執筆応援企画SS集

ココロの音を奏でて

 わたしの世界には音しかない。
 世の中の大多数の人にはごく当たり前に見えるはずの目の前の風景は、わたしは認識することができない。一般の人が視界と呼んでいるものは、わたしにはただの白い空間だ。眼を開けていても閉じていても変わらない。視界の中には白が広がっている。まあ、実際に白というのはこんな色だと見本を見たことはないから、わたしがこれは白だと思っているだけなのではあるけれど。
 一度も何も見えたことがないわたしのような眼を、盲目と呼ぶらしい。
 生まれたときから光を見たこともなく、闇の暗さを意識したこともない。ずっと明るい白しか浮かんだことはないから。
 匂いや感覚はごくうっすらとわかる。ただし、これも他の人よりはるかに鈍感な感覚らしいと周りの人の言葉で悟った。周囲の人にはすぐわかる程度の匂いも気づくことはないし、触ったときの感触もよくわからない。体臭の類もわからないから、加齢臭というものもわからない。これは別に知らなくていいことなんだろう。
 代わりといってはなんだろうけど、わたしの耳は特殊なものらしいと物心ついたころにわかった。
 どんな小さな音でもわたしの耳は敏感にとらえて聞くことができる。似たような音だろうと些細な違いを聞き分けることができる。音だけで違和感を指摘できる。心臓の音は特によく聞こえるから、嘘をついていることもわかる。
 中でも周りの人が褒めてくれるのは、あらゆる音をドレミの音として聞くことができることだ。特に楽曲でなくとも、知らない曲でも即座に楽譜を起こすことができるのだ。騒音だろうが歌だろうが、とにかく音でさえあれば即座に頭の中で楽譜が出来上がる。
 こういった能力のことを絶対音感と呼ぶらしい。この耳を使って、わたしは趣味で曲を作ることもある。聞こえてきた音をそのままドレミに直して、楽譜に書き留めてもらうのだ。自分の聞こえた音をアレンジして人に聞いてもらうのは分かり合えた気持ちになる。
 周囲の人は、絶対音感なんてすごいと褒めてくれることが多い。だがいいことばかりでもなく、わたしは視界という感覚が欠けている分だけ音には敏感であり、それゆえに音程がずれている音が気になってたまらない。音程がずれた音楽を聴いているだけですぐに気分が悪くなるし、調子も悪くなる。
 そんなわけで、有象無象の音が漂う外など恐ろしくて出ていくことができない。ただでさえ、視力に難があるのだ。だから、そのあたりをしっかり理解してくれるヘルパーさんについていてもらわなくては生活が立ち行かない。幸い、視力と聴力に関すること以外は困っていないので、ヘルパーさんとはそれなりに上手くやっている。彼ら彼女らの音は多少の差こそあれ、気遣いの音がするのだ。
 子供のころは、自分の将来が不安で仕方がなかった。わたしにできる仕事があるのか、どうやって収入を得て、家事を行えるのか。子供はどうする、自宅は? 買い物だって一人では難しいのに。それ以前に外に出るにも音が厄介だ。
 視力の面でも不安が多いのに、加えてこの極度に敏感な耳。どんな仕事をして、どうやって自活していけばいいのだろう。このままではわたしは大人になっても引きこもっていることしかできない。
 高校生になるまでは自分の将来を悲観してばかりだったけれど、わたしは非常に幸運だった。
 当時着々とインターネットユーザーが増えていて、動画サイトも人気だった。わたしはそこに趣味で作った曲を投稿しており、ごく少数ではあるが好きだと言ってくれる人もいてくれた。それを知っていた親戚の知人の知人がわたしのことを知って訪ねてくれたから。
 音楽業界で下働きをしていると言っていたその人は新たな才能を探しているとのことで、投稿されていた少年少女作曲のものを手当たり次第に聞いていたという。とにかく新人を探して来いという上司の命令だといって。
 聞いてくれる人はいるにしても、わたしの知名度はまだまだ少なかった。サイトの利用者だって、ほとんどの人はわたしのことなど知らないだろう。それでも、好きだと言ってくれる人がいると聞いていたから、自分でも少しだけ自信が持てていたのだ。
 その人はわたしを訪ねる前にあらかじめ曲を聞いていてくれたらしく、最初から好意的だった。微かに聞こえる心臓の音も優しい音がしていた。
「はじめまして。君が奏ちゃん? 投稿していた曲を聞いたよ。とても素敵だった」
「ありがとうございます」
「奏ちゃんの曲って、聞いていて癒されるというか、なんだか優しい気持ちになれるんだよね。自信を失ったときでも、もうだめだって思ったときでも、そんなことはないんだよ、って世界が自分を祝福してると確信できるような……って、気障な言い方だったかな?」
「いえ……うれしいです」
 やはり華やかな業界の方だけあって、誉め言葉もあか抜けていた。こんな言葉を言われたのは初めてだし、照れくさかった。
 でも嘘じゃないと思えたのは、心臓の音がとても優しかったから。わたしは心臓の音もドレミで聞こえる。話ができる距離にいるくらいなら話声より少し小さいくらいの音量で聞こえる。
 作曲といっても、聞いていて落ち着く音をアレンジしただけだ。他の人は聞こえないみたいだけど、わたしからすれば一人一人みんな微妙に音が違って、好きな音を奏でる人と苦手な音を奏でる人がいる。
 実は動画サイトに投稿した曲はそうして作ったものなのだけど、これは誰にも言っていない。
「上司に君の曲を推してみたらね、これはいいって絶賛してたんだよ。滅多に人を褒めないから僕も驚いたよ。で、実際に会って来いって言われてたんだ」
「そうですか」
 どう返事をしていいのかわからないので、ぶっきらぼうな返事になってしまう。こんなわたしにも、この人は辛抱強く接してくれた。
 そして大変ありがたいことに、わたしにプロとして曲を作ってみないかと言ってくれたのだ。
 自分が就ける職業などごく限られている。その上、介助なしには仕事もままならない。
 困っていたわたしにとって渡りに船の提案だった。
「どうかな? 奏ちゃんさえよかったら、うちの会社と契約しないか? もっとたくさんの人にこの曲を届けたいんだ」
 最初は迷った。
 本当にやっていけるのか。わたしでいいのだろうか。もしかして騙されているのではないか。見えないことをいいことに、契約より安いお給料しかもらえないんじゃないか。
 逡巡するわたしの耳に心臓の音が聞こえてきた。嘘をついている人の音じゃなかった。
 当時はまだ契約とか組織の仕組みとか、そういったことはよくわからなかったけれど、この人の心臓の音を信じてみようと思った。
 そしてわたしは作曲家になった。


 高校を卒業して数年が経ち、わたしはどうにかプロとして作曲家を続けている。
 今のわたしは曲を作ることだけを考えている。生計を立てるための仕事として。社会人が会社に勤めるのと同じように。
 仕事にする前から趣味で作っていたものだし、生業にしてからもやり方は変えていない。自分にとって心地いい、波長の合う音をそのまま楽器に流し込んで演奏する。微調整はするけれども、明らかに違うものにはしない。
 最初はほんの少しの人にしか聞いてもらえなかったわたしの曲は、今は大勢の人が聞いてくれているらしい。
 動画サイトで配信した直後に視聴者数が目に見える数字になるのだとヘルパーさんが説明してくれた。より多く再生されたという事実こそが最大の評価だという。
 毎日チェックするたびに数字がこれだけ増えたとヘルパーさんが報告してくれるたびに、わたしは複雑な気分になる。ここのところその頻度は上がっていた。
 認められるのは嬉しいし、みんながわたしの曲で少しでも癒されるというのならばそれでいい。それが目的で曲を作っていたのだから、わたしだって本望というものだ。
 ただ、昔は好きなものだけを好きな時に好きなように作っていたわたしの曲は、今はより多くの人に受けるように調整するようになった。
 自分では気に入らない曲が出来上がったとしても、商業的に成功すればそれでいい。そんな前提で作るようになっている。いつしか、自分の好きなものを作るのではなく、大多数に受けるであろうものを作ることを強いられていた。
 人に知られて認められると同時に、わたしの口座には貯金が増えていく。
 たしかに必要なお金が増えていくのはありがたいことだ。みんながわたしの曲を認めてくれるのだってすごく光栄で嬉しいことだとわかっている。
 しかし、時々わたしは思うのだ。
 毎日次の新曲を作らなければならないと追い立てられるように過ごしているのに、相手の音に丁寧に耳を傾けられているのか、と。
 わたしはただ、大事な音を届けたいと思ったのではなかったのか。
 追い立てられるように決まったスケジュールを消化していく日々は本当にわたしが望んだものなのか。
 自分でもわからないそんな些細な疑問は次第に膨れ上がり、わたしは本当に自分が作りたかった曲が作れなくなった。心地よいと思っていたはずの曲まで癇に障る。こういうものをスランプというのだろう。
 とにかく売り上げのことだけを考えて、機械的に音を楽譜に落とし込むだけの作業をこなしていくうちに、わたしの感覚は、感性は鈍化していったのではないか。
 今まではとても心地がよかったはずのヘルパーさんたちの心臓の音は、いつしかとても耳障りなものとなり、頻繁にヘルパーさんと変更するようになっていた。別れの言葉を言われるたびに、わたしの中で自分でもどうすることのできないもやが広がっていく。
 もう、あんな不快な音は聞きたくない。
 心地よかったはずの周りの音は、今や聞こえてくるのが苦痛でたまらなくなった。聞きたくなくても敏感なわたしの耳はご丁寧にも微かな音も逃さず届けてくれる。
 耳をふさいでも聞こえてくるその音の波にすっかり弱り切っていたその頃、何人目かわからない新しいヘルパーさんがやってきた。
 もちろん、わたしの視界は相変わらず白一色で、その人の顔などわからない。
 情報がないのに、その人は何かが違うと感じた。
 その人は男の人だった。
 しばらくしてからようやく、その理由が心臓のリズムだと思った。聞いたことのない音だった。
「はじめまして」
 しかしそれでも、「彼」の音は澄み切っていた。
 とても優しくて規則正しい音だった。まるで機械のように一寸の狂いもない。なのに、冷たい感じはしない。むしろ相手のペースに合わせて距離を置いて見守っているような感じ。心地いい音。
 初めて対面したときにはしばらく聞き惚れてしまった。
「……」
「……」
 なのに、初対面なのに一言も発しないわたしに合わせてくれたのか、「彼」はずっと黙っていた。
 しばらくしてようやく我に返ったわたしの方が逆に焦ってしまう。
「……ごめんなさい。初めて聞いた音だったから」
「はじめて?」
「はい……今まで一度も聞いたことがない音だわ。聞いているだけで落ち着く。心がほぐれていくのを感じるの」
「ほぐれる?」
「落ち着くということよ」
「そうですか。落ち着くのならなによりです」
 これまではわたしがこんな態度でいると必ず相手は気分を害したものだ。言葉にしなくても音の乱れですぐにわかる。
 けれども「彼」は言葉通り、わたしの態度に気分を害したことはないらしかった。
「あなたが落ち着くのならば、それでいいのです」
「あなたみたいな人は初めてだわ。確かに、今までのヘルパーさんたちも親切だった。けど、それは仕事だからだった。あなたは仕事だと割り切っているの?」
「仕事といえばそれまでですが、私は自分のしていることがあなたのお役に立つのならばそれでいいのです」
 この言葉は偽りのない本心なのだろう。
 わたしにはそれがわかる。心臓の音は嘘をつかないから。
「あなたみたいな人、初めてよ」
 この時からわたしは、この「彼」が特別な存在だと直感した。同時に、ずっと離れたくないと思った。
 ただ音を聞いただけですぐにそんな風に考えるなんてどうかしている。自分でもそう思う。
 でもわたしは、考えたんじゃない。感じたんだ。その結果離れたくないと思ったのだ。相手を大事だと感じるのに、付き合いの長短など関係ない。
 誰よりも綺麗な音を持っているとても優しい人。わたしにとって必要な人。
 考える前にわたしの口から本心が出てくる。
「世の中みんながあなたみたいだったらいいのに」
 偽らざる本音もすぐに口に出したのは、この人にわたしのことを知ってほしかったから。傍にいてほしかったから。離れないで欲しかったから。
 きっと、わたしは彼の音を聞いた瞬間から好きになっていたのだろう。
 この優しい音だけをずっと聞いていたい。
「ありがとうございます」
 そう言った彼の音は、その瞬間だけとても悲しい音がした。
 だがすぐに元の音に戻った。
 わたしは少しだけ違和感を覚えたものの、スランプだった分を取り戻さなければという気持ちでいっぱいになった。彼の音をほぼそのまま譜面にして、ほんの少しの修正だけで書き上げた。心から楽しいと思えたのはいつぶりだろう。
 久しぶりに自分でも満足のできる曲を作ることができた。
 長い間のスランプから解放され、わたしはようやく爽やかな気分になれたのだ。もちろん、彼もいっしょに喜んでくれた。
 彼の音を聞いたおかげで、わたしは久しぶりに心から楽しんで作曲することができた。自分でもこれは今までで一番のお気に入りで最高傑作だと思った。
「あなたのおかげだわ。本当にありがとう」
「私は何もしていません。頑張ったのはあなたです」
 彼の音を楽譜に起こした曲は、巷でかなり人気が出たそうだ。
 やはり彼の音は特別なのだ。あの音に癒されるのはわたしだけではなかったのだ。自信を取り戻したわたしは彼の音をもっと聞いて、更に新曲を作ろうと意欲的になっていた。
 そろそろ彼が来る時刻だと心待ちにしていたのだが、一向に気配はない。チャイムも聞こえない。
 代わりに聞こえてくるのは、前と変わらない耳障りな雑音、騒音。耳をふさいでも追ってくる音の洪水に、わたしは気分が悪くなってその場に倒れこんだ。
「大丈夫ですか!」
 しばらくしてから聞き覚えのある女性の声がした。この人は確か前に変更をお願いしたヘルパーさんだ。
「まあ、無理なんてするものじゃありませんよ。さあ、肩を貸しますから、立ってください。ベッドで休みましょう」
「彼は?」
「彼?」
 怪訝そうな声音で、女性ヘルパーさんは聞き返す。
「新しく来てくれるようになったあのヘルパーさんよ」
「ああ、あれですか」
 「あれ」。
 心なしか冷たい言い方で彼女は納得したように呟く。
 なぜだろう。とても嫌な予感がする。
「あれ?」
「あなた、あれを人間だと思ってたんですか? ぼんやりとでも見えているかと思ってたんですけどねえ」
「どういうこと?」
 彼女に聞きたいことは彼のことだけだ。他のことはどうでもいい。
 自分の心臓がどくんどくんと脈打つのがわかる。わたしは聞いてはいけないことだとなんとなくわかっている。相手の口から出てくる言葉が、よいことのはずがない。なぜかそれははっきりとわかった。
 しかしそれでも、わたしは彼のことを聞かなくてはいけない。彼に会って話だけでもしたい。
「あれは人間じゃありませんって。なんでも、どこかの大学が介護士不足解消のためとかなんとか名目で開発したっていう、ロボットの試作品です。えーあい? を搭載した最新型だとか。ほら、介護ってなんだかんだで力仕事の重労働ですからね。ロボットにできるのなら助かるじゃないですか」
「……ろぼっと?」
 じゃあ、あの音は?
 誰よりも澄み切った、とても優しいあの音はなんだったの?
 わたしはあんなに綺麗な音なんて聞いたことがなかったのに。規則正しいリズムの中にあった優しさは確かなものだったのに。
「あれがあなたのことを連れ出そうと企んでたらしいですよ。外に連れて行ってあげたいとか言ってたそうで……」
「そと……」
 彼はわたしがずっとこの部屋に閉じ込められていると思ったのだ。だからきっと、わたしを連れ出してあげようと、きっと、きっとそう思ったんだ。
 あんなに素敵な音の持ち主なんだから。優しいから。
「えーあいだかなんだか知りませんけど、ロボットなら人間の言うことだけを聞いていればいいのにね。ちゃんとやることをやっていれば廃棄なんてされなかったのに。何を考えてるんでしょうね?」
「……」
 女性ヘルパーさんの音は、ひどく歪んでいる。ネガティブな音がする。聞くに堪えない。ノイズがギリギリとうるさい。
 彼の音は澄み切っていて、優しくて、とても綺麗だ。
 人間の音はこんなに醜いのに、彼の音は誰よりも綺麗だった。
 わたしの頬を暖かいものが伝っていくのを感じる。これは悲しみか失望か絶望か。あの音を聞くことは二度と叶わない。
 わたしはもう二度と、曲を作ることはないだろう。
 聞かせたい、聞いてほしいと思う相手は、もうこの世にはいないのだ。どこにもいないのだ。
 たとえ同じ部品を使って、同じシステムや同じAIを搭載したとしても、同じ「彼」にはなれないのだ。
「まだ、名前すら聞いていなかったのに……」
 わたしの心臓は自分の意志と連動するように激しく躍動を続け、音を奏で続けた。
 まるで鎮魂歌のようだとぼんやり思った。
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