執筆応援企画SS集

勤労青年の天獄滞在記

 視界は真っ白だった。
 白いもや、白い壁、白いなにか。
 眼に映るものはほとんど真っ白で、逆に真っ黒の服がくっきりと見えた。大人たちが着ていた黒い服は、こういった場での正装なのだと知ったのはそれから数年経ってからだった。そのくらい当時の俺は子供だった。
 正直、この時亡くなったのはどこの誰で、自分とどんな関係の人なのかは知らなかったし、興味もなかった。それでも、まだ葬儀が何かと知らないくらいの子供であっても、この場は非日常なのだということくらいは空気で察した。
 子供だった俺は、親に連れられて葬式に出席しただけ。遺影の中で笑っている人の顔もすぐに忘れてしまった。元々面識があるのかどうかさえわからなかった。滅多に食べる機会のない、精進料理が詰まった弁当の味もよく覚えていない。食欲がわかなかった。隣にいた妹はうまそうにパクパク食べていたけれど。ここは食堂じゃないんだぞと言ってやりたかったが、なんとなく黙っていた。
 両親の代わりに俺と妹の傍に付き添っていたお祖母ちゃんはこんなことを言っていた。
「――ちゃんはね、昔からいい子だったからね。真面目に頑張りすぎちゃったんだろうね」
「ふぅん」
 なんと相槌を打てばいいのかわからない俺の代わりに、妹が言った。
 それはとてもありがたいのだが、どう見ても本気で聞いていない表情だった。妹は真っすぐに弁当箱を注視していた。
「人より何倍も努力できる子だったから。周りの人はみんな頼りすぎたんだろう。優秀な子だし、誰とでも仲良くできる子だったから」
「そう」
 再び興味がないのが丸わかりの棒読みで妹が相槌をはさむ。だから、話はちゃんと聞けよ。
 俺も俺で、内心ハラハラしているくせに、こういう時にどう返せばいいのかわからなくて何も言えずにいた。気弱で気の利かない孫でごめんよ、お祖母ちゃん。
「きっと天国に行ったんだろう。そうでも思わないとやってられないよ……っく」
 お祖母ちゃんは悲しそうに俯いて呟いた。最後はこらえきれず嗚咽を漏らした。
 故人のことはよく知らないけれど、親しい人が亡くなるというのはこれだけ辛いことなのだ。
 俺は胸が締め付けられるという感情がどのようなものか、この時に実感した。別に親しい人じゃなくとも、人が一人亡くなるというのはこれだけ重大な出来事なのだ。悲しいことなのだ。
 せめて俺は、身近な人を悲しませないように生きていきたい。
 そう思ったんだ。


「判決ー!」
 この声と同時に、木槌のカーンという音が部屋中に鳴り響いた。
 一度だけでは飽き足らず、しばらくカンカン鳴らし続けている。耳にくるな、この音。
 と、そんなどうでもいい感想は今は置いておこう。それよりもよっぽど大事なことがある。
「天国行きで」
 そう、判決だ。
 俺はなぜか法廷にいる。裁判が行われるあの法廷だ。たまにニュースとかで出てくるような、あの場所。
 被告人席にいるのが俺で、裁判官の位置には知らない女性がいた。いや、まったく知らない人ではない気がした。どこかで見たような気がするんだけど、だからといってどこの誰なのかはわからない。
「問題ないでしょう。彼はどこからどう見ても善人です。資料もすべて目を通しましたし」
「異議なし」
「異議ありません」
「文句なしの善人ですね」
 陪審員らしき人々が次々に賛成の声を上げていく。
 それを見て聞いた裁判官は満足げに頷いている。
「あ、あの……ちょっとよろしいですか?」
 おそらく、これは俺も願ってもない結果なのだろう。天国と聞けば大抵の人は素晴らしい場所を想像するだろう。俺だってそうだ。
 けれども俺は、今の状況がわかっていない。まったくわからないのだ。
「はい?」
 機嫌の良さそうな裁判官は首を傾げて俺に微笑みかけた。
 裁判官って私情は厳禁のはずじゃないのか。最初からやけに俺に対して優しいというか、甘い対応だった気がする。俺にとっては悪いことではないんだけど、なんだかモヤモヤする。
「あの、俺はなぜここにいるんでしょう?」
 自分でも何を聞いているのかと呆れるが、やはりこれを聞かないことには混乱したままだ。
「どういうことですか?」
「俺はここで目を覚ます直前まで、会社で仕事してたはずなんですよ。締め切り間近の書類が溜まってて、ひたすらその処理に追われてて……」
 このことはよく覚えている。
 なんといっても納期間近なのに、ええかっこしいの上司が美人社員の分もやっておくとかなんとか言いだしたから。そのしわ寄せが俺たちに来たんだ。そのくせ、自分では全くやらない。上にチクってやろうかとみんなで話し合っていたところだったはずだ。
「できるなら帰りたいんです。まだまだやらなきゃならない仕事も溜まってるし。俺ももっと頑張りたかったし」
 こんな会社ではあるものの、就職難にも諦めずに、必死に粘りに粘ってようやく就職したんだ。ずっとやってみたいと思っていた職種だし、将来やりたいことのために頑張って勉強してきた。向いてないと自覚している運動部に入ったのだって、就職に有利という噂を聞いたからだ。みんなが遊んでいる時だって、努力し続けてきた。
 天国より仕事だ。
「天国なんて行かなくてもいいので、会社に戻らせてください」
 俺はここまで自分の気持ちを主張したこと自体初めてだったかもしれない。
 兄妹の兄というだけで、ずっと我が儘な妹に振り回され、理不尽な我慢を強いられてきた。自分の気持ちなんて言えなかった。
「アナタの行先は会社じゃなくて、天国です」 
 そんな俺の数少ない我が儘を、裁判長はすげなく却下した。
「なぜですかぁ!」
「なぜもなにも……アナタ、気づかないんですか?」
「何にですか?」
「ああ、そうですね……アナタって、いかにもそういう人ですしね」
 掴みかかりそうになる俺を廷吏が緩く抑え込んだ時、裁判官は憐れむような眼差しでそう言った。
「はっきり言ってくださいよ」
「じゃあ、はっきり言いますね。アナタ、もう死んでますから。薄々気づいてるでしょうが」
 裁判官が俺の体を指さした。
 つられてそちらへ眼をやると、俺の身体が半透明になっていた。胸をすり抜けて、後ろの景色がうっすら見える。
「……」
「最初から、アナタには私と似たものを感じてたんですよね。きっとアナタもいい子で真面目で努力家で、友達も多いから頼られがちで、でも優秀だからその期待に応えられちゃうから、また頼まれる。そんなタイプだったんだろうなって」
 なんか、どこかで聞いたような特徴だ。
 けど頷けるものがある。
 他の人に頼られて無理を重ねてしまうのってそういうタイプなんだよな。で、うちの妹みたいな適当な奴に限って頼るのが上手くて、気晴らしも得意だから健康で長生きするっていう。
 考えれば考えるほど、やってられなくなる話だ。
「だからね、はっきり言って同情もあるんですよ。いくら働き者が染みついているからって、死んだ後まであくせく働くっていうのも嫌でしょう? 生前頑張った人にはご褒美がないと。ね? ご褒美ですよ」
「ご褒美……」
 そういえば、特にご褒美なんてもらったことなかったな。
 長男なんだから頑張るのが当たり前で、いい兄貴でいい息子なのも当たり前、みたいな扱いだったっけ。思いだしたらちょっと腹が立ってきた。
 俺だって頑張って来たんだからご褒美くらいもらってもいいよな。
 もう、会社のことなんて忘れてしまおう。どっちみち生き返ることなんてできないんだろうし。
「天国では仕事などしなくてもいいんです。生前働いてきたんだから、死後の世界ではのんびりしましょう。天上の風景の中で飽きるまで美食を貪り、怠惰を極め、娯楽を飽きるまで堪能すればいいのです」
 それを聞いて、俺らしくもなくウキウキした気分になって来た。
「天国というのはそういうものだと決まっているのです。極楽というのはそういうもの。楽園と聞いてみんなが思い浮かべるのはそういう場所です」
 言い聞かせるように説明されてみると、それもそうだという気になって来た。天国というものが苦しいものならば、誰だって真面目に生きる気など失せるだろう。
「これまで誠心誠意真面目に勤勉に生きてきたご褒美ですよ? 何をためらうことがあるんです?」
 ダメ押しにそこまで言われてしまえば、俺だって気持ちは変わってくる。
 そうだ、なんと言っても天国だ。俺には想像もできないほど愉快な生活が待っているのだろう。
「はい!」
 こうして俺は、天国に行った。


「いいところなんだけどなぁ……」
 そして、三日で飽きた。
 正確には三日なのかどうかもわからないけど。
 とにかく俺は、すぐに飽きた。飽きただけじゃなく、苦痛ですらあった。
「いいところならいいじゃないですか」
「あっ! もしかして、お食事がお口に合いません?」
「それとも寝床がお気に召しませんで? ふかふかのお布団より、せんべいの方がお好みでした?」「お芝居の演目が好みじゃなかったですか?」「新作小説は別のモノがよかったかしら……」「おやつは甘いものよりしょっぱいものの方が好き?」「いやいや、飲み物がダメなんだろう。紅茶よりコーヒーなんだろう」「添い寝ぬいぐるみよりCDの方がよかったかも。ヤンデレ男子の十八禁のがいいですかね?」「いやいや……」
 俺の小声のぼやきを素早く聞きつけ、お付きの者たちが一斉にしゃべりだす。
 天国に来た俺の生活の世話をするという名目で付き従ってくれる人たちだ。天国と聞くと天使がいるのかとイメージしていたが、特にそんなこともなかった。生きていた頃に嫌というほど見てきた人間そのものの外見をしている。外見だけでもなく、普通に人間そのものだ。
 みんな基本的に働き者のいい人たちだとは思うが、こう一気に来られると何とも言えない。俺はこういうの得意じゃないんだ。誰かに命令したり、何かをしてもらうこと自体慣れてない。
 しばらくちょっとした口論になり、彼ら彼女らは口をそろえて言った。
「いったい何が気に食わないんです?」
 向こう、数人。俺、一人。
 多勢に無勢ではないが、どうしても俺がいい負けるのは仕方がない。
「何が、というんじゃないんだ。ここでの生活はいたせりつくせりで贅沢だ。きっと大抵の人が想像する天国そのものだと思う。素晴らしいところだよ」
「じゃあ、何が不満です?」
 どうしても率直に言ってはいけない気がして、俺は遠回しになるよう言葉を選んだ。
「ただ、俺は働くことが身体に染みついてるんだろうな。こうまで楽だと逆に落ち着かないんだ。罪悪感すらある」
「そんな! ゆっくりくつろぐのが罪悪?」
「昔から常に何かしていたからな。それがもう癖というか、根っこになってるというか。働かないと苦しいんだ。働かなくてもいいと言われても、もうこれは俺の性分だから」
 君たちはちゃんと仕事してるだけで、君たちは何も悪くない。そう言っているつもりだ。
 その上で、俺は本当の望みを言う。
「頼む! 働かせてくれ!」
 俺は、死んでも俺だった。
 真面目に頑張って、毎日くたくたになるまで働いていないと落ち着かない。
 社畜と言われても仕方がないくらいの仕事中毒。そんな俺だから、天国は安息の地じゃないんだ。
「でもですよ。天国に来た人に労働は禁じられていますから」
「は?」
 お付きの一人がそんなことを言った。
 すぐに周りの者と顔を見合わせ、同じく頷いている。
「ダメです。天国に来た人は働いちゃいけません。そういう掟なんですから」
「そんな! ……なにも悪いことしたいって言ってるわけでもないし。いいじゃないか!」
「そう言われても。掟ですから」
「天国に来たんですから、好きなだけくつろいでくださいよ」
「そうそう。永遠にだらけていていいなんて羨ましいくらいですよ」
 口々にそんな言葉が聞こえてくる。
 天国ってこういう場所だったのか? 住人の意志なんてガン無視じゃないか。
 周囲を見回してみても、俺と同じ経緯でここにいるらしい人々はなんとも居心地の悪いとでも言いたげな顔をしている。
 そうか。天国に来るような人は、生前働き者だったり、人に命令するという発想がそもそもないような善人ばかりなのだ。だから好きなだけだらけていいという天国の掟とは相容れないんだ。きっとそうだ。
 働いてはならないという掟そのものが、天国の住人には苦痛でしかないんだ。
「ああ……また時間に追われた生活がしたい」
 俺にとっての天国は、仕事漬けのあの毎日だったのだ。まさか、天国に来てまで仕事のことを考えるとは思わなかったな。
 がっくりとうなだれて、俺は二度と戻らないあの忙しい日々に思いを馳せたのだった。
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