執筆応援企画SS集

地獄で仏

 視界は真っ白だった。
 白いもや、白い壁、白いなにか。
 眼に映るものはほとんど真っ白で、逆に真っ黒の服がくっきりと見えた。大人たちが着ていた黒い服は、こういった場での正装なのだと知ったのはそれから数年経ってからだった。
 正直、この時亡くなったのはどこの誰で、自分とどんな関係の人なのかは知らなかったし、興味もなかった。
 親に連れられて葬式に出席しただけ。遺影の中で笑っている人の顔もすぐに忘れてしまった。ただし、この時に食べた料理はとてもおいしかったということはよく覚えている。子供なんてそんなものだろう。
 両親の代わりに私の傍に付き添っていたお祖母ちゃんはこんなことを言っていた。
「――ちゃんはね、昔からいい子だったからね。真面目に頑張りすぎちゃったんだろうね」
「ふぅん」
「人より何倍も努力できる子だったから。周りの人はみんな頼りすぎたんだろう。優秀な子だし、誰とでも仲良くできる子だったから」
「そう」
 私はお祖母ちゃんによる故人の思い出話を聞き流しつつ、出されたお弁当をひたすら口に運んでいた。
 いつも食べてるのより地味だけど、これはこれで美味しい。おかわりをもらいたいけど、そういうのっていいのかな?
 お祖母ちゃんが涙目になるのを知ってはいたけれど、私にはそんなものより珍しい料理の方が大事なことだった。
「きっと天国に行ったんだろう。そうでも思わないとやってられないよ……っく」
 最後にはこらえきれなくなって嗚咽が混ざった。
 さすがに何かを言うべきかとも思ったけど、まだまだ子供でしかない私が何かを言ったところで、どうにもなるわけでもないだろう。
 結局、私はひたすら料理を食べ続けているだけだった。
 天国。
 きっとそこは美味しいご飯が好きなだけ食べられて、好きなだけ遊んで、好きなだけ寝て、好きなだけ好きなことだけをしていられるようなところなんだろう。この世のものとは思えないほど素敵な景色が広がっていて、そこにいるのは美男美女だけなのだろう。もちろん、病気もなければ死もないんだろう。
 そのくらいのいいところでなくちゃ、お祖母ちゃんがあれだけ褒めていた人が死後に向かう場所として不足じゃないか。天国っていうのは苦難に耐えたご褒美なんだから、想像もできないほど素晴らしい場所じゃないと割に合わない。
 善人はしっかり報われるべきじゃないか。
 と、まあ、私はそう思っているわけだが、だからといって私が善人というわけでもなく。
 生前の私は「天国? そんなの信じてんの? 子供かよ〜w」みたいな感じに思っていたので、ここの基準で言うところの「善人」にはならないのだろう。

「――まあ、正直なところは長所ではありますからね」
 目の前の裁判官は何とも複雑な表情で眉根を寄せた。
 どこかで見たことがあるようなないような気がする顔だった。
 実際、向こうも私の顔を見たときに一瞬反応した。ものすごくイヤそうな顔をしたのを私は見逃していない。すぐに何でもないといった顔をしたけど、私は見逃さなかった。
「ええ、私ってすごく正直なんです。その証拠に不利になりそうな昔の葬儀の話をしたじゃないですか。隠したければ自分から言いませんって」
 いっそわかりやすく媚びたジェスチャーでもすればいいのだろうか。
 ここの判決次第で行き先が決まるわけだし。天国か地獄か。比喩じゃなくて。
「お釈迦様はたった一つの善行だけで盗人を助けようとしたじゃないですか。私なんて悪行をしていないし、正直だし、従順だし、すごく善人だと思いません? だから、ここはひとつ」
「……ひとつ、いいですか?」
 裁判官はピクリと顔をひきつらせた。
 あ、見たことのある表情だ。仕事先でこういう顔をするお局様がいたっけな。私がちょっとでもミスすると、信じられないとでも言いたげな顔してたっけ。ああいう人って若手をいびることしか楽しみがないんだろうな。
「どうぞ?」
 私はそんなことを考えながら先を促した。
 ほんとにどこかで見たことがある、この人。すごく昔だったと思うけど。
「私は、個人的にアナタみたいな人が嫌いです」
 裁判官がそんな個人的な好き嫌いを言って許されるのだろうか。
「はぁ……そうですか」
 嫌いと言われても、こうとしか答えようがない。
 世の中、全員に好かれる人なんていないんだし。どうしても相性の悪い人っていうのはいるものだし。それに関して何か言う気はない。
 ただし私も言われっぱなしは癪なので。
「まぁ、私も嫌いですけどね。アナタみたいな自分の要領の悪さを棚に上げて、うまく世渡りしてる人に八つ当たりする人」
 嫌いだとだけ言えばよかったんだけど、ついつい本音がポロリと出てしまった。
 常々思ってることだから仕方がない。なんかこの人って、兄貴に似てるから、つい。兄貴も要領が悪いから、なんか見ててイラつくんだよね。
 さすがに言い過ぎたと自覚したころには、この人のこめかみがピクピクしていた。
 あ、やば。
「じゃあ、お互い顔を合わせずに済むように、地獄ということで」
「ちょちょちょ、ちょっと待ったぁー!」
 そんな適当なノリで決められてたまるか。
 しかし、私の反論を待たず、足元が急に崩れ落ちた。
「あ」
 私はそのままほぼ直角に地獄へと落ちていった。
「あんのクソアマぁー!」


 こうして私は、地獄に落ちた。
 比喩でもなんでもなく、文字通りの地獄に。
 まったく、個人的に私が嫌いだからってここまでするのか。私情にもほどがある。
「おい、何ボケッとしてるんだよ!」
「使えない新人に用はねえよ」
「さっさとしろ、ボケ!」
 ちょっとぼんやりしただけなのに、先輩から怒涛の叱責が降ってくる。背中を向けてたはずなのに聞こえたのだろうか。
 てっきり極悪顔の鬼みたいな人がいるのかと思ったけれど、地獄に落とされたということは生前は人間だったということだ。ゆえに、地獄に落とされた先輩も、意地が悪かったり、性根が腐っていたものの、普通の人間である。犯罪者も含まれているから、ここで「普通の」と形容するのは何か違うとは思うけれど。
 一度こっそり舌打ちをして、慌てて作業に戻る。
「やー、なんかすみませんね?」
 ここ地獄は、地獄というだけあって、地獄だった。
 説明になっていないけど本当のことだ。地獄マジ地獄。
 血の池地獄とか針山があるとか、その手の話はどこかで聞いたことがあったけど、今この場にはない。きっとどこかにはあるんだろうけど。
 どうやら生前の行いによって、いくつかある地獄の中から選んで送られるらしい。私は生前怠けていたと見なされたらしく、強制労働の地獄というところに送られた。もし前科があったら、働くだけじゃ済まされないらしい。
 強制労働というだけあって、厳しい肉体労働をひたすらやらされる地獄だ。休憩もあるけども、なんで死んでまで働かなきゃならないのか。先輩が言うには、ここはかなり軽い地獄だということだけど。
 私はそこまで行いも悪くなかったからここなのだろう。地獄送りという時点で納得がいかないけど。
 気がついたら死んでいて、自分の意志もなく強制的に法廷に立たされ、無理やり働かされる。
 現世も幽世も大して変わらない。
 一方的に搾取される労働者と、権力者の気まぐれがあるだけだ。
「……あ」
 ここでようやく思いだした。
 我ながらなんて唐突だと思うけれど、忘れたと思っていたことが何の関係もない瞬間に思いだすことってあるじゃない。それだった。
「あの裁判官……あの時死んだ人だ」
 子供のころに親に連れていかれた、知らない誰かの葬儀。
 特に興味もないけど、一応礼儀としてちらっと見た遺影に写っていたのは、間違いなくあの女だった。あの時のことはよく覚えていないけど、あの女のことをどうでもいいと思っていたことは覚えている。たしか私は、滅多に食べる機会のない精進料理のことしか考えていなかったのだということだけは思いだせる。
「だから、嫌いとか言ってきたんだ……」
 自分の葬儀に来ておいて、自分に微塵も興味がないっていうのはたしかに腹立たしいことだろう。私はそんな経験なんてないけど。
 だとしても、心が狭すぎやしないだろうか。子供相手に本気でムカつくなよ。ムカつく女だ。
「おい、飯だぞ」
「えっ? 今日は何?」
 あの女のことを思い出して不機嫌になっていた私の耳に届いた先輩の一言に、ムカつきが一瞬でどこかに行った。
 地獄に来てからというものの、食事が美味しくてたまらない。生前はただの栄養補給でしかなかったのに、今は子供のころに戻ったように食事の時間が待ち遠しくなった。
 働いて汗を流した後の食事というものはこれほど格別なものだったのか。配膳担当が質素な食事を運んでくる。腕を伸ばして自分の分を確保。
 そうして私は沢庵がとおにぎりを齧りつつ、味も噛みしめる。
「ああ、美味しい……」
 ああ、人間ってほんの些細なことでも幸せを感じられるようにできてるんだなぁ。すごくおいしい。
 勘違いしてたけども、地獄ってただの罰だけの場所じゃなかった。しっかり働けば食事や睡眠は確保されている。人並みの生活は送れるように制度が整っているのだ。
 社会に出てからは落ち着いて食事の時間を確保しなかったけど、ここでは規則にのっとって決まった時間に食事をする。生前はうっとおしいと思っていた規則が、今ではなかなかありがたい。
 おかわりしたいなと思いながら、配膳担当の方を見る。
「まだまだありますからねー」
 よそって食事を運んできてくれる人のふっくらした顔がとても神々しい。食事しか楽しみがない場所では日頃の三倍増しに美味しく感じられる。加えて、配膳担当者はみんなニコニコして気前がいい。おかわりが欲しいといっても、嫌な顔一つせずによそってくれる気前の良さもある。こういう人を女神とか仏っていうんだろう。
 地獄で仏ってまさしくこのことだ。
「おいしっ」
 私は再び、ふっくら炊けたご飯の感覚を全身で感じた。
 人間って結局は寝て食べる環境が確保されていれば、そこが地獄だろうが幸せなのよね。
 私は地獄に落ちて一つの真理を悟ったのだった。
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