666文字百物語

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  35、最期の「さようなら」  

 これは、近所のおばあちゃんから聞いた話です。
 そのおばあちゃんが若かったころ、旦那さんも存命だったんです。旦那さんは橋を渡って、片道五キロもある学校の教師でした。
 うちの地元は津波の被害に何度も遭ってきた土地柄だから、その時も新しい橋を作っている最中だったんです。とんとん、とんとん、って金づちで木製の橋をみんなで一生懸命に。
 その旦那さんも仕事が終わってもお付き合いというものがあります。そんなわけで彼は毎晩酒を呑んで返ってきたそうですが、若かったおばあちゃんは咎めませんでした。男は酒が呑めて一人前。そういう時代だったんです。
 もちろん今のように携帯電話なんて便利なものはありませんから、ただ朝に「今日も遅くなる」と一言だけ告げて出かけていくのです。
 その日もそうでした。
「今日も遅くなる」
「はいはい。子供たちも寝かしつけておきますよ」
 幼い子供を抱えていた若き日のおばあさんは言いました。いつものように酔っぱらって帰ってくることは、もうわかりきっていましたから、文句は言いません。
 しかし、夜になっても、待てども待てども夫は戻りません。
 心配になって、勤め先の学校に電話をかけても「もう帰った」としか教えてくれません。
 そしてその時、おばあさんは誰もいない所で聞いたそうです。
「さようなら」
 紛れもなく、旦那さんの声だったそうです。おばあさんは直感しました。
 ――あぁ、私の夫はもう死んだんだ。
 その直感はやはり当たっていて、翌朝には海の波打ち際に旦那さんの水死体が打ち上げられていたそうです。
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