執筆応援企画SS集
アッシー君
「ねぇ、聞いてる? アッシー君ってば!」
「ちゃんと聞いてますよ。ひどいですね、その上司」
つい数時間前まで煌々とネオンが輝いていた街は、今や燃え尽きたかのように勢いを失っていた。
現在時刻、午前二時過ぎ。昼間は無数といってよい人波が闊歩していたのに、現在の人通りはまばらだ。残っている灯は二十四時間営業のコンビニや夜の店くらいのもの。現在地は昼と夜の差が顕著だ。東京といっても、派手な街と地味な街があるのだ。ここは後者である。
終電も逃した彼女はアッシー君に助けられた。車の後部座席でハイヒールを脱いでくつろいでいる。
「あとどのくらいで着くの?」
「今日は道が空いてますからね。十五分もあれば十分です」
「そっかー、じゃあやめとこっかな」
彼女は車に乗り込む前にコンビニで購入したビールを袋に戻した。つまみと接触してガサガサ音を立てる。
まだ時間があるのならここで一杯やろうと思ったのに。どうせ自宅でも一緒に飲む相手などいないのだから。
「その方が無難ですよ。疲れた体にアルコールは効きすぎるし……」
「あのさぁ、何度も言ってるよね。敬語はやめてって」
彼女がむくれたように言うと、一瞬バックミラーに目配せをして、アッシー君は微笑んだ。
「ごめんごめん。つい癖で」
「もう!」
「それで、その上司は結局どうなったの?」
「パワハラでどっかに飛ばされたらしいのよ。いい気味じゃない?」
今度は満足げに笑って彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。アッシー君はハンドルを注意深く見つめながら同調する。
「そうだね。この頃疲れた顔してたから心配だったんだ。悩みの種が一つ減って安心した」
「けどさぁ、あたし付き合ってた彼と別れたじゃない? やっとあのヘタレと離れられて清々したのにさ、今度は友達がひどいのよ」
「どんな風に?」
いきなり前方から飛び出してきたトラックを綺麗によけつつ、アッシー君は話の続きを促した。軽く揺れたが、後部座席の彼女は特に気づいた様子もなく、アッシー君はホッとした。丁寧で安全な運転が自分にとって一番大事だと心の中で言い聞かせる。
「振ったあたしの方はすっきりしてんのに、友達は『もったいない』とか『せっかくイケメンだったのに』とか、今更そんなこと言うのよ? そう思うなら最初から別れちゃえばとか言わなきゃいいのにさ」
「そうだね」
「家族もろくなもんじゃないし、この前実家に帰ったら飼い犬まであたしに向かって吠えるのよ? いったい何年一緒にいたと思ってるのよ。あたしだって餌あげたし、散歩にだって連れてったのに」
勢いが乗って来たのか、彼女の愚痴が滑らかに飛び出すようになってきた。次第に何が言いたいのかよくわからない論調になり、更に早口になり、何を言っているのかもよくわからなくなってきた。
「……」
余計なアドバイスを一切することなく、彼はただ黙って彼女の愚痴を聞いていた。自分は余計なことは何一つ言ってはならないと自覚している。彼女の気に障ることを言ってはならない。自分は恋人でもなければ友達でもない。
なにしろ自分は、彼女にとっては大勢いるアッシー君の中のひとりでしかないのだから。
「――でさぁ」
「着きましたよ」
アッシー君が車を止めた。
すぐそばに古いアパートが建っている。彼女の自宅だ。老朽化していて、大分痛んでいるのが暗闇でもわかる。ヘッドライトが庭を照らして生え放題の草を照らした。
「もう着いちゃったの? さすが、運転上手いし早いし安全ね。やっぱりアッシー君がいてくれてよかったわぁ!」
彼女は荷物を手にして下車する準備をした。ただハイヒールを履きなおしてバッグを持っただけだが。
「またよろしく頼むわね。支払いはいつも通りに」
「はい、今日も送迎サービス『アッシー君』をご利用ありがとうございました。またの機会にご利用いただけますよう、お願い申し上げます」
アッシー君は満面の笑みを浮かべて彼女に頭を下げた。
車から降りた彼女はその表情を見て満足したらしい。愚痴を吐いていた時が嘘のように晴れ晴れとした顔をしている。
「堅苦しい営業スマイルねぇ……そんなこと言わなくても、また頼むからさ。だから、あたし専属のアッシー君にならない? お給料弾むけど?」
「いえ。長年勤めているので義理もありますし。……あと、俺が個人的にあんたみたいなの嫌いなんで」
先ほどまでの愛想の良さが嘘のようにアッシー君は辛辣な言葉を吐いた。数秒前に浮かべていた営業用スマイルもどこかに消えている。
今のアッシー君は不機嫌を隠さない。睨みつけるような鋭い目、吊り上がった眉、固く結んだ唇のまま客だった『彼女』を冷たく見つめている。
「あはっ! あたしは個人的にあんたみたいなの好きだけどなぁ」
「……仕事じゃなかったら、俺としては絶対関わり合いになりたくないですね」
「素がこーゆー冷たい奴だからいいのよね。ずっとあんなスパダリ系アッシー君だったら、ここまでリピートしてないわ」
「それはどうも」
冷たく吐き捨て、アッシー君は再びハンドルに視線を向けた。
今日はまだ一件指名が入っている。あちらはもっと手がかかる客だ。
「では、また」
「ええ、また」
きっとこの『彼女』は再び『このアッシー君を』と指名するのだろう。
個人としては嫌いなタイプであるものの、安定して指名してくれる客は一人いるだけでもありがたい。何しろ競争が激しい業界なのだから。
タクシードライバーという職種は今や存続の危機だった。
かつては都内でタクシーが捕まらない事態があり、支払いに万札を出す客が運転手に舌打ちされる時代もあったという。今や昔の話だ。
それからしばらくはまだまだ需要があった。終電を逃した客や夜職の客、知人の家から帰宅する客、上京したてで地理が把握できていない客、足腰が弱った高者の客。タクシーは公共機関では届かない痒いところに手が届く乗り物として親しまれていた。
しかし。
各世代に需要があるのは現在でも変わらない。ただし、自動運転が普及した現在は人間の運転はむしろ危なっかしいという意見が大半を占めるようになっていた。おまけに人間は疲労を避けられないし、咄嗟の判断ミスの可能性も指摘された。
今や生身のタクシードライバーは廃業の危機に陥っている。
だがそれでも。
古くからタクシーに親しんできた者たちもいる。移動中に運転手と他愛ない会話を楽しみたいという者も未だに残っていた。機械の冷たい感じが嫌だ、人間の運転手と話しながら移動したい。
そんな少なくない需要にこたえて誕生したのが、この『アッシー君』というサービスだった。
タクシー運転手、運転代行が主な業務だが、客が望めば話し相手にもなるし、黙って愚痴を聞く相手にもなる。もちろん、ただ黙って運転してほしいという注文にも応える寡黙な運転手もいる。
客が利用するときには総合センターに電話して、希望の運転手を選ぶことができ、客の望む対応をオプションとして選択できる。話し相手になってほしい、ただ黙って愚痴を聞いてほしい、アドバイスが欲しい。客の要望に合わせて細かく定められたオプション。このオプション分は別料金であるが、需要は高く、運転料金よりこちらで稼ぐアッシー君は多い。
初めて就職する若者も、転職する中年も、女性も、定年退職した壮年も。必要資格が運転免許の所持のみなので、サービスを開始して即座に申し込みが殺到した。自分の個性に合わせて客の対応を振り分けられるので特にストレスもない。おしゃべりな運転手も話が苦手な運転手も、それぞれ需要がある。
消滅するかに思われていたタクシードライバーは、現在の登録商標『アッシー君』に名称を変えて復活した。
「あーあ、また明日も愚痴を聞かなきゃならんのか……」
一仕事終えたアッシー君は休憩を挟んで次の仕事に向かった。
ハンドルを操りながら、彼は独り言ちる。
「ま、いっか。おかげでだいぶ小説のネタも溜まって来たし」
アッシー君は副業可能。
彼は小説家を目指しているものの、ネタが集まらず苦戦していた。そんな彼にとってアッシー君はネタの宝庫だった。今では客の話を聞くうちにネタに困ることはなくなっている。そろそろ新作にかかろうか。
「よし、次行こう!」
アッシー君は休憩したのち、再びアクセルを踏んだ。
Copyright 2023 rizu_souya All rights reserved.