執筆応援企画SS集
あの人が帰って来た
「あの人が帰って来たんだって!」
とある田舎、とある住人は大声で叫んだ。
自然豊かで静かな牧歌的な集落……といえば聞こえは良いかもしれないが、何もない田舎である。学校にもバスで片道二時間もかかり、食材を買いに行くにもバスで一時間半かかる。当然のように住人の九割は高齢者なのでインターネットもないし、あったとしても使いこなせない。
「な、なんだって!?」
その場にいた全員が驚愕の叫び声を上げる。この集落唯一の娯楽施設は現在地である碁会所だけだ。
「あいつが……あいつが、帰って来たというのか?」
「ああ」
報告した住人は神妙な顔で頷いた。
「ああ……!」
傍らの老婆は顔を掌で覆う。
「なんということだ……」
「この世の終わりだ!」
老婆の傍に座っていた還暦くらいの男二人も絶句している。
この場の他の面々も似たり寄ったりで、まさに最後の審判を受けるかのような絶望的な顔をしている。縁起でもないがお通夜のような雰囲気である。
誰かがポツリと言った。
「やはり……あの時の復讐のために戻って来たんだろうか」
「……」
「……」
「……」
誰も肯定はしなかった。
だが否定もしなかった。
「……」
全員心当たりがあるからだ。
そしてその心当たりから復讐のために戻って来たという結論に至るのは自然な流れだった。
村八分という言葉がある。
インフラが整った現在ではひとりで生きていくのもそう難しくはなくなったが、ほんの一世紀ほど前はそうもいかなかった。大抵「ムラ」と呼ばれる地元の共同体で肩身を寄せ合って暮らしていた時代には勝手なふるまいや周囲と衝突する者は害悪でしかなく、そのような者は共同体から排斥された。ただし葬式と火事だけはお情けで助けてやると言った具合である。
今でこそ料金さえ支払えば連絡ひとつで食事を届けてくれたり家事を肩代わりしてくれるサービスが存在するものの、昔は気に喰わない相手だったとしてもその不満をグッとこらえて嫌でも助け合わなければ生きていけなかったのである。当時共同体を形成していた人々にとっては大変なストレスであったことだろう。
そしてその溜まりに溜まった日々の鬱屈は特定の誰か何かにぶつけて発散していたのがこのとある田舎でもあった。
その、「鬱憤をぶつけられていた特定の誰か」が戻って来たのだと全員が思った。
数十年も昔の話。されど加害者は忘れても被害者は決して忘れることはない。その恨み辛みを。
「……どうしたものか」
一人の老人は重苦しいため息をついた。
「どうもこうもなるまいて。元々は俺たちが自分で蒔いた種だろう?」
「俺……あの人に石をぶつけてたんだ。的当てと言って。身体に当たったら何点、顔に当たったら何点、って」
暗い声で別の老人は独白する。
「わたしも。村のお祝いの時桜餅を作ったの。でもあの人だけには渡さなかった。……あんな大きな腹の虫を聞いたのは初めてだったなあ」
眉根を寄せて老婆も呟く。
「あいつ風呂に入ってないから臭かったっけ。あいつが俺の目の前を通るたびに足ひっかけて笑ってたっけ」
「俺も――」
「あっしも――」
「わいも――」
誰に懺悔しているわけでもない。
皆一様に当時あの人に対する心無い仕打ちを懺悔し始める。意図的に悪気があったわけでもない。ただの無邪気な子どもの意地悪のようなものが大半だった。現在の感覚では明らかにいじめに相当するような仕打ちでさえ当時はよくあることであった。誰かが言い始めたのでもない懺悔祭りは夜更けまで続いた。あの人からの報復を恐れているのかもしれない。
そうして翌日。
静まり返った集落に立ち寄る一つの影があった。
「あ、あれ! あの人だ!」
入り口近くに住む老人は大声を上げた。
ゆっくりと歩いてくるのは老年の男性。だが外見に反して足取りはしっかりしていて、一度もよろめくことなく正面を睨んでいた。どこか獲物を狙う肉食獣のような殺気立った雰囲気を纏っている。
「来た!」
あの人からの復讐を恐れる住民はできることならば故郷を捨てても逃げたかった。
だが老人である上に、子も孫も都市部に引っ越した後だったのでどうにもならない。純粋に歩くことさえ杖をついて鈍足でしか叶わないのだから。
「……」
住人の心境を一切知る由もない異邦人は矍鑠と歩みを進めて行く。
その様子を恐々と家の中から伺う住人達。辺りを見回す異邦人。
彼は口を開いた。
「やっぱりここじゃなかったのか……」
更に奥に踏み入って看板や周辺の建物を凝視する。が、やはり彼が探していた場所ではなかったらしい。
「……また探さなければな」
異邦人はぽつりと言って踵を返す。
やがて静かになると戦々恐々としていた老人たちは顔を見合わせた。
「なんだったんだ?」
「さぁ?」
一様に首を傾げながらも一同は胸を撫でおろした。
「とにもかくにも安心したよ。太郎が帰って来て復讐されるかと……」
「太郎? 一体誰の話をしているんだ。俺が言っているのは多三郎のことだったんだが?」
「いえ、私が想像したのは米子のことよ?」
「富子のことだろ?」
「元太のことだ!」
皆口々に違う人物の名を出す。
それぞれの思う「自分に復讐しに来た相手」は皆違った人物だったようである。先ほど立ち去った人物の話は出ることもない。
「じゃあ、誰も仕返しに来なかったってわけだな!」
誰かが嬉しそうに言った。
過去の過ちはどうやら誰も掘り返すことはないと知っての安堵だった。互いにいい歳なのだから今更だ、などと言って盛り上がっている。
確かに直接的な報復はなかった。
だが、ことあるごとにすぐ村八分だの仲間外れだの、そんなことをしているから若者はいなくなった。こうして残ったのが意地の悪い者同士による悪意の煮凝りのような集落である。村の中での結束は強いかもしれないが、地域の中でこの集落がないことにされているということに誰か気づいた者はいるのだろうか。たとえ報復のためだったとしても正確な現状を伝えに帰ってくる人がいたら、それこそ天の助けである。
「このまま掘り返されずに済むことを祈ろうな!」
誰一人己を省みることはない老人たちには難しい話ではあるのだろうが。
Copyright 2025 rizu_souya All rights reserved.