執筆応援企画SS集
曇天を斬る
まとわりつくような湿り気のある暑さに、沖田総司は思わず眉をひそめた。
夏の半ば、一年の内で最も暑い時期なのだから酷暑も当然ではあるものの、総司の今の心境にぴたりとはまるような天候にはうんざりさせられていた。
「近藤さんも土方さんも、そんなに武士になりたいのかねェ……?」
手入れのされていない夏草が茂る土手に腰かけ、ぼんやりと独り言ちた。
試衛館の内弟子として暮らしていると偶に使いを頼まれることもある。この日もその所用の帰り。思っていたよりも早々と用事が済んだため、こっそりと一休みしているのだ。
見上げた空は今日も鈍色の雲が浮かぶ曇天である。ここ数日雨が降っては小休止でもするかのように僅かに止み、再び降っての繰り返しだった。そのため暗い色の雲は空から退散することもない。
その停滞ぶりはらしくもなく小難し気なことを考えこむ自身の心境そのもので、総司の眉間に皺が寄る。
「武士、武士、ってさァ。天然理心流は実践向きと言っておきながら、結局は身分が欲しいってことですかねェ。土方さんはともかく、近藤さんまで武士になりたかったとは思わなんだ」
役者のように整った顔立ちながらも裡に野心を秘めた土方ならおかしくもない。だが、大らかで周囲から慕われる人柄の近藤までそんな望みを抱いていたことは意外だった。近藤さんはただ己を高めたいだけだとばかり思っていたのに。
総司は空に向かってらしくもない愚痴を零しつつ、ここ最近のことを思い返した。
話の切欠は酒の席での雑談だった。
試衛館には門弟も食客も多い。剣術の修行が目当てというよりも、塾頭の近藤の人柄に惹かれた若者たちが屯していた。近藤も元々大らかで面倒見のいい気性だったから嫌な顔ひとつせず交流を重ねていた。
あまり裕福ではないにしても、肴はなくともたまの安酒くらいの羽目を外すことくらいはある。その日もその羽目を外した日だった。
総司は酒は飲めるものの特に好きというわけではないため、安酒で顔を赤らめる同輩といつもの冗談を言い合って笑っていた。見慣れた光景、この先どうなるかなど総司にはよくわからないし、考えようとしても具体的な想像はできなかった。試衛館では剣に関する天分のを褒められることは多々あったものの、時勢や難しい話などはわからないし、興味もないし、覚える気もなかった。自分にはそんなものはなくとも困ることなどないのだし。沖田家の長男というのは事実だが、既に姉のミツが婿を取って跡取りのことも話がまとまっていた。自分からこれからのことなど考えなくとも困ることはないだろう。
家のことは頼もしい姉夫妻に任せて俺は剣の腕を磨いていればいい。
幸いと言ってはなんだが、未だに世の何処かでは倒幕だの尊皇攘夷だの言われていると聞く。詳しい思想などわからない。万が一にも腕自慢を募集したりすることがあればその時にでも存分に活躍出来たらいい。そんな夢のような話などあるわけがないが。
漠然とそのように思っていた総司の前で近藤がいつものように拳骨を口に入れて笑っている。
「近藤さんはいつも朗らかだなァ」
昔から変わらない兄貴分の様子を眺めながら、総司はちびちびと酒を舐める。見慣れた食客たちはいつもの様相を見せていた。
「攘夷のご時世って聞くが、どうせ活躍できるのは身元のきちんとした家柄の男だけなんだろう」
「いざ機会があれば俺たちはいいとこの連中にだって引けを取らねえってのにな。やっぱり機会が与えられるかられないかの差だよな」
「ああ、本当に」
どこか切実な熱の籠った言葉に、総司はふとそちらへ視線を向けた。
永倉と原田、その横で呆れた表情を浮かべた藤堂が徳利を傾けている。
「武士になりてぇな」
拍子を合わせたわけでもないだろう。
だが三人はほぼ同時に同じ言葉を吐き出していた。
「……」
総司はこの言葉が妙に胸に残る。
武士。
彼ら三人だけではない。近藤も土方も、人並み以上に武士への憧れを抱いているようだった。二人は元々武士とは程遠い農民の生まれ。その出自ではどうあがいても武士になる、その上一旗揚げるなど途方もない高望みである。
「武士に、なる……」
総司は小さな声でこの言葉を反芻した。
「武士、かぁ……」
どこまでも広がる空を見上げながら酒の席でのことを思い返した総司は今でも彼らの気持ちを完全に理解できてはいなかった。
農家の出身である近藤と土方とは違い、総司は白河浪人の父の元に生まれた。ただし幼いころに親を亡くしたために詳しいことは姉のミツの話でしか知らない。幼い時分に内弟子として預けられた総司からすればそこまで侍に夢を持てずにいる。
加えて、総司は他の者と違い欲が薄い性分だった。
立身出世も豪勢な生活も特に欲しいとは思わないし、派手な異性交遊にもいまいち興味が持てずにいる。近藤や土方からはその欲のなさを不思議がられることも多いが、総司としては興味がないとしか答えようがない。
欲しいという気持ちが薄いものだから、必死になって得ようと思うものもない。
「俺はひょっとしたら、人として必要な何かが欠けているのかもしれないな」
欲や夢、野望とでも呼ばれるもの。
昔から欲する感情が抜け落ちているような気がしていた。執着がないゆえに興味が持てない。
空に浮かぶ無数の雲は風に流されるまま広い空を揺蕩っている。
雲には自我などないし、これがしたいという欲もない。ただ自然に身を任せて成すがままになっている。
その様がどこか自分に似ている気がした。
「それでも、俺は雲じゃなくて人間だから。せめて何かを手に入れたい。……強さくらいは欲していたいのかも?」
何も求めることができないから、ひたむきに剣一筋でいられる。それくらいしか熱を上げるものがないから誰より熱心に稽古に打ち込むことができる。
だがいつか、その剣を振るうことが叶わなくなった時は。
「剣を失う時が俺の最期なのだろうな」
心に巣食う迷いを断ち切れなくなった時には、自分は身体ではなく心が死ぬのだろう。暗雲を断ち切れない剣士に誰も用などないのだから。
だからずっと近藤と土方の傍らにいて彼らを曇らす雲を切り続けるのだ。もしも強大な敵が自分たちの前に立ちふさがったときは、真っ先に自分が切り込んで捻じ伏せる。
「俺は生きる限り曇天を斬り続ける。俺にはそれしかないんだから」
雲が切れた隙間から夕陽が差し込んできた。
それはまるで暗雲を切り裂く剣劇のように鋭く辺りを照らした。
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