執筆応援企画SS集

僕は無慈悲な夜の女王

 僕は学校を終えると真っ直ぐにバイト先に向かう。
 クラブ「夜の月」。寂れた郊外、周囲の建物はほぼすべて店じまいをしている真っ暗闇。この店だけは淡く周囲を照らすように看板が淡く輝いている。まるで暗闇に唯一輝く月のように。
 いつものように僕は軋むドアを開けた。ガランガラン。古めかしいドアベルの音とほぼ同時に艶のある低い声が聞こえてきた。
「あら、今日は早いのね汝汪ちゃん」
「こんばんはママ」
 店内に足を踏み入れる僕にママは微笑みかけてくれる。その微笑はとても優しくて、すべてを許して包み込んでくれる聖母を思わせる。本当に「ママ」みたいだ。ママはママでもクラブの「ママ」なわけだけれど。
「まだ仕事まで一時間あるわね。何か食べる?」
「そうだね、あるなら何か欲しいかも。セロリが食べたいな」
「ふふ……あなたも変わった好みをしているわね。いつもそればっかりじゃない」
 言いながらもマスターは用意してあったらしいセロリを何本か持ってきてくれた。みずみずしい青々とした色、ところどころ葉脈が見えてきそうなほど透明感のある、新鮮なセロリ。
「僕のために買っておいてくれたの? 他の子たちから文句がでるんじゃない?」
「稼ぎ頭は優遇しなくちゃね。他の店に取られても困るし」
 僕が黙々とセロリを齧っているところにママは釘を刺すように言う。
「わかってるよ。けど僕は決してママを置いてどこかに行くなんてしないから」
「あら嬉しい」
 黄色い歯を剥き出しにしたママは二かッと笑った、
 ママが好きだ。同僚の、少し口と性格と頭と顔の悪い女たちが好きだ。全体にヤニ臭さと酒臭さと加齢臭が染みついたこの店が好きだ。
 だけどそれ以上に、僕はここでないと生きていけない。ここから離れることは魚に「水気のない場所で生きていけ。ただし死にそうになっても一切助けない」と言っているようなものだ。無茶にもほどがある。
 だから僕は言うんだ。
「ずっとママと一緒にいるよ」
 だから、そのために、僕は、ずっと……。
「なら、今日も仕事を頑張るってことよね?」
 それまでの朗らかな表情とは一変した、冷たい商売人の顔でママは言った。
 僕は無言で頷いてロッカールームへと歩いていった。


 あと一時間で店の営業が始まる時間だ。
 なのに同僚の女たちの姿は見当たらない。数回カウンターの着信メロディが聞こえたから今日も遅刻が数名なのだろう。通常運転の時点でスタッフ……キャストが僕一人しかいいない状況には慣れている。どのみち一番忙しいのは僕なのは変わらないのだし。
 衣装に着替えてメイクを施して、仕上げにウィッグを被る。鏡に向かって何度かポーズをとってみると気分はそれまでの男子学生から女性に変わった気がする。もちろんしばらく見ていれば誰でも男だとすぐにわかる程度の変身だ。真剣に女装と向き合っている男からすれば面白くはないだろう。だが、僕のこの半端な女装にも需要があるからこそこの仕事は続けていられるし、この一年間ずっと店の売り上げナンバーワンをキープしていられるのだ。
 女物だったものを無理やり改造したボンデージを着た僕の姿が鏡に写っている。客の希望によってこれに鞭やろうそくなどの小道具も追加する。
「……」
 男の女王様。
 この矛盾した存在に興味を惹かれた客は話題になると店に詰めかけて僕を指名した。一昔前はこの手の専門誌くらいしか宣伝する場がなかったというが、今やネットやSNS全盛の時代だ。おまけに動画サイトなどというものまである。拡散の手段がこれだけ整っている時代に男女王様などというパワーワードを目にすればとりあえず興味は惹ける。SNSの広告となれば元から興味があった人はもちろんのこと、この手の店に馴染みのない層ですらどんなものかと興味本位でクリックするのだろう。
 経緯はどうあれ僕に興味を持った客たちは人目僕を見ようと来店し、そこから実際に僕の技量を体験し、女性では決して与えてくれないサディスティックなプレイに満足して帰って行く。多少女顔と言っても僕は男なので女性よりは力も体力もある。ハードなプレイを求めていた客からは最初から好感触だったのだ。
「ヘンタイどもが……」
 本音では客の男たちを心底軽蔑しているし、見下している。いわゆる「本番」のような行為を強いられたことはさすがにないが、それは客がM気質だったおかげだ。奴らは虐げられお預けを食らわせることに何より興奮するやつらだから。
「本当に気持ち悪い」
 金を積んでまで虐められたいという自らの倒錯した欲望を満たそうとする変態。吐き気がする。
 だが一番気持ち悪いのは、そんな変体共の度し難い欲を満たすだけの仕事で金を吸い上げ、そんな汚い金で生きている僕自身だろう。本気で嫌ならば将来のことなど全部捨てて逃げればいいだけだ。一生物乞い生活になろうが、本当に嫌ならばそのくらいできる。 
 逃げるだけならば簡単なのだ。
 なのに逃げずにいるのは他でもない僕自身が決めたことだ。
「汝汪、最初のお客がご来店だよ」
 ママの営業用の声が響く。この調子は相当な金持ち客なのだろう。
「はい」
 僕は小走りでプレイルームに駆け寄る。部屋の出入り口の傍に待機したママが耳打ちする。
「いいかい? この客は初見さんだが、予約の時点で相当な乗客だと察した」
「ママは本当に鋭いなあ」
 ママも昔は現役で接客をしていた分客を見る眼は肥えている。一目見ただけ、どころか、数分会話を舌だけでその客が金持ちか否か上客か否かを瞬時に見極められる。
「こんな店に来る客がキャストの心配なんてするわけがないだろう? その上最初から一番高い料金プランを選んだ」
「……なるほど」
「常連になるかならないかは半々ってとこだ。広告で見かけたあんたを一度指名して見たかっただけかもしれない。一目ぼれしたのかもしれない。だがどちらにしても……金持ちにこの『遊び』の楽しさを覚えさせたら搾り取れる」
 「遊び」……確かにその通りだ、色んな意味で「遊び」。上手いことを言うものだと内心感心して僕は相槌を打つ。
「免疫のなかった男ほどハマるものだからね」
「わかってるじゃないか。……しっかりやるんだよ」
 しっかり「やる」とはなんなのか訊くほど野暮でもないし初心でもない。
 僕は仕事のために不機嫌な表情を作ってプレイルームに入った。

 今日の「豚」は上品そうな中年男だった。具体的には三十代から五十代くらいに見える。僕みたいな若者からすれば中年オヤジは皆一様に脂ぎったオヤジにしか見えないが、きっと細かい違いはあるのだろうと思った。
「私は園田満というんだ」
 僕が言葉を発する前に彼は勝手にしゃべり始めた。
「君はなんと――」
「気安く名前を聞いてんじゃねえよ」
 相手の言葉を即座に言えないように言葉を重ねた。強い口調で恫喝するように睨みつける。
 少なくともこの店に来るということは、そして僕を指名するということは、少なくとも嗜虐趣味の持ち主なのだろう。女王様としての最初の仕事は上下関係をわからせるところからだ。
「てめぇはいつからそんな口が利けるようになったんだ? ああん?」
「あ、ああ……ごめんよ」
「『ごめんよ』? そうじゃないだろ。それが主人に対する口の利き方かって言ってんだよ?」
 彼の腿をヒールで容赦なく踏みつける。
 途端に園田は小さく喘いだ後、しばし悶絶する。
「大変申し訳ございませんでしたご主人様……」
 荒く吐息を漏らしながら園田は素直に詫びた。
 なんだ。この程度で、か。
 苦悶の表情を浮かべながらも園田の頬は紅潮し、身体も小刻みに震えていた。眼もどこか虚ろだ。……下半身は敢えて見ないようにする。
 中年オヤジがちょっと子どもに責められただけでこの有様とは。 
 僕は容赦なく園田の顎を掴んで耳元で囁く。
「こんなクソガキにごめんなさいしてどうすんのォ?」
 言うが早いが耳たぶを引きちぎるつもりで引っ張った。
「ぐぅっ!」
「あれ? おかしいな……さっきから震えてない? びくんびくんしてない?」
 嘲るように、徹底的に相手の尊厳を踏みにじるように。それでいて超えてはいけないギリギリのラインは紙一重で越えない。
「き……きの、せい、です……」
 そんなことを言いつつ、園田の顔には恍惚とした色がありありと浮かんでいた。
 よく見ると着ているものは英国の老舗メーカーのオーダーメイドスーツだし、持っているバッグもブランドに興味がない僕でも知っているような超有名ブランドのものだ。一目見ただけで高級品だとわかるし、こんなものをこんな店に着てくるくらいならば、相当な社会的地位のあるお偉いさんなのだろう。
 ドMのくせに出世したせいで自分を罵る者がいなくなった結果、隠している性癖を満たすことができなくなったのだろう。上手く隠しているだけで、この手のドMな変態はどこにでもいる。
「わざとらしい演技はしなくていい。嫌がってるふりしても僕にはお見通しだからね?」
「……は、はい。ではどうすればよろしいので……?」
「知らない」
「そんな!」
「自分で考えろ。イジメて欲しいなら……そうだな、跪いて僕の靴でも舐めればいいし、イジメて欲しくないなら僕はこのまま帰る。で? どうして欲しい?」
 蔑みの眼差しを向けると園田は困ったように項垂れる。しかし困った「ように」なのであって実際は困っていないし、顔には喜色が広まっている。普段「靴でも舐めろ」などとは間違っても言われないだろう。それが園田のようなドMには得難い快感であり、大枚叩いてでもこんな場末の店に来る理由なのだろう。
「……」
 園田は頬を赤らめながら真剣な顔で考えているようだ。
 もっとイジメて欲しいが、靴舐めはイヤだ。だがこのまま帰られて放置されるのもイヤだ。構って欲しいが最優先なのだから靴舐めが一番か? でも……それもちょっとなぁ。
 こんな内心が手に取るように伝わって来た。同時に彼がこの状況にこらえようもなく興奮しているという事実も、彼の全身を見ていればよくわかる。全身を小刻みに震わせながら荒い呼吸を繰り返す。全身を見るまでもない。
 この男にとっては今の状況が目当てなのであり、女王様たる僕の仕事はこれだ。
 よく誤解されるが、女王様というのはただ罵倒すればいいってものじゃない。
 「相手を罵ってお金をもらえるなんて楽な仕事だな」なんて言われることは多いが、とんでもない誤解だ。相手に悪口を言って給料がもらえる簡単なお仕事ならきっと子どもがなりたい職業としてかなり人気が出るんじゃないのか。アングラ部門でさ。
 でも実際のところ、Sは大変難易度が高い。Mよりはるかに。
 Mはひたすら受け身でいればいい。プレイ内容によっては物理的な痛みもあるだろうが、最近の小道具は安全性も考慮して作られているからそこまで深刻なダメージは少ないだろう。
 対してSは、相手の求めることを即座に察知して、予測不可能な事態にも臨機応変に適切にそれでいて相手の予想以上の反応を返さなくてはならない。自分が好き勝手に罵るだけならそれはプロのSじゃない。技術の高いS女王様ほど相手に寄り添い、相手の状況と気持ちを瞬時に察知し、見極めたうえで適切な行動と相手が求める責めを与えるものだ。「チビ」「ハゲ」「短小」などのただの悪口なら誰にでも言える。客はそんなものを求めてはいないしイヤだろう。Mは最大限自分に寄り添った上で自分のことを理解し、自分が求めるタイミングで、その時最も自分が求める言葉を、最適な声音で言って欲しいし、理想の痛みを与えて欲しいのだ。要は母親並みに自分を理解して満足してくれる相手を求めているのだ。極めて高難度のコミュニケーションスキルが当たり前に求められるポジションなのだ。いわば職人芸である。仕事におけるドSというのは「サディスト」のSではない。「サービス」のSだ。
 若者には分不相応な金をもらうのだから、相手が満足できるよう希望通りにイジメ倒す。これがプロたる僕の仕事だ。満足げな園田を醒めた気分で見下しながら、僕は我に返って何をしているんだと虚しくなった。

「やっぱり君を指名してよかったよ。評判通りの女王様だった!」
「はぁ……それはどうも」
 生憎僕には虐められて喜ぶ趣味はないのでどう返したものかわからない。
 仕事時間が終わって素に戻った僕は少しの時間雑談をする。今まで僕に罵られていたのが嘘のように園田は堂々とした貫禄ある大人の男に戻っていた。
「『汝汪』というのは源氏名かい? 最近の子は名前も難しいね。正直何と読むのかさっぱりだ……」
「本名ですよ。『じょおう』と読みます」
 よく聞かれるので慣れている。そしてその後の相手の反応も大体同じ。
「え? じょおう? じゃあ名実ともに女王様じゃないか」
 いかにもうまいこと言った、みたいな顔をしている。それ言ったのアンタだけじゃないから。皆言ってるから。
「親が面白がってつけたらしいです。男なのに女王とかウケるって」
「……」
 命名理由を言うと途端に黙るのもいつものことだ。特に良識あるまともな大人ほどどう反応すればいいのかわからないらしい。なぜかうちの客は良識も常識も威厳も持ち合わせたまともな紳士が多い。普段は自分の性癖を隠して生活している分、店で存分にイジメ倒されたいのかもしれない。
「まあ、そのあとすぐに二人とも別の相手と新しい生活を始めるとか言い出したんで。それで僕は店のママとお姉さま方に育てられたわけです」
 ママは本当にママだ。店の女たちも似たようなもの。物心つくまえから仕事がどんなものか見て育った。だから僕は初仕事の時点で客からの評判もすこぶるよかった。
「……君は若いようだけど学校は? というか今更だけど、もしかして未成年?」
「学校は通信制行ってます。店が忙しいし。休学も挟んでたんで二十歳は過ぎてますから大丈夫ですよ」
 さすがに女王様と学生の二足のわらじは体力的にも厳しかった。高校に進学はしたものの、単位も出席日数も足りなくて留年。その後通信制に変えたのだ。
「若いうちからそんな調子で大丈夫なのかい? 今からでも全然遅くないからもっとまともな――」
「まともってなんですか?」
「え……まともはまともだよ。普通に学校行って、就職して、結婚して……」
「じゃあ僕は子どもの頃からまともじゃなかったってことですね」
 いつもだ。
「……」
 園田は言葉に詰まった。
「じゃあ、そんなイカれた非常識野郎の僕に虐められに来るあなたも十分まともじゃないですよね」
 そんなまともじゃない僕に責められて悦んでたくせして、金積んでまで虐められに来るド変態のくせして。プレイを終えた途端に自分はまともなんだという顔をする。普通だの常識だの言いやがる。僕からすればこの店に来てる時点で全員まともじゃないのに。
 まともってなんだ?
「それは……」
 僕は何かを言いかけた園田に軽蔑の視線を向けてドアノブを掴む。一瞬園田は恍惚の表情を浮かべた。
「睨まれて嬉しい? それはよかったですね」
 気色悪い。生臭い口の中を綺麗にしたい。
「変態が」


「お疲れ様」
 スタッフルームに戻ると、ママが軽食を用意して待っていた。チョコミントアイスとセロリ。
「うん。疲れたよ」
 早速セロリを齧った。
 独特のさっぱりした触感が口内を清めてくれる気がする。ミントも同様だ。
「いい加減ウザいんだよね。こんな店に来ておいて何説教してんだか」
 言いながらホワイトボードを見る。客の予約状況や担当が誰なのかもこれを見れば一目瞭然。
「無駄口叩く暇があるならさっさと支度しな」
 僕は一時間もしないうちに次の客が待っている。常連客で、特殊なハードプレイがお気に入りのちょっと厄介な男だった。
「こりゃ疲れそうだ」
 責める方も楽じゃないのにな。
「世の中妙な性癖を持った奴は思ってるより多いもんさ」
 ママが独り言のようにつぶやいた。
「……きっとアンタにもアタシにも、多少なりとも変な性癖くらいあるだろう」
「まあね」
 僕も自覚していないだけで一般的には異常な性癖もあるのだろう。人の数だけ性癖はあるのだから。
「みんな『あれは普通』『これは異常』って区別したがる。性癖なんてみんなどっかぶっ飛んでるものだってのに」
「たしかにね」
 セロリを噛みながらぼんやりと思った。
「僕みたいな男に責められて興奮する男もいるわけだしね」
 思い出したら笑えて来た。あいつらに比べたら僕の個人的な好みなど異常でもなんでもない。
「目指すは無慈悲な女王様ね。男だけど」
 揶揄うようにママが言った。今の僕ではまだまだ理想の女王様には届かない。もっと容赦のない、無慈悲な責め方を覚えろということだろうか。
 ますますまともから遠ざかっていく。代わりに増えていくのは一般的には不必要な罵倒の語彙。
 乾いた笑いが漏れた。
「僕は無慈悲な夜の女王」
 僕は口に出して、更に笑えた。
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