろうとしていたシャツを更衣室のベンチに置いた。 
 観念したように孝臣は軽くため息をついた。
「もう好きにしろよ」
 存分にくんかくんかしてもいいということだろう。
 言われた通り好きにする。
 孝臣の背中から直に匂いを味わう。ずっと好きだったこの匂い。
「俺さ、マジで孝臣の匂い気に入ってるんだよな。今まで嗅いだ中で一番いい匂いがする」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
 着替えを中断した孝臣はベンチに腰掛ける。俺も合わせてしゃがむ。
「……だからさ」
 この匂いを嗅ぐのが最後だとは思いたくはない。
 けど言わずにはいられない。
「俺、わかるんだよ」
 一瞬孝臣がぎくりをしたのを俺は見逃さなかった。
「なにが? 俺が女子と付き合ってたことか?」
 すぐに何事もなかったように普段の調子を作っているようだが、俺にはそんなこと考えるまでもなくわかった。
 俺は続ける。
「お前やっただろ?」
「さすがの俺も白昼堂々学校で、なんてできないさ。バレるリスクが――」
「違う。そうじゃない」
 わかってんだろ。
 とぼけんじゃねぇよ。
「殺っただろ?」
 俺には最初からバレバレなんだからさ。
「……」
 孝臣はしばらく黙り込んだ。ピクリとも動かない。
 やがて重苦しい声音で尋ねる。
「なんでそう思うんだ?」
「あれ? なんでそれ聞くんだ?」
 わかっていてとぼける孝臣。
 孝臣の意図がわかっていてとぼける俺。
「今までの話の流れなら俺が気づいた理由なんて明らかだろ?」
「……俺から血の匂いがするって?」
 女子としたときに自分にも移った、なんて言い逃れできると思っているのか。
 大体そんな言い訳をされてもそんなちょっとなんて量じゃない。
「お前が実は女の子でした、なんて言うなら別におかしくはない。でもお前は確実に男だろ」
 服を着ていない剥き出しの孝臣の胸には筋肉はあっても、柔らかいふくらみはない。
 茶化すように孝臣は薄く笑った。
「見えないけど鼻血が出てたりしてな」
「それもない。というか、俺は血の話はしてない。最初から言ってるだろ?」
 徹底してはぐらかす気なのかもしれないがそうはいかない。
「俺にとって匂いは個人情報だって」
 ことあるごとに「変態」と言われてきた匂いフェチを舐めるな。
 ひと嗅ぎすればそれが誰の匂いなのかなんて即特定できるんだよ。そんなこと誰よりもお前が一番知ってるだろ孝臣。
 ずっと俺と一緒にいたんだから。
「……」
「おい、なんか言えよ」
 なんでこんなこと言わなきゃならないんだ。
「お前が言わないなら俺が全部言ってやろうか?」
 最高の体臭を持つ男と別れるなんて、俺だっていやだ。
「お前からお前以外の奴の匂いがする。女子の体臭、甘ったるい香水、整髪料の安っぽい匂い。そして俺はこの匂いが誰のものか知ってるし、昼からそいつの顔を見ていない」
 言わせんなこんなこと。
「……」
 孝臣はずっと黙り込んだままだ。
 さっきのように明確な否定も弁解もしない。
 沈黙の意味は肯定しかなかった。
「なぁ……」
 俺は未練たらたらで孝臣の背中の感触を味わった。
「なんですぐバレるって知ってて、俺以外の奴とハグしたの?」
 正直、孝臣が誰かを殺そうが殴ろうが、それはどうでもよかった。
 俺が何より許せないのは俺のお気に入りの匂いに他人の匂いが混ざることだ。しかもこんなにぷんぷんさせて。
 本当に腹が立つ。
「お前は俺だけのものだろ?」
 まるで貞淑だと信じていた妻に浮気される夫になった気分だ。
 孝臣だけは他の誰にも興味がないと思っていたのに。ずっとつるむ相手は俺だけだと思ってたのに。孝臣から漂うのは孝臣自身の匂いと俺の匂いだけだと思っていたのに。
 俺以外の奴の匂いが混ざっているのが我慢ならない。
「……」
「なぁ、なんで?」
 この匂いは俺だけが知ってる匂いだったはずなのに。
「ごめん……」
 口では謝りながらも、表情は全く悪いと思っていなかった。
 窺い知れるのは怒りと焦りと苛立ち。俺への悪感情。
 俺への失望。
「やっぱり……お前と一緒にいるの、つらいわ」
 怒りと焦りが混ざったような匂いは初めて嗅ぐ孝臣の匂いだった。体臭なんてそう簡単に変わることはない。
 なのに容易く孝臣の匂いを変えてしまう相手がいる。
「そう思って女子と付き合ってみたんだけど……なんかめんどくさくて。ついやっちゃった」
「じゃあ今まで通り俺と――」
「お前といるのがつらいからやったんだけどな」
 言い捨てると孝臣は素早くシャツを羽織って更衣室を出て行った。一度も俺の方を振り返ることなく。
「……」
 この現実、その事実に俺は怒りでどうにかなりそうだった。
 ただ一つ明らかなのは俺はもう二度と以前のように孝臣の匂いを味わうことはできないということだ。
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