執筆応援企画SS集

雪を吐く

「はぁーーっ」
 12月も残すところあと数日。今年もあと数日で終わる。
 ほんの数か月前は暑さに喘いでいたというのに、今度は冬の寒さに凍えそうになる。吐いた息は真っ白く湯気のように色を付けて即座に消える。自分の吐いた息が瞬時に視界から消えるさまは、どこか物悲しいような、切なささえ感じさせる気がする。
 そんな冬の真っ只中、雪の降る季節になると思いだすことがある。
「もう雪は消えてしまったんだ……」
 クリスマスの煌々と輝くイルミネーションの中を歩く僕はぼんやりとあの頃のことを思い出していた。


「不気味な子だよ!」
 罵声と共に浴びせられた冷水の冷たさは僕の身体を瞬時に凍えさせる。
「……」
 冷水はばたばたと僕の頭、頬、肩、足、全身をくまなく濡らして体温を奪ってゆく。「冷たいな」と思ったのと身体が震え出したのとではいったいどちらさが先だったのだろう。
「ほらあんた! この子ったら顔色一つ変えやしない! ……人間らしい情なんてないんだよ!」
 まあ、そんな些細なことはどうでもいいか。
 僕は目の前の女性を見上げた。
 見慣れた中年の女性は高い化粧品を使ったり、美容整形を繰り返していると自慢気に言うくせに、昔話に出てくる山姥を連想させる顔立ちをしていた。どれだけファンデーションを塗り重ねても隠し切れない皺、コンシーラーを重ね塗りしても誤魔化しきれないこびりついた隈、アイラインとマスカラで緩和させようとしても決して隠し通せない意地の悪さが滲み出たきつい目付き。彼女が突然包丁を手に切りかかってきても何も不思議なことでもない。そう確信させるような顔をしていた。
「何見てるんだよ!」
「あ……っ」
 ほんの数秒しか見ていないのに思い切り頬を叩かれた。
 彼女からすればこの寒い中冷水を浴びせても怯んだり泣いて許しを請うような、そんな可愛げを微塵も見せない僕が気に喰わなかったのだろう。
 山姥は気味の悪いものを見る眼で僕を見ている。その様子にはどこか怯えのようなものが見え隠れしていて、僕は少し笑ってしまった。
 パァン!
 派手な打音と同時にヒステリックな金切り声が響き渡る。
「馬鹿にするのも大概におし!」
 肩で息をしながら彼女は僕を睨みつけていた。
「……」
 叩かれた僕の頬も相当痛かったが、叩いた彼女の手のひらも真っ赤に染まっていた。山姥の吐く息が僕と同じく真っ白で、儚く消えて、息を吐かなければ生まれてすぐに儚くならずに済んだのに、と同情に似た気持ちが芽生えた。最初から存在しなければ即座に消えずに済んだのに。その在り様は雪にも似ていると思う。
「ねぇ、あんた! あんたってば!」
 彼女は僕の首根っこを乱暴に掴むと、始終我関せずを貫いていた男へ見せつけるように僕を押し出した。
「今まで見てたでしょ! この子ったらずっとこの調子、何から何まで無感情で無表情で。気味が悪いったらないよ」
 まくし立てるように彼女は言葉を吐き出してゆく。
 背中だけを向けた男はうんともすんとも言わず、何の反応も示さない。彼女は続けた。
「あたしはもううんざりなんだよ! こんな気味の悪い子どもなんざ、もうまっぴら! どれだけ贅沢できても、どれだけ好き放題できても、こんな子と一緒に暮らすだなんてもう沢山だ!」
 どれだけ感情的に言葉をぶつけても、男は微動だにしない。
 当たり前だ。
「ちょっとあんた――」
 激情にかられた彼女は乱暴に男の肩を掴む。
「あっ……」
 予想していなかった彼女の行動につい驚いてしまった。
 しかし彼女は僕のことなんて気にしていない。視界にあるのは男がゆっくりと、倒れるように崩れ落ちてゆくさま。
 傾いた身体は地に触れるとひび割れ、砕け、砂のように崩れていく。
「……なに、これ……?」
 ああ、またやってしまった。
 僕は後悔したが既に遅い。せっかく見つけた隠れ蓑はまたしてもなくなってしまった。
「どういうこと……?」
 彼女に気づかれる前にここから立ち去ろう。
 そう思ったのに、先ほどかけられた水のせいで上手く身動きが取れない。数か所は凍っているのかもしれない。
「ちょっとあんた」
 ああ。やっぱりこのまま逃がしてはくれないのか。
「なぁに?」
 僕は観念して彼女に向き直る。
 今度は上手くやったと思ったのに。今度こそ、人間社会に上手く溶け込めたと思ったのに。
「あんた……まさか」 
 山姥は僕をじっと見つめる。やっぱり誤魔化せはしないのか。
「そうだよ。僕もあんたと同じ」
 人の身でありながら人の子どもを襲う山姥。
 人外でありながら人里に紛れて暮らす雪女。
 きっと僕とは似た者同士、上手くやれると思っていた。山姥の彼女、無関心な人間、そして僕。3人で一緒にいれば多少の問題のある家庭ではあるものの、ちゃんと家族に見えるだろうと。そう期待していたのに。上手く人間の社会に溶け込んでバレずに生きられると思っていたのに。
「道理で人の情などわからないわけか。雪女……心まで凍った存在だから」
 合点がいったとばかりに山姥は忌々し気に僕を睨みつけた。
「君だって僕と大差ないじゃないか。人の道理を外れた者。子どもを食べるような女に人の情だの道理だの、真っ当なことを説かれる筋合いはないよ」
 人里にいれば飢えることも退屈することもなく、面白可笑しく暮らせると期待していたのに。
 山姥のせいですべて台無しだ。
「お前は知らないようだから教えてやる」
 どこか悲しんだような山姥はぽつぽつ言葉を発した。
「種族が言動を変えるんじゃない。言動が種族の壁を超えて生き様を変えるんだ。……あんたは根っからの怪異、あんたは心の根っこそのものが凍てついた氷、雪よりも冷たい女だよ」
 親の情も解さない山姥に言われたくない。
「そう? おかげであんたに水かけられても凍らずに済んでよかったよ」
 僕は山姥の言葉に何も感じることもなく、いつものように冷気を発した。正体がバレてしまった以上、無力な人間のふりをする必要もない。
 傍らで氷片になった男――父親と同じように、山姥もまた全身の血が凍ったのだろう。氷像となった彼女の身体を砕くとキラキラと輝くダイヤモンドダストのようで、少しだけ微笑った。
 これまで幾度も同じようにして人里に紛れて暮らそうとしてきたものの、今回ほど僕に深入りしようとした者たちはいなかった。
 山姥はどうにかして感情を表に出さない僕から表情を引き出そうとあの手この手で関わろうとしてきた。穏当な手段では効果がないとなると今回のような荒療治も躊躇いながら行った。それでも僕は無反応のまま。
 父親役の男は僕を喜ばせようと子どもが喜ぶようなことをしてきた。土産物を買って帰って来ては、僕に土産話を聞かせ、僕からも話を聞きたがる。毎日のように一緒に寝ようと言っては僕を布団に引きずり込んで抱きしめて、頭を撫で続けた。人間でいう5歳程度の年齢だからそこまでおかしなことではないらしいが、うっとおしかった。
 2人は2人なりに僕と真っ当な関係を築こうとしていたようだ。不自由なく生活できればそれでいい僕としてはいい迷惑だったのだが。本当に邪魔でうっとおしくて、目障りだった。
 僕の心に温かいものが芽生えそうになるほどに。
 だから、本当にうっとおしくて目障りで、早く消えて欲しいと思っていた。
「……あれ?」
 だから、なぜ今の僕は泣いているのかわからなかった。
 邪魔だと思っていた2人が砕け散って清々しているはずなのに、心が痛いと感じた。平気なはずの寒さがとても辛く感じられた。寒くて寒くて、心が凍りそうだった。
 凍りそうに感じるということは、心に熱があるということに他ならない。凍えていて冷たいのならば最初から寒さなど感じないはずだから。だから。
「僕の心の中は、僕の雪は、もう――」
 溶けてしまったのだろうか。
 いや、そんなはずはない。僕は雪女だ。僕の心の中は雪でできている。カチコチに凍った雪がなければ僕は雪女ではなくなってしまう。暖かさにほだされてしまえば雪女ではいられなくなってしまう。
 僕は消えてしまう。
「……ッツ!」
 頬を熱いものが伝う。
 これは涙だろうか。雪女にそんなものはない。暖かいものが触れては溶けてしまう。僕の身体が、心が、溶かされてしまう。溶けた氷は水となって地に還る。そして僕は消えてしまう。
 僕はずっと冷たくなければいられないのに。
 そんな心配をよそに、僕の体が溶けることはなかった。
「あれ……?」
 ただその代わりに、僕の吐く息はそれまで以上に冷たく感じられた。
 暖かい身体を冷やすような氷点下のため息。吐いた息は凍るほど冷たい。それは紛れもなく雪だった。
 

 こうして僕は白い息の代わりに白い雪を吐くようになった。
 別に雪を吐くからと言って人間に実害はない。ただ雪を吐く、ただそれだけのことだ。
「なのに、なぜここまで自分の息を冷たいと思うのだろう。なぜ温かさが恋しいと思ってしまうのだろう?」
 答えはきっと僕は既に知っている。
 知っていて納得してしまうのが怖いのだ。自分のことを考えてくれた相手に情が移ったと認めるのが怖いのだ。
 いつしか僕は雪すら吐くことはなく、ただの人間のように息を吐くようになっていた。その辺の人間のように冬の寒さに身体を震わせさえした。
「寒い。すごく寒いよ」
 凍える雪の日は誰かに抱きしめて欲しいと思う。優しく抱きしめて温めて欲しいと思ってしまう。
 こんなことを考えてしまう僕はきっと、既に雪女でもなんでもなく、ただの1人の人間でしかないのだろう。
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