執筆応援企画SS集
もしもあの日に戻れたら
「あの日に戻れたら……」
俺の口からつい漏れてしまった言葉。
人生に「もしも」も「たら」も「れば」もない。時間というものは前に先にしか進まないし、決して逆行などしないし、フィクションでよくあるタイムスリップなどというものはない。過ぎてしまった時間は決して巻き戻ることはなく、取り返しのつかない失敗をなかったことになどできないのだ。
だから今の俺がこんな泣き言を吐くこと自体無駄なことなのだ。
わかっている。……わかっているのだ。
なのに言わずにはいられない。
「もしもあの日に戻れたら、俺は絶対にこんな失敗なんかしないのに」
俺の名前は渡来時雄。たまに自分の年齢がいくつだったかわからなくなる年頃の独身男性だ。子供の頃は誕生日を楽しみにしていたというのに、大人になるとすぐに自分の年を思い出せなくなるのはよくある話だろう。要はそんなお年頃ということ。
そんな俺は毎日忙しい充実した日々を過ごしている……わけでは全くない。
休みなどろくにない程忙しい毎日というのは変わりないが、仕事内容は流れ作業の肉体労働で給料も低い。そのくせ待遇も悪く人間関係もあまりいいとは言えない。今時流行りのブラック企業というやつ。俺もちゃんと流行に乗っている。たまの休日の楽しみはくだらないバラエティ番組を見ながら昼から安酒を浴びるくらいだ。友達と呼べる相手もいない。酒とテレビだけが友達だ。
「……」
念願の休日、俺はいつものように名前も知らない芸人が笑えない与太話をしている番組を眺めながらふと思った。
「なんでこうなったんだ」
『そりゃ、あんさんの自業自得でんがな!』
『今時そんなわざとらしい関西弁なんてあらしまへんで』
『そっちこそ、今時――』
テレビに映る芸人の言葉が耳に残った。
『あんさんの自業自得でんがな!』
自業自得。
本当にそうなのだろうか。
いつもならば気にならない些細な一言が耳に残った。画面の中の与太話は続いている。
「俺は……子どもの頃は人並みの幸せがあった。両親が揃ってて、可愛い妹が一人いる四人家族で、家族仲もよくて、いつも和気藹々した暖かい家庭で。いつも周りから羨ましがられてたっけな」
うだつが上がらないながらも朗らかで頼りになる父さん。たまに口うるさいこともあるけど子ども想いの優しい母さん。生意気だけど素直で可愛いところもある妹。俺も普段は素っ気ない態度を取っていたけど、そんな家族のことが好きだった。
今思い返すと幸せだったんだよな。たしかに金持ちでもないし、有力なコネなどなかったけど、それでも十分人並みにやっていけるだけのカードは揃っていたんだ。
なのに俺は、人生の選択をことごとく間違えた。
最初の分岐点は小学生の頃。夏休みの家族旅行の時。
俺たち一家が高速の渋滞に巻き込まれていた。父さんの実家に帰省した帰り道でのことだった。父さんの父さん、つまり俺の祖父が前年に他界して始めての盆だった。大人ということもあって普段は父親を亡くしたことにそこまでショックを受けていないように振舞っていたが、父さんにはやはり思うところはあったのだろう。盆の一連の流れを終えて帰宅するためにハンドルを握る横顔はどこか寂し気で疲れた顔をしていた。
それもきっと大きな原因だったのだろうと今にして思う。
心身ともに摩耗した状態で運転していた父さんは前方の看板が目に入らず、運転ミスをした。助手席の母さんと共に帰らぬ人となったのだ。後部座席にいた俺と妹を残して。もしもあの時、俺が父さんのことを気遣っていれば。そうすれば一度に両親を失うこともなかっただろうし、その後の人生も違っていたのだろう。
そうして小学生の時点で保護者を失った俺たちは母さんの姉の元に引き取られた。父さんは一人っ子、母さんは姉と二人姉妹だったためそのような流れになったのだ。当然姉妹といっても母さんの姉――伯母からすれば突然面倒を見る子どもが二人増えたら相当な負担だったのだろう。伯母の家庭にも子どもは三人いたためなおさらだ。伯母の子ども、俺たちからすれば従兄弟に当たるのだが、長男は大学受験真っ最中の高三、真ん中の次男は中二病真っ盛りの中二、残りの三男は唯一俺たちより年下の小学一年生で一般的に可愛い盛りといわれる年頃。そんないろんな意味で手がかかる自分の子どもだけでも相当大変な中で俺たちを引き取ってくれただけで、伯母は十分人格者といえる。
ただし、どれだけ人格者な伯母でもそれまで対面の機会もなかった相手に即座に懐くというわけでもなかった。
俺たちは特に悪さはしないが、懐きもしなかった。特に妹は幼いこともあってか何かと伯母に反抗し、最終的には絶縁するほど仲が悪かった。俺に対しても昔の可愛げはどこに行ったのかとぼやきたくなるほど冷たくなってしまった。伯母もそんな妹に腹を立てたらしく、なぜか俺に当たるようになり、高校からは両親の遺産から自分で出すようにと言った。
両親の遺産と言っても母はパートだし父もうだつの上がらない父の貯金など高が知れていたから、俺は高校卒業と同時に就職活動をした。だがそんな俺が就職できたのはどれだけ長年勤めようが待遇は一切変わることのないブラック企業。こんなことならばローンに苦しもうが奨学金を借りて進学すればよかったのだ。妹もいつの間にか連絡がつかなくなっていた。共通の知り合いからは大っぴらに言えないことで日銭を稼いでいると聞いた。ここまで環境が激変すればそれまで仲の良かった友達も自然と疎遠になるのも無理もない話だろう。
こうして俺は今、テレビを流し見しながら安酒をかっくらう休日を過ごしているのだ。負け組に厳しいご時世なのだから仕方がない。
「……」
だがふと思う。
「これって本当に俺が悪いのか?」
持っていた100均のプラスチックのコップから酒が零れる。
「そもそも事故に遭ったのが元凶なんだ。好きで事故を起こしたわけじゃない。疲れが溜まっていたし、親のことを思い出してセンチになって、それでって流れだろ。そんなに悪いことだったのか? 俺が親父の代わりに運転してればよかったってことか?」
日頃の父さんはゴールド免許の優良ドライバーだったのに。ただ親の死を思い出して感傷的になっていただけだ。
「もしあの時、俺が田舎に行くにはやめようって言っていれば。そうすれば父さんも母さんも死ぬことはなかったし、伯母さんの家で肩身の狭い思いをしなくても済んだ。妹だってちゃんと仕事していただろうし、俺だって大卒でまともな企業に就職できたはずだ」
普段なら「くだらない」の一言で済ますようなどうでもいい妄想。
だが今日の俺はいつもより深酒していた。アルコールは良くも悪くも人の感情を増幅し、リミッターを容易く外す。
「そうだ。すべてあの日の事故が悪いんだ。あれさえなければ俺だって真っ当に就職して人並みに結婚して、今頃は子どももいただろう。……全部あの事故のせいだ」
別に特定の誰かを責めているわけじゃないんだ。それに俺は日頃の鬱憤がたまりにたまって愚痴が止まらない。この部屋にいるのは俺だけなのだからグチるくらいはいいだろう。
「あの日に戻れたら……あの事故が起こる前に戻れたら。俺は。俺は――」
「――時雄。時雄」
俺を呼ぶ声がする。とても懐かしい声。すぐに誰のものとは思い出せない声だ。
長年溜め込んだ筋肉痛は跡形もなく消えている。俺はゆっくり起き上がった。
「時雄、こんなところで寝るんじゃない。風邪ひくぞ」
「……」
起き上がった俺をじっと見つめる男性の顔。
「……父さん?」
それは紛れもない父の顔だった。亡くなった当時のまま。今の俺より遥かに若々しい。
「何をぼんやりしているんだ。明日はおじいちゃんの家に行くんだから。お前たちは早く寝て体力を蓄えておきなさい」
「……」
まさか。
そう思ったが、もし本当に俺の願ったとおり時間が戻ったとしたら。壁の掛けカレンダーの日付は20年前の8月12日。
「時雄?」
父さんが心配そうな顔で俺を見る。記憶の中の父さんは大人になった俺より若く見える。
理由はわからない。だが今この場で帰省を止めていたら俺の人生が変わると直感した。考えるべきなのは今とこれからだけだ。
「ねえ、父さん」
「なんだ?」
「俺、なんか熱っぽくて……頭も痛くてお腹も痛い」
嘘だ。
だが帰省を取りやめにするためには体調不良とでも言わないと強行するだろう。やむを得ない理由でもなければ父さんは納得しない。
「夏風邪かな。大丈夫か?」
「だめかも。くらくらする……悪い病気にでもかかったのかな」
心配そうな父さんには申し訳ないが、俺は精一杯体調の悪いフリをした。
「これじゃ、お爺ちゃんの家に行くのは無理かも……」
帰省さえしなければ事故は起こらない。
両親は死なずに済むし、俺たちも伯母の家に引き取られることもない。みんな幸せになれるんだ。
「……でも。俺の父さんの初盆なのに」
簡単に帰省を取りやめるとはならなかった。
「でも、調子の悪い俺を一人で留守番させるの?」
「……」
よくわからないが初盆とやらはそれだけ大事なものらしい。けれど個人の供養は生きていてこそできるものだ。死者の供養のために自分が死んでは意味がないじゃないか。
父さんは眉根を寄せてしばらく悩んでいたようだが、やがて諦めたように言った。
「わかった」
予想以上に重苦しい空気だ。それほど祖父の供養とやらが大事だったのだろうか。うっかりセンチになって事故ったことを思い出した。
「ありがとう、父さん」
これで両親が死ぬことはない。
俺の人生もよくなるはずだ――
俺の人生もよくなるはず――そんな風に思っていた頃が俺にもあった。
だが現実はそう甘くなかった。
「辛気臭いツラしやがって!」
背後から父さんの罵声が飛んでくる。
俺は慌てて機嫌を取るためにビールを差し出した。すると不機嫌丸出しだった父さんの表情が少しだけ和らいだ。
「ケッ!」
ぐびぐびとビールを飲み干す父さんの様子を俺は黙って見つめていた。
「……」
どうしてこうなったのだろう。
あれから、俺の仮病によって帰省を取りやめにしてから。父さんは盆が終わるまでずっと帰省を諦めきれずにいたようで、ソワソワしていた。余程祖父の初盆をやりに戻りたかったのだろう。
だがそれでも、事故を防ぎたい俺はその邪魔をすることしかできない。結局この年は帰省することなく、家で過ごした。無事両親の死を防いだ俺はそれだけで満足だった。
問題はそれからだった。
俺は祖父のことはよく知らなかったのだが、父さんとは親子仲が非常によく、父さんは幼いころから祖父のことを大事に思っていたらしい。ひょっとすると妻や子である母さんや俺たちよりも。
それほど大事な祖父の供養を台無しにした俺はそれ以降父さんから冷たく扱われるようになった。俺の仮病のせいで最愛の父の供養が台無しになったということらしい。母さんと妹への態度も少し変わったようだ。
「もしもあの日、帰省していれば……」
ビールを飲みながら父さんは呟いた。
帰省せずに俺と妹の夏休みが終わった頃、我が家では立て続けに悪いことが起こった。
築年数は五年くらいだった自宅の一部が原因不明の崩落、近所に一日中喚き散らす住人が越してきた上に、母さんのパート先が潰れ、父さんはストレスからかメンタルが不調で仕事を休みがちになった。その影響で我が家の食卓は貧しくなったし、毎年の家族旅行はそれきりなしになり、高校すら学費も通学費も安く済むような近場の底辺校しか選択肢がなくなった。妹も中学生になったばかりの時点で質の悪い連中とつるむようになった。家族全員の顔から笑みが消えたのはこの頃からだ。
「父さんが怒っているんだ」
父さんはいつもこう言ってブツブツと呟く。
冷静に考えるとなぜこうも悪いことばかり続くのか。それぞれの出来事に関連性はないし、ここまで重なるものなのだろうか。たしかにタイミング的に祟りだと思った方がしっくりくる気がする。
そしてこれまで朗らかだった両親は別人のように暗い顔をして恨み言ばかり吐くようになった。どこかで見覚えのあるその顔は、きっとやり直す前の俺とそっくりなのだろう。
どうしてこうなったのだろう。
もしもあの時、俺がやり直さなければ。そうすれば両親の負の面を見ることなく美しい思い出として残っていたのだろうか。
やり直した俺が悪いのだろうか。
「あの日に戻れたら……」
大切だった家族のこんな面を目にすることもなかっただろうに。綺麗な思い出としてしまっておけただろうに。
戻りたい。やり直す前のあの日に。
人生に「もしも」も「たら」も「れば」もない。何があっても時間は前に進むのみだ。
それでも願わずにはいられない。
「もしもあの日に戻れたら、俺は絶対にこんな失敗なんかしないのに」
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