執筆応援企画SS集

すべてはくらやみの中

 私は幸福だと思う。
 私は不幸だと思う。
 これは対極ではあるものの、実際私はどちらでもあると思っている。私は幸福であり、不幸である。
 資産家の家庭にいて、両親にはあふれんばかりの愛情をもらい、何不自由なく暮らしている。休日には希望する場所に連れて行ってくれるし、食事も美味しいし、使用人たちとも仲がいい。
 傍から聞けば多くの人が羨ましいというであろう環境だ。自分でもとても恵まれていると思う。
 なのに、私はこの幸福を全部鵜呑みにはできずにいる。
 私が不幸だと感じるのは、一か月前までの自分の記憶が一切ないからだ。
 優しい両親、清潔で綺麗な我が家、美味しい食事。
 幼いころから私はこれだけ満ち足りた環境で育ってきたはず。そのはずなのに、私は自分がこれまで育ってきた記憶が欠片もないのだ。
 どれだけ両親から「貴女が小さいときはね」などと昔の思い出話をしようが、「昔からこれが好きだったね」などと見覚えのないおもちゃを見せられようが、「今でもこのスープが好きなのよね」と微笑まれようが、すべてが自分ではない誰かの話をしているように感じられてしまう。
 それは本当に「私」のことなのだろうか。本当は「別の誰か」の話ではないのだろうか。
 この屋敷で暮らしていた「別の誰か」と「私」を同一視しているだけではないのだろうか。
 我ながら荒唐無稽な妄想だと自覚はしている。
 だがどうしても、一度浮かんでしまった疑念は消えないシミのように私の心を侵蝕していく。
 私は、本当に両親の子供なのだろうか。
 そもそも私は誰なのだろうか。
 幸福だとは思っている。なのに記憶がないという一点だけで、自分はとてつもなく不幸だと思ってしまう。
 

「あと一か月で貴女の誕生日ね」
 柔らかな陽が差し込むリビングでの朝食の最中。
 母がようやく言うタイミングを見つけたとでもいう調子で微笑んだ。父は仕事で留守にしているらしい。
「あ、はい……そうですね」
 私はとっさにそう返す。
 そういえばちょうど一か月後は私の誕生日だった。記憶にはないが、母が言うのだからそうなのだろう。
「貴女ってば。自分のお祝いなのに他人事みたいに言うのね」
「……すみません」
 心から残念そうな表情の母には申し訳ないけれど、やはり覚えていないのだから上手く調子を合わせられない。
 愛されていると常に実感しているのに。上手くこの気持ちを表現できない自分に苛立つ。
「まあ、それはいいのよ。大事な我が子の年に一度の記念日ですものね。ご馳走を用意して、貴女の欲しいものを贈るわ。何がいい?」
 私の対応に少し拗ねた様子の母は気を取り直そうとしてそう言った。まだ笑みは残っている。
 こんなにも私は大事にされて愛されているのに。なぜ私は記憶がないというだけで大きな愛情を疑ってしまうのだろう。自分の猜疑心が嫌になってくる。
 ずっとこのままではいたくない。この大きな屈託を取り除かないことには私は素直に親の愛情を受け取ることはできない。
 私はテーブルに並んでいる写真立てに視線を向けながら言った。
「欲しいもの、あります」
「なぁに?」
 母は変わらず微笑んでいる。慈愛の笑みとはまさしくこれなのだろう。
 私は一瞬躊躇ったのち、意を決して口を開いた。
「過去が欲しいです」
 それまで穏やかに微笑んでいた母の表情が一瞬凍った。
 しかし次の瞬間には元通りの笑みに戻りそうになった。が、それは無理だった。
 ぎこちなさが残る母の微笑むに向けて私は続けた。
「以前説明した通り、私には記憶がありません。昔のことを一切覚えていないのです」
「……」
「私はとても不安なんです。記憶がないと、私は誰なのか、どんな人物なのかもわからない。私は本当に私なのでしょうか?」
「……貴女は貴女よ。それ以外の何物でもないの」
「怖いんです。この屋敷で私のことを一番わかっていないのは私自身なんですから。自分が理解できないのは、私にとって最大の恐怖です」
「……」
 母は私の言葉を真剣に聞いていた。
 それは母が最大限に私に寄り添ってくれている証拠だ。私を大事に想っているからこそ、私を尊重してくれるのだ。
 逆にいえば、それだけ思っているのに真実が伝えられないのは、事実は私にとって決して優しいだけのものではないということに違いない。不都合が大きいのだろう。でなければとうに話をしてくれているはずだから。
「お願いします」
 頭の中に浮かぶ可能性はどれも恐ろしいものだった。
 きっと良くないことが起こるのだろう。漠然とした不安は十二分に理解しているが、私はどうしても欠落した「自分」を取り戻したい欲求には敵わなかった。
「……一か月後」
「えっ?」
「貴女が欲しいものをあげる。私はそう言ったもの。だから、貴女がそこまで欲しがっているのならば私は与えるわ」
「ありがとうございます!」
 気づいたら勢いよく頭を下げていた。
 母はそんな私を見て苦笑している。ぎこちなさはない、自然な笑い方。
「その代わり、それまでもう二度とこの話はしないで頂戴」
「はい」
 約束を交わしたことで私は安心できた。
 言われた通り一か月待とう。ただそれだけでずっと求めていたものが手に入るのだから。
「じゃあ食事を続けましょう」
 話を終えた私たちは再びカトラリーを握った。


 私の過去をくれると母が約束してくれたおかげで、私はこの一か月間を長く感じていた。
 もうすぐ自分の過去がわかる。今まで、といっても最近のことでしかないけれど、切望してきた私の過去。たとえそれがどのようなものだったとしても、私は受け入れてみせる。のは両親だ。
「さて……」
 重々しく口を開いたのは父だった。
 近頃仕事が忙しいらしく、ろくに帰宅していなかった。さぞかし疲れ果てているだろうと思っていたのに、予想以上に元気そうで安心した。むしろ以前より血色がよくなっているような気すらする。
 そしていよいよ約束した日から一か月。約束の日だ。
 私は自分が緊張しているのだと自覚しながらも、大人しくテーブルに着いた。向かいに座る
「何から話せばいいのか」
「まずは、私は本当にお二人の子供なのか」
「ほう?」
 父は愉快そうに口元をゆがめた。
 その笑い方がなんとなく不快ではあったけれども黙っていた。母はあえてそう務めているのか無表情だ。
「なぜそんなことを聞く?」
「大事なことだからです」
「ふむ……」
 自分が何者なのか。
 きっとこれは誰にとっても重要なことだろう。制度的にも、自分の意識的にも。自分がどこの誰なのかわからないのは想像を絶する恐怖だ。
 自分はこのような存在だ。
 それが証明され、保証されていないと安心して暮らすことは難しい。
「私は誰なんです? ずっと、ずっとそれが気になっていました」
「……」
「……」
 父と母は黙って私の言い分を聞いてくれている。
 私はそのまま続けた。
「私は本当に貴方がたの子供なのでしょうか? 私はどんな子供でしたか? 昔の私はどんなものが好きで、どんなものが嫌いでしたか? そんなことすらわからないんです。自分というものがわからないのも無理もないと思いませんか?」
「なるほど、な」
 父は納得したとでも言いたげに深く頷く。
 記憶が欲しい理由を理解してくれたのだと、私はホッと胸をなでおろす。父も母も約束を違えるような人じゃない。今日は絶対に真実を手に入れられる記念日になるはずだ。
「やはり、お前もか」
 そのはずなのに、前日まではお祝いで盛り上がっていたはずの母も重苦しい雰囲気の父と同じ表情になる。
 それに気になるのは、お前もか。私も、ということは他にも誰かがいるということだろう。も、というのはそういうことだ。
 嫌な予感を覚えつつ、私は父だけに視線を集中した。
「お前も、とは? 私以外にも誰かが……?」
「いたな。今のお前とほぼ同じことを言っていた。記憶などどうでもいいじゃないか。どうせ――」
 父の言葉が終わらないうちに後頭部に焼けるような激しい痛みが走った。
「あっ……!」
「すぐ俺の腹の中に入るんだから」
 優しかった父の低い声が獣のようなだみ声に聞こえるのは幻聴だろうか。
 そうであってほしい。
 一度で済まない断続的な痛みはやむことがない。徐々に熱は全身に広がっていく。熱い。
 目の前が赤く染まって、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。もう私は助からないのだと直感的に悟った。
 一瞬だけ見ることができた母の顔は痛ましいものを見る眼をしていた。よかった。せめて母だけはこの結果を悲しんでくれるのだ。
 私は間もなくこの命を終えるのだろう。それだけはわかっている。
 だが、せめて自分の名前だけは知りたいと思う。結局、私はどこの誰だったのか。何者だったのだろうか。
 真っ黒に塗りつぶされていく視界の中で、最後に父が漏らした一言が聞こえた。
「また次の子を連れてこないといけないな」
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