モノクロガールズカレイドスコープ ⚙ サイドストーリー
エピソード:62
至近距離から聞こえる救急車のサイレンがいつまでも残響しているようだった。
救急隊員が手際よく処置を施す中、あたしはただ冬也の手を握っていた。
「冬也……だいじょうぶだからね。しっかりして」
「――病院にて受け入れ可能」
傍らの大人は何をしているのかはよくわからない。ただ緊迫した会話だけが聞こえた。
「早く……声を聞かせてよ」
なんでもいいから。
いつの間にか発車していた救急車の中であたしはそればかりを繰り返した。
病院に到着するまで、無限の時間が流れた気がした。
実際はそれほど経っていなかったのかもしれない。けれども患者の家族としては気が気じゃない。家族が救急車のお世話になる事態を経験したことがない人はきっと、「なんで冷静になれないの?」なんて言うんだろう。万一の事態の当事者になったことがないから偉そうなことが言えるのだ。
搬入口からストレッチャーに乗せられて運ばれた冬也は行きつく間もなく治療室に吸い込まれてゆく。
あたしにできることなんてない。
脳裏に浮かぶのは笑う冬也の顔。あの子に何かあったらなんて考えたくもない。
「冬也……!」
考えたくもないのに最悪の事態ばかり想像してしまうのはなぜだろう。
『手を尽くしましたが……』
『ご愁傷様です』
『最期まで懸命に頑張りましたよ』
もしもこんなことを医者に告げられたらどうしよう。
考えたくない。可能性すら頭の中から削除したい。あたしの頭から一刻も早く消えて欲しい。
そう願っても、楽しいことを思い出して上書きしようとしても、頭の中は最悪の想像で一杯で。あたししかいない病院の廊下は不気味なほど静まり返っていて、否応なしに「ここは死が日常の場所」なんだと突きつけられる気がした。
早く処置が終わって欲しい。
そしてなんでもなかったんだって言って欲しい。声を聞かせて欲しい。
冬也本人になんでもいいから喋って欲しい。
「!」
震えながらずっと処置室を見つめていたあたしは使用中のランプが消えた瞬間、ストレッチャーに駆け寄っていた。
「冬也……冬也!」
「大丈夫」
少し遅れて処置室から出てきた主治医は安心させるように言った。
「ほら……今は安定して、可愛い寝顔だ」
ガラガラと音を立てるストレッチャーに横たわった冬也はまだ意識は戻っていないようだけど、真っ青だった顔色はすっかり赤みが戻っていた。
ようやくあたしはほっと胸をなっで下すことができた。
安心して余裕が戻ると、病院で騒いではいけないという常識すら頭から吹き飛んでいたことを自覚した。
……よかった。
それしか言葉はない。帰宅したら冬也が倒れていた衝撃は未だに残っている。
だから医者の「大丈夫」という言葉にこれほど救われるんだ。
「君は」
冬也の寝顔を見つめていたあたしの耳に、主治医の先生の声が届いた。
「冬也君がとても大事なんだね」
「当たり前じゃないですか!」
反射的にあたしは返していた。
「冬也は……この子はあたしの弟。守るべき家族なんです」
言いながら冬也の頬に触れた。
あったかい。
何事もなかったんだ。最悪の事態なんてなかったんだ。
「……」
しばし頬の柔らかさを感じていたあたしに先生はやや硬い声で言った。
「君は……」
静かな廊下に硬い靴音が響く。
あたしは目だけでそちらを見た。
「多くを抱え過ぎだよ。子どもが背負えるものじゃない。主治医としてはもちろん冬也君が心配だが……」
やや言いづらそうだけど、先生は続ける。
「個人的には、私は君も心配だよ」
先生はずっと真面目な表情のままだ。
「君だって、まだ17やそこらの子どもだろ? 守られるべき立場だ。もっと……誰かを頼っていいんじゃないか」
「……」
あたしは何も返せずに黙り込む。
頼る? 子どもの頃は考えたこともある。
「もちろん君の家庭の事情も承知の上だが」
それを知った上で、敢えてそれを言うんだ。安心して暖かくなっていた気持ちが急激に冷えていくのを感じる。
「素直に助けを求めればきっと、助けてくれる誰かはいると思うがね」
「……」
助けてくれる誰か、って誰? 仮にその意思があったとしても、あたしの悩みの原因はおそらくお金で解決できる類のことだ。生活基盤に関することだ。
助けてくれるというなら、お金のことと我が家の家事を全部やってくれるの? それが「助ける」ってことだ。
「それより」
誰も頼るわけにはいかない。
あたしはわざと話題を変える。
「今回はどうして倒れたんですか? 安定してたんですよね?」
「あ……ああ」
あたしの態度から察したのか、先生はそれ以上踏み込んでこなかった。
「どうやら気持ちの問題らしい」
「気持ち?」
「何か……大きく心を揺さぶられたのかな?」
要は精神的な要因ということだろうか。ストレスなのか。
前まではここまで悪くなることはなかった。ということは、最近になって何か原因になる出来事があったということだろう。
「……何か?」
そしてあたしにはその心当たりがあった。
「……」
あたしの中にどす黒い何かが広がっていくのを感じた。
長かった夜が明けた次の日は、良く晴れた日だった。
昨夜の騒ぎでバタバタして、頭の中は冬也の事ばかり、その上深夜に帰宅した父さんと依子さんにそれまでのいきさつを説明して……こんな一日だったせいで、今日の授業もろくに頭に入ってこなかった。バスケのシュートを外したのは久しぶりだ。
案の定父さんと依子さんには「なんでちゃんと見ていなかったんだ」と詰られたし、自分でも僅かな変化に気づかなかったことに気が沈んだ。
親が仕事で忙しい以上は、あたしが家のことも冬也のことも全部こなさなければ我が家は即座に崩壊する。共働きでも家計に余裕がないのは冬也の治療費に当てているから。あたしがやるしかない。
昨日の出来事を引きずりつつ、昨日言われた冬也の急変の原因をずっと考えていた。そして間もなく答えは出た。
「希幸」
生徒会室に向かって歩いている希幸を見つけた。
ミサキちゃんと楽しそうに話している希幸を見ると無性にイライラして、気づいた時には胸ぐらをつかみ上げていた。
「?」
「どういうこと?」
「?」
希幸ははてなマークを浮かべるようなキョトンとした顔をしてじっとあたしを見る。
「何したの?」
希幸は答えない。
「何か言ったんでしょ!?」
「?」
「冬也に! 余計なこと!」
そもそも混乱している風にも見える。じれったくなってつい大声で怒鳴りつけていた。
「なんでそんなことするの? あたしから冬也に……例の話しようと思ってたのに」
希幸が願い事の話を冬也に言ったのだ。
それで冬也が考え込んでしまって。
「ち……ちが……」
大人びた子だから、きっと気にしなくていいことまで深々と考えてしまったんだ。考えすぎて、それがストレスになったんだ。
「あたしが!」
「……ない」
直接冬也に伝えようと思ってたのに!
「いってない」
希幸がか細い声で呟いた。
「わたし……そんな大事なこと」
希幸の目元からひとしずくの涙がこぼれた。
「誰にも言ってない……」
その悲しそうな希幸の顔を見て、ようやくあたしは我に返った。
生徒会室に入って一息入れてから、あたしは集まった生徒会のメンバーにこれまでのいきさつを話した。生徒会活動のために集まったところに激昂したあたしがいたら誰でも驚くだろうとチョコが軽口を叩いたけど。
「そうですか、弟さんが……それで願った」
会長が要点をまとめる。経緯が経緯なので皆揃って口が重いようだ。
「ごめん……取り乱して。最初はあんなこと言ってたのに、あっさり手のひら返してさ」
我ながら情けない。冬也のこととなるとついカッとなってしまう。
「挙句、人に当たるなんて。最低だあたし」
ぼやきながら希幸の方を見る。
「本当にごめん、希幸」
「いえ……」
希幸はさっきのことなどなかったかのようにいつも通りだった。この子のたまに妙に冷静で、意外とあっさりしているところに救われることも多い。
「……」
ミサキちゃんはさっきから口をつぐんだままだった。
「よかったじゃん」
生徒会室全体がしんとしている中、チョコが軽い口調で言った。
「! チョコ先輩!? そんな言い方……」
咎めるようなミサキちゃんを制し、チョコは続ける。
「だって、もし救急車が遅れてたら。最悪な事態になってたかもよ?」
「……」
もしかしたらミサキちゃんも同じように考えていたのかもしれない。それ以上何も言うことなく、彼女は再び黙り込んだ。
「もし間に合わなくて、後から悔いてもどうにもならない。何もなくて公開できるのはあくまでも結果論でしょ」
チョコの言うことは正論だ。
元々体の弱い冬也が深刻な状況になっていた可能性は十分にあるし、もっと最悪な結末になっていたかもしれない。
「必ずしも最善の結果が出るとは限らない。なら、『最悪にならなくてよかった』と思わない?」
チョコの言い分はぐうの音も出ないほど正しい。
本当に、反論の余地もない正論。
「いや〜よかったよかった! 願いが叶ってほんとよかった!」
ニコニコ笑いながらチョコが同意を求める。
「ね〜? 立花!」
それゆえに、あたしは猛烈な怒りがこみあげてきた。
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