執筆応援企画SS集
酒粕売りの男
疲れた。何もかもに。
立ち続ける気力すらなくなった俺は薄汚れた壁に背を預けた。
もう後のことなんかどうでもいい……。
これまでただ生きるためだけにがむしゃらに頑張って来たが、それももうおしまい。もう疲れた。もうこれ以上頑張れない。立っていることすらできないのだ。ならばここから再び立ち上がることすら無理に決まっている。足に力すら入らないのだから。
「疲れた……」
そう、俺は人生そのものに疲れ果てていた。
幼い頃に両親は何処かへと行方をくらまし、俺は祖父と二人きりで暮らしてきた。祖父は貧しいながらに俺を育ててくれたけれど、とてもではないが人並みにとはいかなかった。毎日の食事にも事欠く日々、一日三食など夢のまた夢で、一週間水だけで済ませる日も少なくはなかった。服は一着をずっと来たきり雀のため同級生にはくさいと避けられ、散髪も贅沢のため髪はずっと伸びっぱなし。住む家があるだけマシだったけれど、そこは夏には強すぎる太陽光、冬には容赦のない冷気が吹き込むボロ家だった。これでもまだ祖父が優しく接してくれていたのならば救いはあったが、生憎俺の祖父は若い男に俺を売ろうとするような部類の男だったので救いはなかった。運よく幼い子供に欲情するような物好きな男に出会えた時にはささやかな臨時収入があって大きめの具の浮いた汁物くらいは口にすることができたのだが、俺の自尊心は粉々に破壊された。
このような環境でどうにか成長してきた俺はどうにか住み込みの仕事を見つけることができた。
学のない俺にはよくわからないのだが、酒を造る仕事をしているところの仕事だった。最初こそなんとかの見張り? とかいいう何かをしていればいいというもので、男に身を売ったとき以上の報酬が手に入ったのだが、俺の後に優秀な新人とやらが数人入ってきたために俺の仕事はなくなってしまった。漏れ聞いた話を統合すると、そいつらがそれまで俺の担当だった仕事の他にもいくつもこなせるから俺を馘首してそいつらに大目に報酬を与えることにしたらしい。要は俺があまりにも使えないからさっさと切ったということらしい。
確かに俺にはできることがなかったかもしれないが、できないなりに役に立とうと頑張って来たつもりだった。それでも最初から出来の良い新人に入っ
て来られては俺みたいな奴を切り捨てるのが一番いいという判断になるらしい。
こうして俺はそれまでの部署を追われた。
だがさすがに良心が咎めるのか、俺にもささやかな仕事を与えてくれた。それが酒を造る過程でできる酒粕の処分だった。酒を造る際の不純物? というか、副産物というものらしい。食物のように食べるとほろ酔い気分になる程度の酒気を含む。名前の通り「酒のかす」だ。大量の酒を造っていると処分に困るほどの酒粕が作られる。食品として商品化するのも手間暇金がかかるために酒粕を好きに使っていいと言われたのだ。
大量の酒粕を好きに使っていい。
こう言われた時に商才のある奴なら機会を見つけたとばかりに飛びつくのだろうが、やはり俺にはそんなものはなかった。
加工したり上手く売り込んだりすれば状況は変わるのかもしれない。しかし俺にそんな才能も上手くやるような知識も技量もなかった。いくらでも持って行っていいと言われた大量の酒粕を前にしても俺には一つの案すら浮かばない。
俺はとりあえず少量の酒粕を木箱に詰めて行商を始めることにした。当然のように客など来ない。皆一様に俺の前を横切り、一度も視線を向けてよこすことなく通り過ぎていくのだった。
「疲れた……」
思わずそんな言葉が漏れてしまうほど、俺は疲れ果てていた。
子どもの頃からずっと、どれだけ頑張っても報われなかった。一生懸命働こうとしても、痛む尻をさすって笑みを浮かべようとしても、どう頑張っても俺には人並みの幸せというものは手に入らなかった。
だから疲れてしまったんだ。
頑張ること。現状を変えようとすることに。どうあがいても報われないのならば足掻くだけ無駄じゃないか。
疲れたんだよ。
「酒粕……これでも酔うことはできるんだよな」
生まれてこの方、酒なんか飲んだことはなかった。
働くのに忙しく、生きていくのに精いっぱいだったから。何より酒は贅沢品。俺みたいな奴には分不相応の高望みだから。
でも、もう、いいよな?
「最後くらい、いいよな?」
呟くと同時に売り物の酒粕を口に頬張っていた。
「……!」
脳天にガツンと衝撃が走った。生きてきて初めて酔いというものを経験したからだろう。
同時に手にずっしりとした感触があった。これは……。
「……金? こんなに沢山?」
気づいた時には俺の手の中には札があった。いや、これは札とは言わない、札束だ。
「本当に金? こんなに沢山、俺が……金持ちになったのか?」
ためしに札束を振ってみる。小さくバサバサと音を立てたそれは心地よい重みを手の中にもたらした。
「金……本当なのか? これだけあれば俺は……俺は……!」
何に使おうか考え始めたところでそれまで手の中にあった札束の姿は忽然と消え失せた。
「え……?」
ひょっとしてこれまでの短い出来事は夢だったのだろうか。
俺は慌てて再び酒粕を救い上げて口内に放り込んだ。
「……!」
次に俺の目の前にあったのは、清潔な身なりをした若者たちが俺を取り囲んでいるところだった。
「どうかなさいましたか?」
「……あ、いや」
「ご主人様、具合でも悪いのですか? なら休憩なさっては……」
「なっ、なんでもない。大丈夫だから」
慌てて手を振って断る。不意に鼻腔をくすぐるような甘い匂いが飛び込んできた。
「!」
匂いの方に目をやると、そこには見たこともない、見るからに旨そうなご馳走が所狭しと並んでいた。
「ご主人様?」
怪訝そうに若者が俺の方を見る。
「えっと、これはどういう……?」
「嫌ですねぇご主人様。今日はご主人様の婚礼の日ではありませんか」
「えっ?」
予想外の言葉に俺は勢いよく頭を上げて壁に頭をぶつけそうになる。
「花嫁たちもお待ちかねですよ」
そんな俺に構うことなく、若者はそっと障子を開けた。
向こう側にはすらりとした別嬪さんが微笑んでいる。その視線は真っすぐに俺に向けられ、心なしか頬が紅潮していた。
「あ、っ……」
俺が慌てて視線を合わせようとすると即座に目を逸らした。恋愛経験などない俺にでもそれは照れているのだとわかった。
「初々しいことで!」
揶揄うように若者が言った。
「……」
これは俺の夢なのだろう。俺がずっと求めていた、こうありたかった理想を具現化した夢。
俺はずっと、こんな平凡な幸せが欲しかった。ずっとこうありたいと思っていた。求めていた。
わかったんだ。
もう遠くない未来、俺は天に召されるのだろうと。これは最後の最期に何かすごい存在が俺にかけてくれたせめてもの情けなのだって。俺に同情した何者かが俺の理想の現実を見せてくれたのだろうって。
幸せだなあ。
最期の最後で最高の幻を見せてくれるなんて。何者かも粋なことをしてくれるじゃないか。
……だがな。
「それでも俺が一番欲しかったものだけは頑なに与えてはくれないんだな」
俺の言葉に若者と花嫁が小首を傾げた。
「いくら金持ちになっても、美味い物をたらふく食べられても、どれだけ別嬪と結婚しても、俺が欲しかったものはそれじゃないんだ」
目の前の若者たちの姿が見えなくなった。
「俺は、家族が欲しかったんだ。俺を生んでくれた母ちゃん。家族のために稼いでくれる父ちゃん。頼りになる兄ちゃんや姉ちゃん。可愛い弟や妹。そんなものは出てきてすらくれないんだな」
俺にはその理由がすぐに思い至った。
「最初から具体的に想像できないから、いくらアンタにも叶えられないんだろ? 俺には人並みの家庭を想像することすらできないから、だから見せられないんだろ? わかってるよそんなこと」
本当に欲しいものだけは決して手に入らない。きっとそんなものなのだろう。
「むしろ俺みたいな奴に無駄に夢を見せないことがアンタの優しさなのかもしれないな」
一番欲しかったものは手に入らないものの、それでもひと時の夢は見られたのだから。
「だから、俺はこれで十分だ」
俺は呟き、眼を閉じた。
その翌日。
路地裏で薄汚れた男が発見された。すでに生命活動を終えた彼の身体は冷え切っていて、蘇生など到底叶わない。
だがその顔はとても安らかで、すべてを受け入れるような満たされた微笑を浮かべていた。目元に一瞬光るものがあった気がするが、それはきっときのせいなのだろう。
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